第九章 シュンスケステーブル始動
______パドック大賞から三日後。
『黄金の馬蹄亭』の一室に、妙な面子が集まっていた。
テーブルの上座にどっかり座るリリアナ。その向かいに駿介、ローズ、そして——壁際に立ったまま動かないシルフィー。
シルフィーはフェルナンドとの契約を、パドック大賞の敗戦で一方的に打ち切られたところだった。途方に暮れていたところを駿介が声をかけた。
「……座れよ、シルフィー」
「立って待機している方が、効率的です」
「ここは厩舎じゃない。座れ」
シルフィーは三秒の間をおいて、椅子を引いた。背筋は完璧に伸びたまま、人形のように座る。
ローズがじろりと横目で見た。
「……相変わらず、食事は?」
「まだ摂取していません。レース後の調整期間中は——」
「焔リンゴ、食べるでしょ」
ドン、とローズが皿を押しつける。シルフィーは無言で受け取り、一口かじった。
その瞬間、わずかに目が見開かれる。
「……」
「美味しいでしょ。黙って食べなさい」
ローズが勝ち誇ったようにそっぽを向いた。駿介は苦笑いを噛み殺す。
そこへリリアナが、分厚い書類の束をテーブルに叩きつけた。
「では、参りましょう! 本日はシュンスケステーブル設立の契約締結会議ですわ!」
リリアナが羊皮紙を広げ、鷹のような目で一同を見回す。
「まず収益配分から。レース賞金、スポンサー収入、興行収益——全ての純利益から、マルク商会が三割を受け取ります」
「二割だと言っただろ」
「あれは交渉前の仮数字ですわ! 厩舎の運営費、馬具の調達、王都への移動費、宿代……全部私が立て替えているんですのよ?」
「二割五分」
「二割八分」
「二割五分」
「……二割六分。これ以上は死んでも譲りません」
駿介が頷く。リリアナが「ふふ」と笑い、素早くサインする。
「次。所属ジョッキーの問題ですわ。シュンスケ様はローズ様専任として、もう一頭分の騎手が必要です。シルフィー様は——」
「私は馬です。騎手ではありません」
シルフィーが淡々と言った。
「……そのことなんですが」
リリアナが指を組んだ。
「シルフィー様、貴女の馬体能力は測定限界突破。しかし貴女が馬型のまま出走するには、騎手が必要です。フェルナンド伯爵の下では魔法の鞭を持つ専属騎手がいましたが……このステーブルでは、人型でも馬型でも自由に選んでいただいて構いません」
「……自由」
シルフィーが、その言葉を口の中で転がした。
「自由に、選んでいい」
「ええ。貴女の意志で」
沈黙。
シルフィーは焔リンゴを一口かじり、窓の外を見た。
「……では、騎手が必要な時は自分で決めます」
「結構ですわ!」
リリアナが即座に契約書に書き込む。
「では騎手の件。実は——すでに一人、候補がいますの」
翌朝、厩舎代わりに借りた街はずれの馬場。
駿介が調教の準備をしていると、入口に人影が立った。
細身の体躯。耳の先がわずかに尖っている。青みがかった銀髪を一つに束ね、整った顔に感情らしい感情を乗せていない。
年は十七、八か。だが目だけが、ひどく疲れた大人の色をしていた。
「……神崎駿介、で合っていますか」
「ああ。あんたが、アイリス?」
「アイリス・フェン。ハーフエルフ。ジョッキー歴六年、通算成績——」
「いい。数字はリリアナに渡してくれ」
駿介が遮ると、アイリスが初めて眉を動かした。
「……成績を見ないんですか。普通、騎手の採用は実績から判断するものですが」
「パドック大賞、見てたんだろ?」
「……はい」
「じゃあ俺の騎乗も見たはずだ。気になることがあったから来た、違うか?」
アイリスは一秒、沈黙した。
「……第2コーナーの手綱さばき。あそこで内に切り込まず大外を選んだ理由が分からなかった。どう計算しても、内を突いた方が距離のロスは少ない」
「正解。ロスは少ない」
「では——」
「でも、ローズは内が嫌いだ。窮屈なところに押し込まれると、折り合いが崩れる。コンマ三秒のロスより、機嫌が悪くなる方が遅くなる」
アイリスの目が、かすかに見開かれた。
「……馬の気性を、コース取りの計算に入れる?」
「当たり前だろ。馬は機械じゃない」
その言葉が、アイリスの何かに触れた。
彼女はこれまで、数値と魔力効率でしかレースを組み立てたことがなかった。ハーフエルフゆえに馬に嫌われやすいと言われ続け、だから技術と頭脳で補い続けてきた。
「……もう一つ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「直線で手綱をしごいた時、ローズの瞳が変色した。あれは魔力ブーストの一種ですか。どういう原理で——」
「原理は分からん」
「……分からない?」
「俺とローズの間に流れるもんだ。数式には出ない」
アイリスが、長い間駿介を見つめた。
信じられない、という顔ではなかった。
——羨ましい、に近い顔だった。
「……私は、馬に好かれたことがありません」
ぽつりと言った。自分でも意外そうな顔で。
「ハーフエルフは魔力波長が不安定で、獣が警戒する。そう言われてきました。だから私は、技術で乗ってきた。馬の意志を読むより、最適な指示を出す方が早いと思っていたので」
「それで勝ってきたんだろ」
「……でも、貴方の乗り方を見て」
アイリスは珍しく、言葉を探した。
「私が積み上げてきた理論の、さらに上があると分かった。……悔しかったです」
駿介は少し考えてから、馬場の方へ顎をしゃくった。
「シルフィーがいる。今から調教だ。……乗ってみるか?」
「……いいんですか」
「合うかどうか、数字じゃ分からないからな」
馬場の柵の前。
シルフィーは馬型で立っていた。銀色の馬体が朝の光を弾いている。
アイリスが近づくと、シルフィーは一瞬、耳を後ろに向けた——警戒のサイン。
「……やはり、嫌がってますね」
アイリスが静かに言った。傷ついた様子はない。慣れている顔だった。
駿介が口を開こうとした時。
「……嫌いじゃない」
シルフィーが、ぼそりと言った。
「魔力波長が、静かだから。……うるさくない」
アイリスが、目を丸くした。
「……静かだから、嫌いじゃない」
「そう、です、か」
「乗っていい」
シルフィーが、ふいと顔を逸らした。耳がかすかに赤い——気がした。
アイリスはしばらく呆然としていたが、ゆっくりと手を伸ばした。シルフィーの首筋に、そっと触れる。
シルフィーは、避けなかった。
「……データを取らせてください。貴女の走りを、全部覚えます」
「……好きにすれば」
二人のクールな沈黙が、不思議と穏やかだった。
馬場の隅で、ローズが腕を組んで見ていた。
「……シュンスケ」
「ん」
「あのハーフエルフ、気に入らないわけじゃないけど」
「うん」
「あなたにばっかり質問して、目がうるさいわね」
「……ローズ」
「なに」
「嫉妬か?」
三秒の沈黙。
「——次の調教、全力で走ってやるから覚悟しなさいよ!!」
その夜、リリアナは完成した契約書を前に、ひとり満足げに呟いた。
「シュンスケステーブル、始動ですわ……。ふふ、ふふふ……。王都の賞金総額、全部計算し直さないと……」
灯りの下で、金勘定の帳面が、夜通し埋まっていった。




