第一章 ゲートオープン、淀から異界へ
京都競馬場、芝二二〇〇メートル。
秋の女王決定戦、エリザベス女王杯の直線。
「……まだだ、ローズ。まだ我慢だ」
神崎駿介は、愛馬ブラックローズの漆黒の首筋に顔を埋め、爆発の瞬間を待っていた。
前を走る有力馬たちが、第4コーナーを回って一斉に追い出しを開始する。内を突くか、間を割るか。だが、駿介の選択は一つだった。
「外だ……。お前の進路は、そこしかない!」
手綱をわずかに緩め、外へと誘導する。
ブラックローズが、待ってましたと言わんばかりに鼻を鳴らした。鏡のように磨き上げられた黒鹿毛の馬体が、秋の陽光を弾いて黒い閃光と化す。
「行けえええっ!!」
駿介の剛腕がしなり、ブラックローズが爆発した。
上がり3ハロン32秒台——。物理法則を無視したような加速。一完歩ごとに、先行する馬たちが後ろへと消えていく。大外一気。まさに「漆黒の薔薇」が戦場を呑み込んでいく。
歓声が地鳴りとなって鼓膜を揺らし、ゴール板が目の前に迫った、その時だった。
カッ、と。
視界が白銀に染まる。
爆音。衝撃。
全身を貫く重力。
「……っ!?」
次に駿介が感じたのは、ターフの柔らかい感触ではなく、ゴツゴツとした土と、嗅いだこともないほど濃い草の匂いだった。
耳を劈いていた何万人の歓声は消え、代わりに聞こえるのは、どこか遠くで鳴く鳥の声と——。
「ヒヒィィィィン!!」
鋭い嘶き。
顔を上げると、そこには自分と同じく混乱した様子のブラックローズがいた。かつてよりも逞しく、より神々しく黒光りするその姿で。
「ローズ……無事か……? ここは、どこだ……」
駿介がよろよろと立ち上がった時、風に乗って別の音が聞こえてきた。
怒号。そして、悲鳴。
丘の下を見ると、そこには異様な光景が広がっていた。
中世の馬車のような荷車を囲む、緑色の肌をした醜悪な怪物——オークの一団。
「……なんだよ、あれ。映画の撮影か?」
だが、怪物が振り下ろした斧が、護衛の男の盾を真っ二つにするのを見て、駿介の脳が「現実」だと理解する。
「……ローズ、状況は分からんが……。あんな下手くそな包囲網、俺たちの末脚でぶち壊してやろうぜ。延長戦だ!」
駿介が跨った瞬間、ブラックローズの体から黒い魔力の火花が散った。
相手は十数体のオーク。だが、駿介の目にはそれが「先行集団」にしか見えなかった。
「大外を回すぞ。一気に捲る!」
ブラックローズが地を蹴る。異世界の濃密な魔力を吸い込んだ彼女の走りは、音速に近い衝撃波を生んだ。
オークたちが異変に気づいた時には、すでに背後を獲られていた。
すれ違いざまの風圧だけで怪物が吹き飛び、ローズの鋭い蹄が首領の脳天を正確に撃ち抜く。
わずか十数秒。一頭の馬と一人の騎手によって、戦場は静寂に包まれた。
助けられた商人の娘、リリアナが腰を抜かして見上げる中、ローズの様子が変わる。
黒い霧が馬体を包み、収束し、そこには一人の少女が立っていた。
「……ねえ、シュンスケ」
鈴を転がすような、けれど勝気な声。
黒髪の美少女となったローズは、不満げに鼻を鳴らして駿介の胸ぐらを掴んだ。
「さっきの追い出し、あとコンマ数秒遅くても良かったわ。……それより、なんなのよ今のレースは。あんなに歩様の汚い連中と一緒に走らされるなんて、私の戦歴に傷がつくわ。……あと、お腹空いた。計量がないなら、今すぐ何か食べさせなさいよね!」
神崎駿介。元G1ジョッキー。
彼の異世界での最初の仕事は、伝説の神馬(食いしん坊なツンデレ美少女)の機嫌を取ることになった。
この話は、超ノンビリ書こうと思っていますので、よろしくお願いします。




