第十章 伝説の装蹄師
ステーブルを立ち上げる。その為には装蹄師の存在が必須だと駿介は思っていた。
「リリアナ、装蹄師を知らないか?普通の装蹄師じゃだめだ。腕に自信を持っている熟練した職人だ」
そう言われたリリアナが、ちょっと考える仕草をした。部屋の棚から地図を取り出す。
リリアナが地図を広げ、人差し指で一点を叩いた。
「王都への街道沿い、三日ほど南に下ったところに『鉄嶺テツミネ』という鉱山都市がありますわ。ドワーフの職人街として有名で——」
「装蹄師がいるのか」
「一人だけ。引退した老職人で、現役時代は大陸中の名馬に蹄鉄を打ったと言われています。ただ……」
リリアナが苦い顔をした。
「十年前から客を断っています。何人もの馬主が頼みに行きましたが、全員門前払いだったそうで」
「行こう」
「え? でも——」
「断られたら考える」
駿介が地図を畳んだ。
鉄嶺は、山の斜面にへばりつくように建てられた街だった。
石炭と金属の匂い。至るところで槌の音が響き、ドワーフたちが黙々と作業をしている。
目指す老職人の工房は、街の一番奥。他の建物より古く、煤けた看板には「装蹄 グルド」とだけ書かれていた。
駿介がドアを叩く。
返答はない。
もう一度。
「……うるさい」
しわがれた声。扉が数センチだけ開き、白い顎鬚の老人が片目だけ覗かせた。
身長は駿介の胸ほど。だが、扉の隙間から見える腕は、丸太のように太かった。
「客はとっとらん。帰れ」
「蹄鉄を打ってほしい」
「聞こえんかったか。帰れと言った」
「ローズ、こっちに来い」
駿介が振り返った。
ローズは馬型のまま、不満げに鼻を鳴らしながら前に出た。
老人が扉を閉めようとした手が、止まった。
ほんの一瞬だった。だが確かに、止まった。
「……なんだ、その馬は」
「ブラックローズ。俺の相棒だ」
老人は長い沈黙の後、扉を少し広く開けた。ローズをじろじろと見回す。上から下へ、脚の付け根から蹄の先まで。
「……入れ」
工房の中は、外見に反して整然としていた。
壁一面に工具が並び、作業台の上には磨き上げられた蹄鉄の見本が何十枚と並んでいる。
老人——グルドは、ローズの前肢をためらいなく持ち上げ、蹄の裏を眺めた。ローズが不満そうに耳を後ろに倒すが、グルドは意に介さない。
「……いつから打ってない」
「この世界に来てから一度もない」
「ふん」
グルドは蹄を置き、今度は後肢を確認する。それから馬体全体を一周した。声を出さず、表情も変えず、ただ見ていた。
長い沈黙の後。
「……お前、この馬で何をするつもりだ」
「王都に行く。勝ち続ける。それから帝国に行く」
「帝国に何がある」
「超えなきゃならない馬がいる」
グルドが初めて、駿介をまともに見た。
「……名前は」
「ゴールドクレセント」
老人の目が、細くなった。
「……あの金の馬か」
「知ってるのか」
「見たことがある。数年前、まだ若かった頃の——」
グルドは言いかけて、口を閉じた。
それ以上は話さなかった。
代わりに工具棚に向かい、一本のハンマーを手に取った。
「……蹄鉄の素材は何を持ってきた」
駿介がリリアナを見る。リリアナが前に出て、布包みを差し出した。
「ミスリル鉱を少量と、鋼鉄の合金をご用意しましたわ」
「ミスリルだけでいい。鋼鉄は要らん」
「えっ、でも純ミスリルでは柔らかすぎて——」
「ドワーフに鍛冶を教えるつもりか、嬢ちゃん」
リリアナが黙った。
グルドは布包みを開き、ミスリル鉱を光に透かした。
「……いい石だ。どこで手に入れた」
「マルク商会のルートですわ」
「ふん」
老人は作業台に向かい、火床に火を入れた。
「三日かかる。泊まる場所は自分で探せ。それと——」
グルドはローズを振り返った。
「お前、名前は」
ローズが人型に戻り、腕を組んだ。
「ブラックローズよ。覚えなさい」
「……生意気な馬だ」
「当たり前でしょ。あなた、私の蹄鉄を打てるの?」
「打てなかったら、お前の足首を掴んだりせん」
二人は一秒、睨み合った。
ローズが鼻を鳴らして顔を逸らす。グルドはもう作業に集中していた。
駿介は小さく息を吐いた。
どうやら、うまくいきそうだった。
鉄嶺での三日間。
駿介はグルドの工房の外で、ローズとシルフィーの特訓を続けた。
街はずれの平らな空き地。朝靄が残る中、二頭の黒と銀が並んで走る。
「……シルフィー、コーナーの入り方をもう一度」
アイリスが手元の記録板に書き込みながら言う。シルフィーが馬型のまま、もう一度コーナーを流した。
「重心の移動が〇・三秒早い。もう少しだけ待って——」
「分かってる」
シルフィーが短く答え、再び走り出す。
アイリスは視線を落とし、何かを書き込んだ。それからふと、隣に立つ駿介を横目で見た。
「……あの、一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「コーナーでシルフィーに『待て』と言う時。何を基準に判断しているんですか。魔力計測値でも速度でもなく」
「息だ」
「息?」
「呼吸のリズムが乱れ始めたら、仕掛けが早すぎる。整ったまま曲がれれば、直線で余力が残る」
アイリスが、記録板から目を上げた。
「……それ、数値化できますか」
「できないと思う」
「なぜ」
「毎回違うから。その日の状態、気温、コースの固さ……全部重なって、その瞬間だけの答えが出る」
アイリスはしばらく黙っていた。
「……私はずっと、数値化できないものを信じてこなかった」
「それで勝ってきたんだろ」
「でも」
アイリスが、走るシルフィーを目で追った。
「シルフィーの呼吸が変わるのは、私も感じます。数値には出ない。でも——感じる」
「じゃあ、それを信じればいい」
アイリスが、ゆっくりと駿介を見た。
「……貴方は、いつもそうやって決めているんですか。感じたことを」
「ローズが教えてくれるんだ。正解かどうかは、ゴールを過ぎてから分かる」
アイリスはもう一度、記録板を見た。それから静かに、板を伏せた。
「……今日の午後の調教。記録板、置いてみます」
駿介は何も言わなかった。ただ少し、口の端が上がった。
その変化に気づいたアイリスが、わずかに顔を赤くして前を向いた。
一方、ローズはローズで問題を抱えていた。
特訓の合間、水を飲んでいるシルフィーに近づき、腕を組んで言った。
「ねえ、シルフィー」
「なに」
「あなたの走り、まだ命令の癖が残ってる」
シルフィーが振り返った。無表情だが、目に何かが過ぎる。
「……どこが」
「コーナーの出口。一瞬だけ、躊躇する。加速していいか確認するみたいに」
「……」
「魔法の鞭を待ってるのよ。今でも」
シルフィーは水の入った桶を静かに置いた。
「……分かってる」
「分かってるなら——」
「分かってるけど、消えないの」
ローズが口を閉じた。
シルフィーは自分の手首を見下ろした。
「走ろうとすると、ここが疼く。もっと速く行けるのに、足が聞く前に確認してしまう。……ずっとそうやって走ってきたから」
「……」
「貴女みたいに、最初から自由に走れる馬には——」
「私も最初からじゃなかった」
ローズが遮った。
シルフィーが顔を上げる。
「デビュー前の調教でね、私、ゲートが怖かった。閉じ込められるのが嫌で、毎回暴れてた。……シュンスケが最初に乗った時、ゲートの中で一言だけ言ったの」
「何と」
「『扉が開いたら、どこまでも行けるぞ』って」
シルフィーは黙っていた。
「それだけで走れたわけじゃない。何度も繰り返して、少しずつ怖くなくなった。……あなたの躊躇も、きっとそうよ」
ローズが鼻を鳴らして踵を返した。
「特訓、続けるわよ。躊躇が消えるまで、何度でも走る。それだけのこと」
シルフィーは少しの間、ローズの背中を見ていた。
それから、静かに立ち上がった。
「……ローズ」
「なに」
「さっきの話。……ありがとう」
ローズの耳が、ほんの少しだけ赤くなった。
「別に。走るのに余計な荷物は要らないってだけよ」
三日目の夕方。
グルドが工房の扉を開け、無言で駿介を手招きした。
作業台の上に、四枚の蹄鉄が並んでいた。
ミスリルの純銀色ではなく——黒みを帯びた深い銀。
「魔鉄まがねを微量混ぜた。ミスリルだけでは軽すぎる。これなら魔力の伝導率を保ちながら、接地圧を最適化できる」
「……打ってみるまで分からなかったのか」
「馬の蹄を見てから、配合を決める。素材だけ先に決める奴は素人だ」
グルドが蹄鉄の一枚を持ち上げ、光に透かした。
「この馬は脚が強い。尋常じゃなく強い。だが——」
「だが?」
「全力で踏み込んだ時、地面が耐えられないことがある。反発が足りない。……この蹄鉄は、接地の瞬間に魔力を地面に逃がして、反発力として返す設計にした。普通の地面なら関係ない。ただ、限界まで踏んだ時に初めて意味を持つ」
駿介は蹄鉄を手に取った。
軽い。信じられないほど軽いのに、指で弾くと澄んだ金属音が響いた。
「……いくらだ」
「要らん」
「は?」
「金は要らんと言った」グルドが背を向けた。「ただし、条件がある」
「聞こう」
「その馬が帝国に行く時。クレセントと走る時」
老人の背中が、かすかに揺れた。
「……俺も連れていけ」
駿介は少し間を置いてから、頷いた。
「ああ。約束する」
グルドはそれ以上何も言わなかった。
ただ、また作業台に向かい、ハンマーを手に取った。
翌朝。
ローズが四枚の蹄鉄を打ち終えたグルドの前に立った。
馬型のまま、前肢を一度地面に叩きつける。
澄んだ音が、工房に響いた。
「……どう?」
「黙って走ってこい」
ローズが走り出す。石畳を、砂地を、坂を。
戻ってきたローズは、人型になって腕を組んだ。
「……合格よ」
「そうか」
「感触が全然違う。踏むたびに地面が答えてくれる感じ。……嫌いじゃないわ」
「嫌いじゃない、か」グルドが鼻を鳴らした。「馬に褒められたのは、久しぶりだ」
「褒めてないわよ」
「合格と言った」
「それは評価よ。褒めるのとは違う」
グルドが、ぼそりと笑った。
ローズも、ほんの少しだけ口の端を上げた。




