第二章 草原の出会い
静寂が戻った草原で、駿介は目の前の光景を飲み込もうと必死だった。
つい数分前まで、数万人の歓声を浴びていたはずが、今は返り血で汚れた勝負服を着て、漆黒の髪の美少女に胸ぐらを掴まれている。
「……ローズ、お前、本当にローズなのか?」
「失礼ね。この鋭い目つきと、誰よりも美しい髪……馬体の輝きを見ればわかるでしょ。……それよりシュンスケ、さっきから変な声で鳴くのをやめなさいよ。聞き取りづらいわ」
ローズが呆れたように溜息をつく。その時、駿介は決定的な違和感に気づいた。
ローズが喋っているのではない。彼女の言葉が、脳内に直接「意味」として流れ込んでくるのだ。
「……テレパシーか? いや、それより……」
駿介が視線を向けると、馬車の陰から、金髪の少女が震えながらこちらを見上げていた。
「ああ……神よ……。黒き髪の乙女に、星を纏う御者様……。伝承は、真実だったのですね……」
少女は泥だらけの服も気にせず、地面に膝をつき、祈るように両手を組んだ。
「待ってくれ、俺は神様じゃない。ただの騎手……ジョッキーだ。あんた、名前は?」
「わ、私は……リリアナ・マルク。この先の自由都市パドックを拠点とする『マルク商会』の娘です。……あ、あの、お言葉が通じるなんて光栄です! 古の言葉を操る方々だと思っておりましたので……」
リリアナは涙を拭い、混乱する駿介にこの世界の「常識」を語り始めた。
「ここは『エリュシオン大陸』。精霊と魔力が万物を司る世界です。私たちが襲われていたのは、この辺域に巣食うオーク共……。本来、一隊の騎士がいなければ太刀打ちできない化物なのですが、それを、まさかたった一頭……いえ、お一人で……」
リリアナの視線が、不機嫌そうに爪の手入れをしているローズに向く。
「この地方には、古くから伝わる壁画があるのです。世界が闇に包まれた時、大外からすべてを抜き去る『黒薔薇の神馬』が現れると。……今の貴女様の走りは、まさにその伝説……『神速の末脚』そのものでした!」
「末脚? ふん、人間にしてはいい言葉を知ってるじゃない」
ローズが少しだけ表情を和らげ、ツンと胸を張る。駿介はこめかみを押さえた。
「神馬か……。おいリリアナさん、一つ聞きたいんだが。この世界に『競馬』……いや、馬を走らせて競うような文化はあるのか?」
「競馬……ですか? はい、もちろん! この世界では、騎獣の強さこそが国力。各地の聖域を繋ぐ『アストラル・ダービー』は、全大陸が熱狂する最大の祭典です。勝者は王に等しい名誉を得ると言われていますが……」
リリアナは不思議そうに首を傾げた。
「でも、御者様。この世界の常識では、獣は魔法の鞭で『支配』して走らせるもの。貴方のように、手綱一つで意思を通わせるなど……ありえません」
駿介の口角が、無意識に上がった。
支配ではなく、対話。魔法ではなく、技術。
「……面白いな。ローズ、聞いたか? どうやらここでも、俺たちのやることは変わらないらしいぞ」
「……当たり前よ。どこだろうと、私の前を走らせるなんて許さない。……でもシュンスケ、その前に一つだけ言っておくわ」
ローズが駿介の腹を指先で小突く。
「さっきからお腹が鳴って、集中できないの。……このリリアナって子が持ってる美味しそうな匂いの袋。あれ、全部私のものよね?」
「……。ああ、リリアナさん。ひとまず俺たちを街まで連れてってくれないか。この『神馬様』、お腹が空くと機嫌が最高に悪くなるんだ」
「はい! もちろんです、御者様! 最高級の魔力燕麦と果実、ありったけ用意させますわ!」
こうして、一人のジョッキーと一頭の牝馬は、異世界のパドックへと最初の一歩を踏み出した。
パドックの街へ向かう馬車の荷台。リリアナが恭しく差し出したのは、銀の皿に盛られた拳ほどもある真っ赤な果実と、蜂蜜のように黄金色に輝く煮込み料理だった。
「……これ、何? 変な色ね」
ローズは人型の姿で、椅子にふんぞり返りながら皿をツンと突いた。
「これは『焔リンゴ』と、魔力燕麦を特製の山羊乳で煮込んだものです。神馬様の活力を呼び覚ます、最高級の供え物でございますわ!」
リリアナが頬を紅潮させて説明する。
「ふん。私は栗東の厳しい食事制限を勝ち抜いてきたのよ。こんな得体の知れないもの……」
そう言いながらも、ローズの鼻がピクピクと動いた。立ち昇る甘い香りが、激戦を終えたばかりの彼女の胃袋をダイレクトに刺激する。
「……一口だけよ。シュンスケ、毒味しなさい」
「はいはい。……ん、これ、美味いぞ。甘酸っぱくて、力が湧いてくる感じだ」
駿介が先に一口かじると、ローズは待ってましたと言わんばかりに、皿をひったくった。
パクリ。
小さな口で焔リンゴを咀嚼した瞬間、ローズの動きが止まった。
「…………ッ!!」
カッ、と目が見開かれる。
「な、何これ……! 噛んだ瞬間、果汁が爆発したわ! それにこの麦、噛めば噛むほど魔力が喉を通って、全身の毛並みが逆立つみたい……!」
「ローズ、お前、口の周りベタベタだぞ」
「うるさいわね! 走った後は糖分が必要なのよ!」
そこからは、まさに「レコードタイム」の爆食だった。
一口、二口どころではない。ローズはスプーンを投げ捨て、皿を持ち上げて黄金色の煮込みを喉に流し込む。
「はふっ、熱っ、でも止まらない……! リリアナ、おかわり! あと、あっちの干し肉もこっちに寄せなさい!」
「は、はい! お喜びいただけて光栄ですっ!」
数分後。
山積みだった食料はすべてローズの胃袋に消え、彼女は椅子の背もたれに深く体重を預けていた。
口元をだらしなく緩め、お腹をさすりながら、満足げにふぅーっと息を吐く。
「……合格よ。異世界も、案外捨てたもんじゃないわね」
「おいローズ、食いすぎだ。その腹じゃ、明日からハロン13秒(少し速めの調教)でも絞りきれないぞ」
駿介が呆れて言うと、ローズは少しだけ顔を赤くして、そっぽを向いた。
「……関係ないわよ。計量がないんだから、勝てばいいんでしょ、勝てば。それに……」
彼女は小声で、駿介にだけ聞こえるように呟いた。
「……美味しいものを食べると、次の直線、もっと頑張れる気がするし」
「……そうかよ。じゃあ、次のレースも勝って、もっと美味いもん食わせてもらうか」
「当たり前よ。……リリアナ! さっきの赤い実、あと三つくらい残ってないの!?」
伝説の神馬は、異世界のグルメという最大の「障害」に、早くも完敗したようだった。




