第一二章 クラウンステークス
王都レガリア。
パドックとは比べ物にならない規模の競馬場、王立競技場『クラウンフィールド』。白亜の観客席が幾重にも重なり、芝の緑が陽光を弾いている。収容人数三万。今日は満員だった。
「クラウンステークス」は王都の最大レース、セントラルダービーの登竜門だ。駿介はローズとシルフィーの二頭のワンツーフィニッシュを成し遂げるつもりでのぞむ。
「……でかいわね」
ローズが馬型のまま、競技場を見上げた。
「パドックの三倍はあるか」
「私の走りを見るのに、ちょうどいい広さよ」
「相変わらずだな」
駿介が苦笑いしながらパドックの馬場を確認していると、リリアナが血相を変えて駆け込んできた。
「大変ですわ! 今日の出走表、見ましたか!?」
リリアナが広げた紙を見て、駿介は目を細めた。
今日のレース、出走馬十二頭。その中に、見覚えのある馬主名が三つ並んでいた。
フェルナンド伯爵所有馬——三頭。
「……三頭か」
「全部、王都でも指折りの実力馬ですわ。先行馬、差し馬、追込馬と脚質もバラバラ。どう動いても、フェルナンドの馬が絡んでくる布陣です」
「組織票か」駿介が腕を組んだ。「競馬じゃなくて、潰しに来てる」
「ローズ様を内に閉じ込めて、シルフィー様の逃げを潰す。同時に両方狙える陣形ですわ……。どうするんですの?」
駿介は少し考えてから、シルフィーのいる厩舎に向かった。
シルフィーはアイリスに手綱の最終確認をされながら、静かに立っていた。
「シルフィー、一つ頼みたい」
駿介が正面に立った。
「聞いてる」
「今日、お前に逃げてほしい。ただの逃げじゃない。フェルナンドの三頭を全部、後ろに置き去りにするペースで」
シルフィーの目が、かすかに動いた。
「……潰れる可能性がある」
「ある」駿介が頷いた。「無理にとは言わない。ただ——」
「ローズの末脚を活かすために?」
「そうだ。お前が前で蓋をしてくれれば、フェルナンドの馬は動くに動けない。その隙にローズが——」
「分かった」
シルフィーが遮った。
「やる」
「シルフィー」アイリスが手綱を持ったまま言った。「本当に大丈夫? 今日のペースは——」
「アイリス」
「……なに」
「貴女が感じた通りに乗ってくれれば、私は走れる」
アイリスが目を丸くした。
シルフィーが続けた。
「数値じゃなく、私の呼吸で判断して。貴女なら、できる」
アイリスは少しの間、シルフィーの目を見た。それからゆっくりと、記録板を地面に置いた。
「……分かりました」
返し馬。
パドックを周回する十二頭の中で、シルフィーの動きだけが違った。
音がしない。蹄の音が、ほとんど聞こえない。
観客席がざわめいた。
「……なんだ、あの銀色の馬。浮いてるみたいだ」
「魔力反応がほぼゼロ。なのになぜあんなに速い……?」
実況席のミラが身を乗り出した。
「おっと! シュンスケステーブルの二番手、シルフィー! 返し馬から別次元の動きを見せています! まるで地面に触れていないような、これが噂の『無重力の逃げ』か!?」
一方、フェルナンドの馬たちは三頭が固まって周回していた。
その馬上、厩舎関係者に変装したフェルナンド伯爵の腹心が、耳打ちする。
「作戦通りです。一番手がシルフィー、二番手でローズが控える。シルフィーを先行二頭で挟んでペースを殺し、ローズには三頭目が蓋をします」
「ふん」
観客席の貴賓室。フェルナンド伯爵がワインを傾けながら、馬場を見下ろした。
「パドックの借りを返す時が来た。……あの黒い馬、今日こそ私のコレクションに加えてやる」
ゲートが開いた。
シルフィーが、飛び出した。
先手必勝——ではなく、まるで最初からそこにいたように、気づけば先頭にいた。
「シルフィー、先手を取った! しかしフェルナンドの先行馬二頭が並びかける! 早くも包囲網の形成か!?」
フェルナンドの二頭が、シルフィーの両側に並んだ。
内から締める。外から圧力をかける。ペースを落とさせて、後続に飲み込ませる。
だが——。
「アイリス」
シルフィーが念話で呼んだ。
「聞こえてる」
「今から上げる。振り落とされないで」
「……貴女の呼吸に合わせます」
シルフィーの耳が、ぴんと立った。
次の一完歩。
ズドン、という衝撃が、フェルナンドの二頭の騎手に走った。
気づいた時には、銀色の馬体は三馬身前にいた。
「な——何が起きた!? シルフィー、一瞬で加速! フェルナンドの包囲網を、ペースで粉砕した! 速い、速すぎる! 魔力を使っていない、あれは純粋な脚だ!!」
アイリスは手綱を短く持ち、シルフィーの首筋に顔を寄せた。
数値は見ていない。ラップも計算していない。
ただ、シルフィーの呼吸だけを聞いていた。
規則正しい、澄んだ息。乱れていない。まだ余裕がある。
「……シルフィー、まだ行ける?」
「行ける」
「じゃあ——もう少しだけ、待って」
シルフィーが、かすかに笑った気がした。
後方。
駿介はローズの背で、前の展開を読んでいた。
フェルナンドの三頭目が、ぴったりとローズの外につけている。どこに動いても、蓋をされる布陣だ。
「……シュンスケ、うるさいのが外にいるわ」
「分かってる。焦るな」
「焦ってないわよ。ただ——」
ローズの鼻がひくりと動いた。
「シルフィーの息が聞こえる。まだ乱れてない」
「ああ」
「あの子、本当に走ってる。命令じゃなく」
駿介は何も言わなかった。
第3コーナー。
フェルナンドの三頭目が、ローズを内に押し込もうと動いた。
その瞬間——。
「ローズ、外だ」
「分かってる」
外に一歩。フェルナンドの馬が追ってくる。また外に一歩。
駿介が手綱を緩めた。
「……行けるか」
「当たり前よ」
ローズの瞳が、深紅に染まった。
「シルフィーが作ってくれた道を、無駄にするわけないじゃない」
直線。
先頭はシルフィー。後続を五馬身引き離したまま、一分の乱れもなく走っている。
フェルナンドの馬たちは、シルフィーのペースに引きずられて脚が上がっていた。
「シルフィー、依然として先頭! しかし大外から黒い影が来た! ブラックローズ、大外一気!!」
ローズが加速した。
一完歩ごとに、馬群が後ろに消えていく。フェルナンドの三頭目が必死に食らいつこうとするが、次の一完歩で視界から消えた。
残り二百メートル。
先頭のシルフィーと、外から来るローズ。
二頭の差が、縮まっていく。
「シルフィー——!」
アイリスが叫んだ。叫ぶつもりはなかったのに、出てしまった。
「——もう少し、だけ!」
シルフィーの耳が動いた。
最後の直線、残り百メートル。
シルフィーの脚が、もう一段、上がった。
限界のさらに向こう。命令回路ではなく、自分の意志で踏み込んだ、生まれて初めての「全力」。
ローズが迫る。差が縮まる。
ゴール板。
二頭がほぼ同時に駆け抜けた。
「——ワンツーフィニッシュ!! 一着シルフィー、二着ブラックローズ! シュンスケステーブルが、王都デビュー戦でいきなり上位を独占した!!」
割れるような歓声。
シルフィーはゴールを過ぎてから、ゆっくりと歩みを止めた。
荒い息をついている。初めて、息が乱れていた。
アイリスが馬上から、シルフィーの首筋に手を当てた。
「……頑張ったね」
シルフィーは何も言わなかった。
ただ、アイリスの手に、そっと頭を預けた。
ローズが人型に戻り、隣に並んだ。
「……一着、持っていったわね」
「……ごめん」
「謝らなくていい」
ローズが鼻を鳴らした。
「私が差し切れなかっただけよ。……でも」
ローズが、珍しく真っ直ぐにシルフィーを見た。
「あの最後の百メートル。脚が上がりかけてたのに、もう一段踏んだでしょ」
「……うん」
「誰かのために走ったの、初めて?」
シルフィーが、長い間黙っていた。
「……初めて」
「そう」
ローズがそっぽを向いた。耳がわずかに赤い。
「……悪くない走りだったわ。合格」
貴賓室。
フェルナンド伯爵が、静かにワインを置いた。
三頭とも、まともに勝負にならなかった。
「……参りました」
伯爵が立ち上がり、帽子を胸に当てた。負けた時の礼儀だけは、一流だった。
「神崎駿介殿。あの二頭、私の目に狂いはありませんでしたな。……王都では、もう私の出る幕はないようです」
「伯爵」駿介が言った。「シルフィーを俺達の所属にしてくれたことには、感謝してる」
「フン」フェルナンドが苦笑いした。「解雇したのは私の判断です。感謝には及ばない。……ただ」
伯爵の目が、シルフィーに向いた。
「あの馬が、あんな顔で走るのを見たのは……初めてでしたよ」
それだけ言って、フェルナンド伯爵は静かに貴賓室を後にした。
リリアナが帳面を抱えて飛んできた。
「ワンツーフィニッシュ! 配当、スポンサー収入、話題性——全部計算し直しましたわ! 今日だけで金貨二百枚超えですわ!!」
「リリアナ、顔」
「だって!!」
その夜。
宿の部屋で、アイリスは記録板を開いていた。
だが、何も書いていない。
ただ、今日のシルフィーの呼吸を、頭の中で何度も反芻していた。
駿介が通りかかり、開いたドアから声をかけた。
「今日、よかったぞ」
「……私は何もしていません。シルフィーが走っただけです」
「シルフィーが最後に踏んだのは、お前が叫んだからだ」
アイリスが顔を上げた。
「……あれは、叫ぶつもりじゃ——」
「感じたから、出たんだろ」
アイリスは何も言えなかった。
駿介が廊下を歩きながら言った。
「数値を捨てたわけじゃない。感じたものを、数値の上に乗せればいい。……お前はもう、それができてる」
足音が遠ざかる。
アイリスはしばらく、記録板を見つめていた。
それから、静かにペンを取った。
数字ではなく、今日のシルフィーの息の感触を、言葉で書き始めた。




