第八章 パドック大賞
——パドック大賞、当日。
街の外周コースとは比べ物にならない、正規の競馬場。観客席は朝から人で埋まり、街の空気ごと沸騰していた。
出走馬は十二頭。だが誰もが知っていた。
今日のレースの本質は、二頭の一騎打ちだ、と。
「ローズ様、出走前の必勝祈願に、特製の焔リンゴ煮込みを——」
「もう食べたわよ。三皿」
「ではお守りとして私の商会の紋章を——」
「邪魔だから要らない。……あと、うるさい」
リリアナが肩を落とす横で、駿介は静かにローズの馬体を確認していた。
脚の状態、息の入り方、目の輝き。長年の勘が、今日のローズが「いい状態だ」と告げている。
「……ローズ。今日、無理はするな」
「は? 何を言い出すわけ」
「あの銀馬、ただ速いだけじゃない。昨日の調教を見た。魔力制御の精度が人間の域を超えてる。……サイボーグみたいな走りだ」
駿介は声を落とした。
「機械と張り合う必要はない。俺たちのレースをするだけでいい」
ローズが、じっと駿介を見た。
「……シュンスケ」
「ん」
「あなた、心配してるの?」
「……そういうわけじゃ——」
「してるじゃない」
ローズは鼻先を駿介の胸にぐいと押しつけた。
「……いいわよ。覚えておいて。私が負けるのは、骨が折れてもう走れない時だけ。……あなたが背中にいる限り、脚を止める気なんてないから」
駿介は何も言わなかった。ただ、ローズの首筋を一度だけ、強く叩いた。
パドック内。
ローズはゲート前で他の出走馬を眺めながら、銀色の影を探した。
いた。
シルフィーは離れた場所に立ち、一切周囲を見ていなかった。担当の厩務員が声をかけても反応せず、ただまっすぐ、ゴール板の方向だけを見ている。
「……」
ローズはしばらく観察してから、静かに近づいた。
「ねえ、銀色」
シルフィーが、初めて視線を動かした。
「……なに」
「あなた、今朝何を食べたの」
「……摂取カロリーと魔力効率に最適化された調合飼料を、規定量」
「……最悪ね」
ローズが心底嫌そうな顔をした。
「美味しかった?」
「……美味しいとか、そういう概念で食べていない」
「じゃあなんで走るの」
シルフィーが、初めて表情を揺らした。一瞬だけ、傷のような何かが目を過ぎる。
「……命令、だから」
「ふーん」
ローズは鼻を鳴らし、踵を返した。
「そう。じゃあ今日、私が勝ったら——美味しいものって何か、教えてあげるわ」
シルフィーは答えなかった。
ただ、その細い手首の傷跡を、無意識に握りしめた。
発送時間が近づく。各馬がゲートに収まっていく。
ゲートが開いた。
先行争いを尻目に、シルフィーは静かに動いた。
速い——のではない。無駄がない。一完歩ごとの着地が、コンマ以下の誤差で計算され、風すら制御下に置いているような走り。魔力の消費効率、ペース配分、他馬との位置取り。すべてが「最適解」だった。
「……あれが『無風の領域』か」
実況席でバルガスが唸った。
「フェルナンド伯爵が七年かけて作り上げた怪物。感情を排した完璧な走り……。まるで魔導機械が走っているみたいだ」
対するローズは中団、大外。
駿介は前半、徹底して手綱を抑えた。ローズが前に行きたがるのを、体全体で宥める。
「……まだだ、ローズ。我慢しろ」
「っ……分かってる……。でも、あの走り——感情がない。怖くないの、あれが!?」
「怖くない」
「なんで!?」
「機械は、壊れる時が来る。お前は——限界を超える」
ローズが、ふっと息を吐いた。
第3コーナー。
シルフィーのペースが、コンマ一秒単位で加速を始めた。最終直線に向け、最適化された魔力解放。観客席がどよめく。
「シルフィー、動いた! これが噂の精密加速——まるで時計仕掛けだ!」
その瞬間、シルフィーの頭の中に、伯爵の声が響いた。
〈——先頭を取れ。黒薔薇を視界から消せ。お前の仕事はそれだけだ〉
魔力制御の補助装置——鞭の痕から神経に刻まれた「命令回路」が、シルフィーの脚を自動的に動かす。
自分で走っているのか、走らされているのか、もう分からなかった。
ただ——。
刹那、シルフィーの視界に、黒い影が映った。
大外から来る。荒れた砂地を蹴り、風を割り、一完歩ごとに加速していく黒い馬体。
その背に乗った男の顔が、見えた。
叫んでいた。
「——ローズ、今だ!! 俺の魔力を全部やる。……弾けろ!!」
手綱から、電流のような何かが流れてきた。
シルフィーには、分からなかった。
あれは何だ。魔力のブースト? 違う。数値に出ない何かが、あの黒い馬体から溢れ出している。
「——っ! あんな無機質な走りに、負けるわけないでしょぉぉ!!」
ローズの瞳が、深紅に燃え上がった。
折り合いの特訓で貯めに貯めた魔力が、四肢の末端まで一気に解放される。
シルフィーの「無風の領域」——完璧な計算で作られた静寂の支配圏——に、黒い嵐が正面からぶつかった。
「……え……?」
シルフィーの体が、揺れた。
あり得ない。計算では、この区間で並ばれる可能性はゼロだった。魔力効率、ペース配分、全ての数値が「安全圏」を示していた。
「なぜ、届くの……? 命令は、完璧だったはず……」
「命令じゃない——信頼なんだよ!!」
駿介の声が、轟いた。
命令で動く脚と、信頼で弾ける脚。
同じ「オーダー」という言葉が、シルフィーの命令回路をぐらりと揺さぶった。
ゴール板まで、残り百メートル。
二頭は、ほぼ同時に並んでいた。
シルフィーの頭の中で、命令回路が悲鳴を上げた。計算外。想定外。出力限界。
だが——。
シルフィーは、何かに気づいてしまった。
隣のローズの横顔を、初めてちゃんと見た。
怖がっていない。苦しがっていない。
——楽しそうだった。
〈走るのが、楽しいのか……〉
シルフィーは生まれて初めて、命令回路ではなく、自分の心に問いかけた。
その一瞬の揺らぎが、コンマ二秒の遅れを生んだ。
「——ゴォォォォルッ!!!」
割れるような歓声。
着差、ハナ。
辛うじて、黒い鼻先が、銀の鼻先を制した。
ゴールを過ぎた後、ローズは荒い息をつきながら、隣を走るシルフィーを横目で見た。
「……私の勝ちよ」
「……」
「覚えてる? 勝ったら、美味しいものを教えてあげるって言ったわ」
シルフィーは答えなかった。でも、逃げなかった。
「焔リンゴよ。噛んだ瞬間、果汁が爆発するやつ。……あなた、食べたことある?」
「……ない」
「じゃあ食べなさい。命令よ」
ローズが、不敵に笑った。
「あなたも、走ったあとはお腹が空くでしょ」
シルフィーは、長い沈黙の後——ほんの少しだけ、目を細めた。
観客席で、リリアナが泣きながら帳面を広げていた。
「ゆ、優勝配当……。スポンサー収入……。王都への出走権……。ふふ、ふふふ……! 金貨が、金貨が降ってくるわぁ……!!」
「リリアナさん、顔が怖いですよ」
隣の街の人間が、そっと距離を置いた。
そしてその夜。
フェルナンド伯爵の使者ガルシアは、蒼白な顔でパドックを去った。
馬車の中で、彼は震えながら主君への報告書を書いた。
〈——シルフィードは敗れました。しかし問題は、それだけではありません〉
〈あの黒い馬と騎手の間に流れていたもの。あれは、主君が七年かけて解析しようとした「絆」の正体です〉
〈数値化できません。制御できません。そして——〉
〈シルフィードが、最後の一瞬、命令を忘れていました〉
ガルシアは筆を止め、窓の外、パドックの灯りを見た。
〈あの黒薔薇と御者……。王都に連れてくるのは、得策ではないかもしれません〉
しかし、返ってくる主君の魔力文書は、一言だった。
〈——面白い。本物の場所で試してやれ。次は王都の舞台で、私自ら潰す〉
ノンビリ書いてますが、リアクションあると嬉しいです!




