均衡
パブロフの犬という言葉がある。パブロフの実験で犬は餌を与えられる前にベルを鳴らす。そのうちにベルを鳴らすだけで餌を与えられると思い込み涎を垂らす。
僕はそのパブロフの犬と同じ状態だった。
国語の授業は教育実習生である二ノ宮さんが行っていた。二週間という短い期間で彼女の授業だったが、以前のように国語に興味を持たせるためのプリントや雑学的なものは少なかった。授業の流れは(実習生ということもあるが、ややぎこちないが)おおよそ通常の授業と同様だった。
そんな危うさや心配のない通常の授業のためか、僕は二ノ宮さんの姿を見続けなければならないし、声を聞かなくてはならない。二ノ宮さんが歩きながら教科書を読む。そんな些細な行動すら心が漣立ち、どうしてもあの夜のことを思い出して、僕の身体は条件反射的に反応して困った。まるでパブロフの犬と同様に、ベルが鳴っても満たされない犬のような情けない気持ちになる。
そんな自分に嫌気がさす。この授業の先生が二ノ宮さんではなかったら黒板に書かれたものと先生の言葉を頭に叩き込むだけでいいのだから。
授業が終わるといつものように武道場の片隅にあるトレーニング場へいき、ウェイトトレーニングをするが、今日はスクワットで右膝に重いような違和感があった。間違いなく治りかけの場所に昨日の疲れが出てきたのだろう。いつもこの繰り返しだ。治りかけ、負荷をかけると次第に疲労が蓄積し、無理をすれば怪我をする。かといってなにもしなければ、記録なんて出せないだろう。もう諦め時なのかもしれないと思いながら、下半身は軽い自重トレ、上半身はウェイトトレーニングをして汗をかいた。せめて秋にある大会だけは出場したい。それを目標にまた怪我しないように鍛えていくしかない。
僕は疲労を抜くために今日は早めに切り上げた。
「あれ? もう帰るのかよ」
道着を着替えながら睦村がやってきていった。
「ああ、脚の具合悪くてさ」
「そっか、治りかけが肝心だからなぁ。それにしても治らなかったらどうする?」
「考え中」
「だからさ。柔道やらね?」
「無理だって」
「弥斗さ。腹筋も割れてるし、身体も鍛えてるから同じ階級なら結構、馬力だけでもいけると思うんよ」
「筋肉だけで勝てるほど甘くないだろ? 柔道は柔よく剛を制す、だったっけ?」
「まぁ、な」と、いって「うーん」と腕を組み「言っちゃ悪いかもしれないけどさ」と躊躇いながらいった。
「実はさ。見てて辛いっつーかさ。七宮先生(陸上部の顧問だ)、もう長距離は一年の八坂にゾッコンじゃん。ここに弥斗が厄介払いされているようにしかみえなくてよ」
やはり周囲にもそう見えているのだろう。だから五島先生も気遣って、僕に声をかけてくれるのだ。
「七宮先生さ。自分が箱根駅伝出たからって厳しすぎなんだよ。まぁ、五島先生も厳しいけどさ。ゆるく楽しくやるのも悪くないって……」
まだなにか言いたそうだったが剣道部も柔道部も準備を終え集まり始める姿が目に入ったのか「じゃあ、考えておいてくれよ」といって練習に加わっていった。
慰めのつもりらしいが、正直、なにもいわないでくれた方がありがたかった。今まで僕はここで同情を引くような情けない姿をさらしつづけていたのだろうか? 前向きに怪我を完治させ、また走るのだ。まだ走れるはずだと自分に言い聞かせて。ここにいてももうなにも始まらないし、なにも起こらない。ただ身体を鍛えているだけだ。無目的に。諦めた、諦めたくないと心の中でいくら叫んでも、今の睦村の言葉がなかったら、おそらくまたここに明日もくるだろう。明後日も。そのまた次の日も。そうやって身体を作りながら終える高校生活でもいいじゃないか。諦めたくない気持ちと諦めている気持ちが一緒にあって、心の中の天秤の上で釣り合っているだけだ。なにか力が加わって均衡が崩れれば行動に移せる。
今、完全にその均衡は崩れた。
武道場に深々と一礼して出る。おそらく放課後に来るのは今日で最後だ。頭を上げると柔道部も剣道部も自分たちの部活動に必死になっており、誰も僕の事なんて見ていなかった。いつもそうだった。だが、見てないつもりでも少しは同情してくれていたのだ。悔しいくらいに。有難いくらいに。
僕は美術室へと向かった。
今の僕には居場所はそこ以外に感じられないかった。
美術室へ行くと二ノ宮と四村香が(あと二人は欠席だろうか?)絵を描くわけでもなくスケッチブックを広げてなにやら楽しく会話していた。ゆるく楽しく、なんていってみても運動部の僕からしたら、だらしないだけのように映るが、文化部とはそういうものなのだろうか。
「やあ、一ノ瀬くん」と二ノ宮さんがいった。
「三河います?」
なんとなく三河と話したかった。美術部に来ればいるかと思っていたが、いないとなるとなんだか気まずいというか、居場所のない感覚がした。まるで入部しに来たみたいじゃないか。
「三河さん、ちょっとここに顔を出したけど……今日は塾だから帰るってさ。一ノ瀬くん、どうする? 美術部に入らない?」
案の定、二ノ宮さんに訊かれた。
「ちょっと考え中で……」
「一ノ瀬くんも入りなよ」と、四村香が言ってきた。四村は身長が中学生低学年で止まってしまったような小さな子だが、その代わりといってはなんだが、度胸と気持ちは大きな子だ。文化祭のときに文化部でコピー紙を綴った冊子を作って売っていた。その表紙には細い男と男が抱き合っているイラストが表紙に描かれており、そこに『イラスト・四村香』と潔く書かれていた。なにかといじられたんじゃないかと思うが、涼しい顔をしていた。
「美術はいいよ。楽しく自己表現できるし」
そんな四村香に真顔でいわれた。
僕は勝手に女子は男子よりプライドが高い生物だと思っている。進んでウケを狙わないし、隙を見せず、絶えず自分を綺麗にカッコよくみせようと努力している。それが四村は潔いくらいに自分をさらけ出していた。
「作品を完成させれば残るし。五年でも十年でも……あるいはそれ以上」
五年も十年も自分が描いた男と男が抱き合うイラストが残るのをよし、とする感覚はよく分からないが、いいたいことは理解できる。
「そしてさ。高校生活だよ。青春だよ、青春。自己表現て重要じゃない?」
確かに他人に後ろ指を刺されそうな自己表現の後暗さをおくびにも出さず自らの好きなものを全力で表現する様はまさに完全なる自己表現だろう。
「だから入らない? 美術部。気が向いたときに来ればいいし」
「考えとく」
「そう、考えといて。今日だってふたりは塾だかなんだかの用事とかで来ないし、累だって似たようなもんだし。一回しかない高校生活、ゆるく楽しくやるのもいいんじゃない?」
皆、僕がが必死にがんばりすぎているようにみえるのだろうか。今日で二度、その言葉を聞いた。それとも『ゆるく楽しく』がこの高校のトレンドなのだろうか。
「ねぇ、先生」
僕のガードが固いとみたのか、二ノ宮さんに話をふった。外濠を埋めようとしているのだろうか。そこまでして入って欲しいのか、それとも単純に今、僕を構うくらいしか時間が潰せないくらい暇なのだろうか。
「……うん、一ノ瀬くん、部活入ってなかったら、美術部入るのもいいんじゃない?」
二ノ宮さんから見ればこの時間にふらふらと美術室に現れる僕は帰宅部かなにかに見えるのだろう。少々へこんだ。
そんな二ノ宮さんの言葉に四村の顔が少し引きつらせ僕を慰めるようにいった。
「いや、美術部入るべきだよ。うん」
四村がまだなにか、いいたそうにしている二ノ宮さんの言葉を遮るように言葉を続けていたが、なんとなくわかった。僕は部活に関して自分で思っている以上に有名人らしい。いいクラスなのだろう。睦村に四村、三河……僕のことなんて気にかけてくれるなんて。
「……ああ、ちょっと急用思い出したわ」
少ししんみりしてしまった。四村はバツが悪そうに鞄を手に取ると教室から出る間際に「考えといてよ」と声をかけて帰っていった。
僕はやるせない気持ちしかない。
「……なんか私、悪いこといった?」
「いや、悪いことなんていってないです」
僕はよほど思い詰めた顔をしているのだろう。陸上部で元気に走っているときとは別人なほどに。その顔はまるで周囲に助けを求めているようにもみえるのだろうか。本人たちは善意のつもりなのだろうが、余計なお世話だ。どうせなら優しく黙殺して欲しかった。結果もなにも起こらなかっただろうが、少なくともプライドは守れた気がする。いや、周囲からみたら、もうわかっていることだ。僕の怪我が秋までには元に戻らないことに。ただもう一年黙っていてくれたらプライドを守れていたと錯覚できただけだ。
「大丈夫?」
黙ったまま俯いている俺を覗きこみ、二ノ宮さんがいった。そして、今、この美術室には僕と二ノ宮さんしかいないということに気づいた。