第七章 王都からの刺客
翌朝。
『黄金の馬蹄亭』の食堂は、昨日の決闘の噂を聞きつけた街の住人でごった返していた。
「ほら見ろよ、あの黒髪の娘が例の神馬様か?」
「信じられん……あのガストンを一蹴したんだろ?」
囁き声が飛び交う中、当の本人ローズは、朝から山盛りの焔リンゴを頬張りながら、完全に無関心だった。
「シュンスケ、この燻製肉、昨日のより固いわ。文句言いなさい」
「お前が食いすぎて在庫が減ったんだ、我慢しろ」
リリアナが帳面に何かを書き込みながら、テーブルに身を乗り出してくる。
「お二人とも、大変な朗報ですわ! 昨日の決闘の件、もうパドック中に広まっています。今朝だけで、私の商会に十七件の問い合わせが来ました。観戦料、馬券の仲介、スポンサー契約……試算では初月から金貨三百枚は堅いですわ!」
リリアナの目に、朝の陽光よりも眩しい輝きが宿っている。
「……リリアナ、その目、馬主みたいだな」
「馬主? ああ、この世界では『後援主パトロン』と申しますわ。……ふふ、まさに! 私はローズ様とシュンスケ様に投資する、この大陸一の後援主になる予定ですもの!」
「金の話は後でいい」
ローズが燻製肉の骨を皿に投げた。
「それより、さっきから外がうるさいわ。……シュンスケ、見てきなさい」
「……自分で見ろよ」
だが、駿介が立ち上がるより先に、食堂の扉が大きく開いた。
現れたのは、一人の男だった。
仕立ての良い黒いコートに、胸元に金の刺繍。年は四十前後、人好きのする笑顔の奥に、値踏みするような目を隠した男。
「失礼、こちらに昨日の『英雄』がいると聞きまして」
男はテーブルに近づくと、大仰に礼をした。
「私、フェルナンド伯爵家の者、ガルシアと申します。主君の名代として、是非ともお二人にご挨拶を、と」
リリアナの眉が、ピクリと動いた。
「……フェルナンド伯爵。王都一の大馬主、いえ——後援主として名高い方ですわね」
「ご存知で光栄です、お嬢様。主君は昨日の噂を聞き、大変興味を持っておられます。何より……」
ガルシアの視線が、ローズに向いた。
「あの『黒薔薇神馬』が実在するとなれば、主君のコレクションに加えたい、と」
食堂の空気が、一瞬で変わった。
「……コレクション」
ローズが、ゆっくりと顔を上げる。
「昨日も似たようなことを言った男が、壁を突き破って飛んでいったのだけど」
「ローズ」
駿介が小声で制した。ガルシアは笑顔を崩さない。
「いえいえ、誤解をさせてしまいましたね。主君は、あなた方を招待したいのです。次の大陸選手権『アストラル・ダービー』に向けた前哨戦、来月開催の『パドック大賞』。そこへの出走権と、後援をご提案したい、と」
リリアナが、さりげなく駿介の袖を引いた。
「(パドック大賞は王都に繋がる登竜門ですわ。優勝者には王都の大舞台への優先出走権が与えられます。ただし……フェルナンド伯爵は、後援した馬主の権利を七割持っていくことで有名な食わせ者ですわよ)」
「(やっぱりそういう話か)」
駿介がガルシアに向き直る。
「話は聞いた。……伯爵への返事は、少し時間をもらえるか?」
「もちろん。ただ——」
ガルシアは最後だけ、笑みを消した。
「主君は気の長い方ではありません。返事は今日中に、ということでよろしく」
男が去った後、リリアナが唇を噛んだ。
「……あの方が来たということは、すでにパドック中に手を回している可能性がありますわ。断れば、この街での活動に支障が出るかも……」
「断る理由がないだろ」
駿介は窓の外を見た。ガルシアが馬車に乗り込んでいく。その馬車の御者台、一瞬だけ——銀色の何かが、光った気がした。
「……レースに出たいのは俺たちも同じだ。条件を交渉すりゃいい」
「でも、フェルナンド伯爵の条件は——」
「リリアナ、あんたが後援主だろ」
駿介がにやりと笑う。
「俺たちをフェルナンドより先に抑えておけ。……伯爵が七割持っていくなら、あんたは何割だ?」
リリアナの瞳に、太陽が昇った。
「……三割。利益の三割をいただきますわ!」
「高いな」
「二割五分! これ以上は負けませんわよ!」
「……ローズ、どう思う?」
ローズは燻製肉の最後の一切れを口に放り込み、興味なさそうに答えた。
「勝手にしなさい。……ただ、一つだけ」
彼女は窓の外、ガルシアの馬車が消えた方角を見据えた。
「さっき、あの馬車に乗った何か——私を見てたわ。銀色の、ずいぶんと足の速そうな気配がした」
駿介の目が細くなる。
「……お前が言うか」
「私の感覚は外れないわよ。……面白い。久しぶりに、同じ匂いがした」
ローズの口元に、笑みが浮かんだ。勝負師の、冷たい笑み。
「ライバルの匂い、よ」
その夜。
パドックの外れ、廃屋になった古い厩舎。
月光の中に、銀色の影が立っていた。
白銀の長髪。研ぎ澄まされた顔立ち。馬の耳と尾を持ちながら、その佇まいは剣のように冷たい。
彼女の名は、シルフィー。
フェルナンド伯爵が、七年かけて「調教」した伝説の銀馬。魔法の鞭によって刻み込まれた絶対服従と、その鞭への恐怖が、今もなお彼女の体に染みついている。
シルフィーは月を見上げ、静かに呟いた。
「……黒薔薇。本当に、いるのね」
伝承は知っていた。だが、信じてはいなかった。
あの馬車の中から感じた気配——今まで感じたことのない純粋な速さの奔流。鞭でも魔力でも作られていない、ただ「走りたい」という意志だけで生まれた力。
「……私には、ない」
シルフィーは自分の手を見下ろした。細い手首には、かつて魔法の鞭で打たれた痕が残っている。
彼女に与えられた命令は一つ。
パドック大賞で黒薔薇を叩き潰し、その「御者とやら」を伯爵の前に跪かせること。
「……命令通りに走る。それだけが、私の全てだから」
銀色の髪が、夜風に揺れた。




