予言
身体は重く、酷く疲れ果てるまでそれは続いた。
僕は自らの欲情の衝動の赴くまま動く、二ノ宮さんはその衝動をすんなりと優しく包み込むように受け入れ、さらに深い快感に導いてくれる。僕が求めた快感のその先が存在し、満たされていたと思った事すら入り口でしか無く、さらに先が存在するという二ノ宮さんの手練手管に怖いくらいの期待感と、後戻り出来なくなるくらいの快楽の存在に身体は理性と切り離されたように脈動していた。あっという間の一時間だった。二ノ宮さんの匂いに満たされた口の中は乾き切り、粘っこい唾液となって飲み込もうとすると喉に張りついてくるし、心臓は肋骨を破りそうなくらい鳴っていた。流石に二ノ宮さんも疲れたようでもあった。けれどまだまだ続けたかったし、離れるのが名残惜しかった。別れ際のキスの二ノ宮さんの口内の熱さが、欲情にのぼせ上がっているのが僕ばかりでは無いと証明しているようでもあり、少し安心した。
「それにしても彼女できたんじゃない?」
出し抜けに二ノ宮さんが言った。
どうして呼んだの? でもなく、美術室のあれで我慢できなくなった? でもなく、ただ彼女の有無について訊いてくるのに違和感があった。
「そんなに彼女がいるのが嫌?」
「そう、彼女がいる男とするのが嫌なの」
どうして? と訊いたが、とにかく嫌、とだけ返ってきた。その理由を訊こうとする間もなく。
「三河累なんて君が口説けばすぐに落ちそうだけど」と言った。
学校とは違い、生徒を呼び捨てにする事になんとなく嫌なものを感じ、そして見透かされているような感じがした。やはり二ノ宮さんは歳上の女性だ、ということと今まで感じたことの無い不可思議な妖しさがそこにはあった。
「もし僕と三河がつき会ったら?」
「こういうことはもうしない。……けど」
「けど?」
「君は三河累に満足できなくなって私のところに戻ってくる」
そうはっきりと言い切った。まるで予言みたいに。
「そして、いつか私には彼氏ができる。君は嫉妬に狂うの。いえ、君だったら聞き分けがいいから何もしないかな。電信柱みたいに立ち尽くして、私の後姿を眺めて……それで終わり。全て真っ平らになるの。初めから何もなかったみたいに」
僕は二ノ宮さんの言葉をうまく呑み込めないでいた。
そういう未来は有り得るかもしれない。だが、今は違うだろう、と思った。この満たされた身体の火照りは嘘では無いと思う。
別れ際、「またね」とお互い言い合う。その言葉の意味がそのままの意味なのが堪らなく嬉しかった。
僕はアリバイ作りも兼ねて家へは走って帰る。もう汗もかいていたし、無理に走る必要もないのかもしれないが、陸上部にいたせいか歩くという選択肢を選べず、ただフォームを意識してペースを遅くして走った。
住宅街の人気のない暗い道を歩くようなジョギングで走るとなんとなく頭がよく働くような気がする。
二ノ宮さんの色白の顔が上気し赤色に染まり、とろんとした目で僕を見ていた。僕も同じようなものだったのだろうが、女性にも男性と同じような性欲があり、持て余す場合だってあることを僕は知ってしまった。だが、三河はどうなのだろうか。二ノ宮さんのような性欲があるのだろうか。僕や二ノ宮さんのように乱れる姿を想像できなかった。あの時のキスを思い出す。僕の舌を受け入れてくれなかった閉じられた歯を。
いや、三河も僕と同じように自慰行為をするだろうし、僕に好意を抱いているのであれば、想像上の僕でしたこともあるのだろうか。
二ノ宮さんの予言が甦ってくる。三河も二ノ宮さんのような女にさせればいいのだ。そうすればいつか僕の元を去る二ノ宮さんの穴埋めになる。僕はこの欲情を持て余すこともなくなるのだ、と歪で身勝手な想像が働いた。きっとあんなことをした後に独り夜道を走っているせいだ。
家に帰ると電気がついており、今日は両親は早めに帰ってきているらしい。
「ただいま」と帰宅をつげると「おかえり」と両親の声と混じって他の人の声も聞こえた。
リビングには父親と酒を飲み交わす父親より若いスーツ姿の男の人がいた。おそらく父の後輩なのだろう。
「あ、こんばんは、お世話さまです」
お客さんなんて珍しい。なんていっていいからわからないから適当に挨拶した。
「お、脚の具合はいいのか? あんまり無理するなよ」
やはり僕がランニングしてきたと勘違いしてくれている。
「うん。お風呂、先にいただくね」
身体を洗い、お風呂に浸かるとよほど疲れたのだろう。湯船に浸かると眠くなってきた。お風呂で寝ないように早めに風呂から出る。
「……だからH社のリコール対象の部品については……」
自分の部屋に行き、布団の中へとはいるが、小さくお客さんと父親が話してる声が聞こえていた。
「……私はさ。H社の弱味を握っているようなものさ。だからリストラ対象にはならない。むしろ他社へ行かないように抱き込むだろう。あっちいったり、こっちいったり忙しいのは玉に瑕だが……妻や息子、両親にももうすぐ楽にさせてあげられるし……とにかく、君にも期待してるから……」
ようは会社の不良品を父親は調べる仕事らしい。改善の余地があれば改善する。改善すると費用がかかり過ぎる場合は黙殺。もしくは新しい製品にグレードアップするときに直す。
壁を隔てて聞こえる小難しい話がさらに眠気を誘った。
弱味か、二ノ宮さんが僕の連絡に応えてくれるのも、僕が学生だと知らなかったからかもしれない。遠回しにいつか僕の前から消えるというような予言めいたことを言ったのかもしれない。
そんなことを思いながら寝たせいか夢を見た。
「……好きなの、私、一ノ瀬くんのことが」
紫色の水彩が排水口に流れ落ちるのを眺めながら僕は二ノ宮さんの口からその言葉をはっきりと聞いた。
そんな夢。
朝食には珍しく父親の姿は無かった。
「あれ? 父さんは?」
「あ、今日はまだ起きてきてないの……」
母親がいうには今日は仕事がお休みで明日から海外の部品工場へ視察(タイへ一ヶ月)に行くことになったらしい。だから昨日は一緒に行く部下と飲んでいた、ということだ。
「ふぅん」
一頻り話した母親に僕は相槌をした。
父親にとってかなり大きな仕事かもしれない。だから酒が入って上機嫌で大きな声で話していたのか……そんなこと考えながら味噌汁をすすっていると「実は昨日、お客さんが来られて話せなかったけど、じいちゃんが入院するらしいの。ただの検査入院らしいから大丈夫だと思うんだけど、もう歳だからね。金曜日に色々手続きや入院準備を手伝うから、週末は弥斗、独りになるけど大丈夫よね?」
「じいちゃん悪いの?」
「まだ元気だけどね。手術するかしないかの検査で……早いうちなら治る病気らしいから」
なかなか家は忙しい家だ。
僕だけ普段通りの生活でなんだか申し訳ないような気がして、思わず「なんか手伝うことはある?」と柄にもないことをいっていた。
母親は嬉しそうに微笑みながら、感謝の言葉と「弥斗は優しくて素直すぎるから心配だなぁ」といった。母親の言葉だからだろうか。その言葉が酷く苛立った。
駅で電車を待っていると後ろから「おはよう、ヤト」と声を掛けられた。
誰の声かわかったが、その溌剌とした声と僕に対しての呼び名が昨日からまるっきり違うことに戸惑った。
「おはよう、三河」
「いやぁだなぁっ……ルイって呼んでよ」
コンビニで初めて話したとき話やすい女の子だとは思ったが、垢抜けているというか、開けっぴろげというか……少し心配になるくらいだった。
「……テンション高いな」
「そうかな」あはは、とわらって「調子乗りすぎたかな……」とバツの悪そうな顔をする。
「いや、なんだか……恥ずかしいだけだから」
三河にギリギリ聞こえるくらいの声でつぶやき、手を握った。朝の空気にふれたばかりの三河の肌はしっとりと冷たかった。その手が握り返してくれる。握り返してくれた手はほんのりと温かみが増したのを感じた。
三河の顔をみた。髪は男子のように短く、狐を思い起こされるシャープな印象の顔立ちに鋭く感じられる目線。そのなかにある瞳がきらきらと輝いていた。初めて間近でみたかも知れない。恋をする女の子の顔を。
「あんまり見つめんなよ、恥ずかしいんでしょ?」
僕の小さなつぶやきははっきりと三河の耳に届いていた。