第十一章 0.1ミリの角度
_______鉄嶺に着いて二日目の朝。
ローズが馬型のまま、駿介の袖を鼻先で引っ張った。
「……シュンスケ」
「ん?」
「なんだか、走るたびに足元がズキズキするわ」
駿介の顔が、一瞬で変わった。
「どこだ。前肢か、後肢か」
「前、両方。……踏み込むたびに、内側から熱くなる感じ。最初は気のせいかと思ったんだけど」
駿介はすぐにしゃがみ、ローズの前肢を持ち上げた。
蹄鉄の内側を指で触れる。
熱い。金属が、明らかに異常な温度を持っていた。縁の部分が微妙に変形し、打ち込んだ釘の周囲に細かいひびが入っている。
「……落鉄の手前だ」
「何それ、怖いんだけど」
「蹄鉄が外れかけてる。このまま全力で走ったら——」
駿介は蹄鉄を外した。内側の蹄壁に、わずかな圧痕が残っていた。
屈腱炎の初期兆候。
「……ローズ、お前の魔力が強すぎて、鉄が耐えられてないんだ。摩擦熱と衝撃で、踏み込むたびに変形してる」
「私のせいなの」
「お前のせいじゃない。素材が追いついてないだけだ」
駿介は立ち上がり、グルドの工房へ向かった。
扉を叩く間もなく押し開けると、グルドは作業台で別の仕事をしていた。
顔も上げずに言う。
「……また来たか」
「ローズの蹄鉄、見てくれ」
駿介が変形した蹄鉄を作業台に置いた。
グルドが手を止め、それを手に取った。
ひっくり返し、縁を爪で引っかき、光に透かす。
「……二日でこうなったか」
「全力では走っていない。流す程度の調教だ」
「それでこれか」グルドが鼻を鳴らした。「化け物だな、あの馬は」
「作り直してくれ。ミスリル銀で」
「……ミスリルだけでは柔らかい。すぐ削れる」
「分かってる」
駿介がグルドの前に立った。
「俺に、ローズの蹄を見せてくれ。歩様を確認してから、素材の配合を一緒に考えたい」
グルドが初めて、正面から駿介を見た。
「……お前、装蹄の心得があるのか」
「騎手だ。でも長年、自分が乗る馬の蹄鉄は自分で管理してきた。プロの装蹄師じゃないが——」
駿介が作業台の上の蹄鉄を指で弾いた。
「——0・1ミリの角度で、着地の衝撃は変わる。それだけは知ってる」
グルドは長い沈黙の後、ハンマーを置いた。
「……ローズを連れてこい」
工房の外。
グルドが慣れた手つきでローズの前肢を取り、蹄壁の状態を確認する。
駿介は反対側から、角度を変えながらローズの歩様を観察した。
「……グルド、見てくれ。右前と左前、着地のタイミングがコンマ二秒ずれてる」
「分かっとる」
「内側への回転が、右の方が強い。内向きに力がかかってる」
「……お前、本当に騎手か」グルドが顔を上げた。「装蹄師みたいな目をしてるぞ」
「長年、この目で馬を見てきた」
グルドが蹄の断面を確認しながら、ぼそりと言った。
「……左右非対称に打つ必要がある」
「そうだ。右前は内側を厚く、左前は外側に角度をつける。ローズの重心の癖に合わせて」
「ふん」グルドが立ち上がった。「素材はどうする」
「ミスリルをベースに——」
「魔鉄を混ぜる。前回と同じだ。だが今回は配合を変える」
グルドが工房に戻りながら続けた。
「ミスリルが七、魔鉄が二、そこに竜鱗粉りゅうりんふんを一だけ混ぜる。竜鱗には熱吸収の性質がある。摩擦熱を蹄鉄が吸って、魔力に変換して逃がす」
「竜鱗粉か……。それ、高いんじゃないか」
「高い」グルドが振り返らずに言った。「だが、あの馬の末脚を完成させるには、それしかない」
駿介はリリアナを見た。
リリアナが帳面を胸に抱え、目を細めていた。
「……竜鱗粉の相場、金貨四十枚。痛いですわ」
「リリアナ」
「……分かりましたわ。投資です。投資!」
そこからのグルドは、別人だった。
火床の温度を三段階に調整し、ミスリル鉱を少しずつ溶かしながら魔鉄を加える。竜鱗粉は最後の仕上げに、耳かき一杯分だけ。
鎚の音が、工房に響いた。
一定のリズムではなく、聞く者を引き込むような緩急。叩くたびに蹄鉄の形が変わり、表面に細かい魔法陣のような紋様が浮かび上がっては消えた。
駿介は工房の隅で、それをずっと見ていた。
アイリスが隣に来て、小声で言った。
「……職人というより、魔術師みたいですね」
「装蹄は魔術だよ。馬の体重と走りを、四枚の金属で支える」
アイリスが駿介の横顔を見た。
「……貴方は、馬のことをどこまで知っているんですか」
「知り切れない。だから毎回、馬に教えてもらう」
アイリスは少しの間、何かを考えるような顔をした。それから静かに前を向いた。
「……私も、シルフィーに教えてもらおうと思います。数値じゃなく」
駿介は何も言わなかった。
グルドの鎚の音だけが、工房に響き続けた。
四時間後。
作業台の上に、四枚の蹄鉄が並んだ。
前回とは明らかに違う。表面に竜鱗の鱗紋が浮かび、光の角度によって金色にも銀色にも見える。右前と左前は、素人目には分からない程度に、形が微妙に異なっていた。
グルドが駿介を呼んだ。
「……見ろ」
駿介は蹄鉄を手に取り、右前と左前を見比べた。
「内側の厚みが——」
「右前は一・二ミリ厚い。左前は外縁を〇・八度外に傾けた。お前が言った通りだ」
「……完璧だ」
「当たり前だ」グルドが鼻を鳴らした。「ただし」
老人が駿介を見た。
「これは打ちっぱなしじゃ意味がない。蹄の形を整えてから打つ。蹄切りから俺がやる。お前は横で見ておけ」
「教えてくれるのか」
「教えるんじゃない。俺の仕事を邪魔するな、と言っている」
駿介は黙って頷いた。
ローズを外に連れ出し、グルドが蹄刀を手に取った。
蹄壁の余分を削り、蹄の裏の死んだ角質を丁寧に取り除く。左右の高さを均等に、しかし今回は「均等」ではなく、ローズの歩様の癖に合わせた「最適」に整えていく。
ローズが眉をひそめた。
「……痛くはないけど、くすぐったいわ」
「黙れ。動くな」
「むーっ」
「ローズ、我慢しろ」駿介が宥める。「グルドの手が狂ったら、全部やり直しだ」
「……分かったわよ」
グルドが削り終えた蹄面に、蹄鉄を当てた。隙間なく密着しているかを確認し、釘穴の位置を慎重に決める。
そして、鎚を振るった。
コン、コン、と静かな音。先ほどの製作時とは打って変わって、繊細な手つきだった。
四枚、打ち終えた。
グルドが立ち上がり、ローズの肩を軽く叩いた。
「……歩いてみろ」
ローズが一歩踏み出した。
止まった。
「……」
もう一歩。また止まる。
「ローズ?」
駿介が声をかけると、ローズがゆっくりと振り返った。
その目が、わずかに潤んでいた。
「……なんか」
「なんか?」
「地面が、答えてくれる感じ。踏むたびに、ちゃんと返ってくる」
ローズが駆け出した。
工房前の石畳を、砂地を、坂道を。
戻ってきた時、彼女は人型になって腕を組み、グルドの前に立った。
「……合格」
「前と同じことを言うな」
「前より上よ。だから、また合格」
グルドが口の端を、ほんの少しだけ動かした。
駿介がグルドの隣に立った。
「……ありがとう」
「礼は要らん」グルドがハンマーを拭きながら言った。「それより」
老人が駿介を見た。
「お前、馬の足元に一生を賭ける気か」
「……騎手だ。馬に乗るのが仕事だ」
「嘘をつくな」グルドが鼻を鳴らした。「さっきのお前の目は、騎手の目じゃなかった。馬の足元だけを見ていた。……装蹄師の目だ」
駿介は少しの間、黙っていた。
「……乗るだけじゃ、足りないと思ってた。ずっと」
「何が足りない」
「馬が走る理由を、全部分かってやりたい。脚の痛みも、蹄の感触も、地面の硬さも。……乗ってるだけじゃ、半分しか分からない」
グルドは長い沈黙の後、ぼそりと言った。
「……面白い男だ。馬の足元に一生を賭けようとする騎手なんざ、初めて見た」
それだけ言って、工房に戻っていく。
扉が閉まる直前、老人の声が聞こえた。
「……王都に行ったら、定期的に送ってこい。六週ごとに蹄鉄は替える。それがお前の馬への誠意だ」
駿介は工房の扉に向かって、深く頭を下げた。
馬場に戻ると、シルフィーとアイリスが待っていた。
シルフィーがローズの蹄鉄を一瞥し、無言で目を細めた。
「……綺麗な紋様」
「でしょ」ローズが得意げに前肢を上げた。「私専用よ。世界に四枚しかない」
「……私のも、いつか」
「グルドに頼みなさい。あのじいさん、腕は本物だから」
シルフィーが小さく頷いた。
アイリスが駿介に近づき、少し躊躇ってから口を開いた。
「……あの、一つだけ」
「どうぞ」
「さっき、グルドさんに言っていたこと。馬の痛みも感触も全部分かってやりたい、って」
「ああ」
「……私も、そう思います。数値じゃなくて」
アイリスの耳がわずかに赤かった。気づかないふりをして、駿介は前を向いた。
「じゃあ、王都に向けて特訓を続けよう。お前がシルフィーの足元を覚えるのと、俺がローズの走りを覚えるのと——同じことだ」
「……はい」
アイリスが小さく、でも確かに微笑んだ。




