告白
僕はウェイトトレーニングをしながら五島先生にいわれたことをじっくりと考えた。
二ノ宮さんは僕に何の用があるのか?
考えられることは口止めだろう。教師となるべく実習に学校に来ている身で生徒と寝ていたことが知れたなら、ただでは済まない。この関係もこれで終わりだ。
もはや思考することはなく、ただひたすらトレーニングをしていた。全身の筋肉を適度に追い詰める。欲しいのは筋肥大ではなく筋持久力だ。体重を上げずに靱やかで耐久性のある筋肉が欲しい。トレーニングはネットや動画、書籍をみてやっている自己流だが、筋骨が定まれば新しいランニングフォームも自分のものにでき、怪我もしにくくなるだろう。
僕はそんなことを考えてる自分に笑ってしまった。まだ陸上が好きなのだ。初めて認められたスポーツだったからだだろうか。それに自分に向いているものでもあると思う。夏までに膝を治すことができれば秋の大会には間に合う。
ただ今は走るのは怖い。まだ角度によっては痛みが走ることだってある。また怪我を再発してしまったらと思うと怖いものがある。
医者には「痛みがあるうちは走らないように」と注意を受けているが、気だけは焦る。
早く練習して記録を伸ばさなければ陸上部の顧問の新しいお気に入りの一年に勝てないかもしれない。唯一の僕の得意なもので惨敗する可能性があるのが怖かった。
そして、このまま怪我が治らなかったら僕はどうなるのだろう。必死にトレーニングだけして怪我を膝に残し、誰にも認められず優しく静かに黙殺されるのだろうか。怪我が治ったら僕は走り出す勇気はあるのだろうか。臆病風に吹かれてなにも投げ出せず、なにも踏み出せず、この武道場の片隅のトレーニング場で黙々と僕は腐ってゆくのだろうか。
悶々としたネガティブな思考がいくらかのモチベーションになったかもしれない。地味で疲労に耐えるだけのウェイトトレーニングを集中力を切らさず一通り終えると、周囲の音が耳に届くようになってきた。
柔道部は乱取りを剣道部は地稽古をしていた。そのどちらも今日最後の集中力と体力を出し切るべく全力を振り絞っていた。僕もその一人には違いないだろう。タオルで汗を拭き、ウェイトを片付けると出入口で一礼をして武道場を後にする。そして着替えて美術室へと向かった。
部活動終了時間、間際にいけば二ノ宮さんと自然と二人きりになれる状況が出来るかもしれないと思っていたが、当たり前だが思うようにはいかないものだ。
美術室へ行くとドアから話声と笑い声が漏れていた。
盛り上がっている最中に入っていいものかと少し躊躇したが、ドアを開ける。ドアを開ける音に美術室のなかにいた人が皆振り返った。女子が四名(美術部が女子だけなのは、このとき始めて知った。そのなかには四村香もいるし、他にクラスメイトもいる。あとは一年生が二人なのだろう)が中央の机に集まり、向かいに二ノ宮さんがいた。入ってきたのが僕で少し驚いたような戸惑ったような表情を浮かべていた。おそらく僕も似たような表情だったかもしれない。そのとき「よう、一ノ瀬」と聞き覚えのある声がした。僕は反射的に「よう、三河」と返したが、正直、二ノ宮さんしか目に入っていなかったので驚いた。
「あれ? 三河、塾は?」
「今日は塾は休みだからさ。美術部にお邪魔してるんだ」
いままで部活をやってから帰っていたのが授業が終わってからすぐ帰宅するというのが嫌なのはなんとなくわかる。生活リズムというか、手持ち無沙汰というか。陸上部で走らなくなって武道場でトレーニングしている僕も似たようなものかもしれない。
「へぇ、絵描けるん?」
「まぁ、上手くないけどね」
「ふぅん」と僕が机の上を覗き込むと漫画の模写らしき鉛筆画がちらりとみえた。目にかかるくらいの髪、細い顎に細い首、手には包帯の男の子のイラスト。なんとなく三河の趣味がわかった。
「ちょっと! 見ないでよ」
「上手いじゃん」
素直にいった。趣味はどうあれ、絵の描けない僕には上手くみえる。三河は「……ありがとう」と満更でもないふうにいった。周りの三人も「よかったね」「累も美術部入んなよ」とか和気あいあいと話し始めた。
「じゃあ、私、パレットを洗ってくるから、皆、しっかり三河さんを勧誘しといてね」
二ノ宮さんは美術部員たちを悪戯っぽくみながらいうと水彩絵具が入ったパレットと筆の入った黄色い絵の具バケツを持った。
二ノ宮さんの水彩画は見事なものだった。荒い筆致だが赤と青の紫陽花が雨に濡れている。
そのとき、二ノ宮さんと目が合った。その含みのある視線に誘われるように僕はいった。
「僕も手伝いますよ」
「じゃあ、お願いしようかな」
三河を美術部に勧誘しようとしている美術部員三人を後に僕と二ノ宮さんは美術室を出た。
二人で並んで歩くと昨日のことが頭をよぎる。それは決して漏らしてはいけない秘密であり、そして終わったことなのだ。けれどそれが分かっていても、あの肌が合わさった瞬間に溶けてしまいそうになる感触が忘れられそうもなかった。
僕らは無言で水道でパレットと筆を洗っていた。どうして二ノ宮さんはあの話を切り出さないのか不思議だった。いや、こういう話は男の僕から切り出さなければならないものなのかもしれない。ただ、水道水に洗い流される赤と青が溶け混じり合い紫になって排水口へと消えてゆくのを眺めながら切り出そうと思った。
「……あ、あのっ……」
そんなとき二ノ宮さんが声をあげた。
振り向くと俯き、赤く頬を染めた二ノ宮が僕の顔を見ず洗った筆を絵の具バケツに刺しながら、恥じらうかのようにいった。
「……私、好きなの、一ノ瀬くんが……」
想像していた言葉とは裏腹で、心の中の諦めと失望が消えていくのを感じた。
「……そうですか」
だが頭がうまく働かなかった。心の動揺の方が強かったからかもしれない。もしかしたら、二ノ宮さんからそういう言葉を言って欲しいと望んだ僕の気持ちがこの言葉を聞いたのかもしれないと僕はあまりにも適当な返事をしてしまった。
二ノ宮さんが洗った絵の具バケツを受け取り、僕の洗ったパレットを入れても、二ノ宮さんの顔をみることができなかった。
「……また連絡します」
「うん、待ってる」
だから呟くように小声で返事をし直した。そして、ようやく二ノ宮さんの言葉が僕の幻聴でないことを確認できた。
僕は舞い上がるような気持ちだった。それと同時に怖さもあった。僕は恋愛ごとには無関心だった。興味があるにはあるが、そういう関係まで発展したことはないし、大抵、友人止まりだ。恋愛とはいったいなんなのだろう。単純にいえば、楽しく、安らぎがあり(ドラマや小説、漫画などでの知識では)美しい、というぐらいしか思いつかない。僕と二ノ宮さんはこれとはまるっきりの逆のような気がする。ただお互いの性欲のはけ口として出会ったのだ。それが「好き」と告白された。それは告白などではなく二ノ宮さん自身を危うくする呪詛的ななにかだろう。もしバレたらどうなるか分かったものではない。そこまでして僕は必要とされているのだろうか。
美術室へと戻ると四村香に入部届けのプリントを渡された。
「累だけじゃ、なんだし。一ノ瀬も入部しなよ。気楽に絵でも書いて高校生を満喫しよう。あ、もしアレだったら怪我が治るまででいいからさぁ」
四村がこんなに押しが強い人だとは思っていなかった。教室では決まった人としか話さず、どちらかといえば影の薄い印象だったから面を食らった感じだ。ちょっと困って三河をみたが笑って肩をすくめられた。三河も同じように勧誘されたのかもしれない。
「じゃあ、考えとく」とプリントだけは受け取った。
「それにしてもさ。三河、どうする? 美術部」
「塾がない日はさ。手持ち無沙汰というか、家帰って勉強するにしたって……ねぇ?」
「わかるわ、それ」
「それにしてもまだ走らないん?」
「もう少しかな。角度によって痛むときがあるから」
「早く良くなるといいね。……もし良かったら一緒に美術部入らない? なんか自由そうだし、塾がない日は私、行こうかなぁと思ってんだけど」
「……考えとく」
三河と話しながら下校していた。
いままで気づかなかったが、三河とは登下校が一緒の道だった。同じ駅で同じ電車に乗り降りして一年以上、学校に登下校していたのだ。こう考えるとなんだか不思議な感じがした。
「昨日の夜、二ノ宮先生を道案内したって嘘でしょ?」
なんの前触れもなく、夏の夕立ちみたいに三河が言ってきた。もしかしたらずっと機会をうかがっていたのかもしれない。
「そう、嘘。二ノ宮先生とはオトナのつき合いだから」
なぜだか僕は本当のことをいっていた。僕自身が言ってしまってから驚いていた。さっき二ノ宮さんに「好き」といわれ浮かれているのか。幼稚な誇らしさに自分自身が少し嫌になる。
「はぁ? つまんねぇ冗談」
三河は冗談と受け取ってくれ、僕は少しホッとした。それと同時になにかが引っかかった。
「今日、塾ないよな。これから勉強教えようか?」
三河は少し考えた後「いや、今日はいいや……」といった。
「じゃあ、また今度」と僕は朧げな約束をした。
「うん、お願い」三河はそれを承諾した。
いやぜるの
安是の小松に 木綿垂でて
吾を振り見ゆも 阿是小洲はも
二ノ宮さんの授業で知ったあの句が頭をよぎる。
三河をみると黙って電車の車窓に流れる景色を眺めているようで心の内を知ることはできなかったが、そのなにも見ていない視線は自らの心の内を確認しているようでもあった。