授業
二ノ宮さんの戸惑いはそのまま僕の戸惑いでもあった。
昨日の夜のことと今現在のことが上手く繋がらない。
そんな僕らの戸惑いとは裏腹に時間は過ぎてゆく。
「ちなみに実習は二週間だけだ。そして部活は美術部の顧問になってもらうから……」
五島先生の言葉を遮るように美術部の四村香が手を挙げた。
「美術部の顧問になられて下さるらしいですが、アナログ派ですか? デジタル派ですか?」
真剣な眼差しでよく分からないことを訊いていた。
「え? ああ……どちらでも描けますよ。デジタルはクリップスタジオ、アナログは透明水彩で……」
二ノ宮さんは最初はどう答えていいのか分からないようだったが、美術部にしかわからなそうな言葉を並べたてていた。その度に四村と後ろの席の美術部員が盛り上がっていた。その食いつきの良さに二ノ宮さんは嬉しいような困ったような顔をした。そして「質問はそれまで。二ノ宮先生が困っているだろう? ああ、受け持つ授業は国語だからな」と調子に乗って騒いでいる生徒をたしなめるようにいった。
そして五島先生に促され二ノ宮さんが出席簿を読みながら順次、出席をとる。そして僕の名前が読み上げられた。
「……一ノ瀬弥斗さん」
「……はい」
二ノ宮さんは僕の名前をしっかりと確かめるようにいった。
その声色は思わず昨日の夜のことが思い出された。
二ノ宮さんの声になにか感じ取った何人かが、自らの感覚を確かめたいのか周囲に話しかけたため、教室が少しざわついた。
「おい! 静かに」
五島先生の言葉に静かになるが、僕の方に視線が集まるのがなんとなくわかった。
教室の対角線上にいる三河累と目が合ったが、僕と目が合うとさらりと視線を外し、二ノ宮さんの方を向き自分の名前が呼ばれるのを待っているようだった。
それからいくつかの連絡事項や報告があり、朝礼は終わったが、僕はそのどれも頭の中にうまく取り込めないでいた。ただ二ノ宮さんを教室で見た時から緊張しているのか、夢見心地なのか、よくわからない。ただ足元がふわふわしていて現実感がなかった。
その浮遊感を打ち消すべく授業に集中した。いや、集中しているふりかもしれない。ただそうしなければ、ぼんやりと時間が過ぎ、頭の中は二ノ宮さんのことでだけでいっぱいになり、どうにかなりそうだった。
休み時間のときに睦村に「二ノ宮先生と一ノ瀬って知り合いなん?」と訊いてきた。その声に周囲の女子も「だよね。なんかさ、そんな感じしたもん」とあのときの違和感を確認すべく僕に訊いてきた。事実をいえばいいのか? 『ラブホテルに一回いったきりの仲だよ。また行く予定』冗談じゃない。いえるわけがないだろう。ただ「うん、まぁ、ちょっとね」と曖昧な返答をした。歯切れの悪い僕の言葉に皆釈然としない様子だったが、それ以上訊いても僕からはなんの情報も得られそうにないとわかると、次の休み時間には大方、興味を失ったように訊いてこなくなり僕は胸を撫で下ろした。
そして、四限目になり午前最後に二ノ宮さんの国語の授業が始まる。
二ノ宮さんはやや緊張した面持ちで教室に入ってくる。
その硬い表情に昨日の夜のことが嫌でも思い出された。白いブラウスにベージュのロングスカートの下にある柔らかな肌と様々な初めての感触……身体がほんのり火照るのを感じた。
「先生と一ノ瀬って、どういう関係なんですか?」
授業始まりの礼が終わると同時にいきなりの三河累がいった言葉に僕の興奮は一瞬で醒めた。
クラス内も三河累の言葉にざわつく。休み時間の僕と二ノ宮さんの関係についての興味がすべて二ノ宮さんに向けられていた。きっと僕の曖昧な返事から知りたいことが知り得ないとわかり、だがこの二人にはなにかあるのではないかという興味が一気に二ノ宮さんに向けられたのだろう。
二ノ宮さんは「あっ」と驚いたような顔をして少し困った僕の顔をみてから「昨日の夜、久しぶりに地元に戻ってきて仲間と駅前で遊んでいたんだけど帰るときに道に迷っちゃってさ。○○駅、二年前に大改修したでしょ? だから前の土地勘で歩いていたら道に迷っちゃって、そこで一ノ瀬くんに会って道を教えてもらったの」
よくすらすらと澱みなく嘘がつけると感心した。
「まさかここの学校の生徒だったなんて知らなかったわ。一ノ瀬くん、昨日は本当にありがとう」
「いえ……どうも」
お互い顔を見合わせ会釈する。
僕はほっと胸を撫で下ろした。これでクラスの好奇心は満たされただろう。まだ何人かにはからかわれるかも知れないが、少しいじられるくらいなら、話題に困らないと考えれば大したことはない。みんなも「ふーん」「なんだ」と口々に話、納得しているようだった。
「では、二ノ宮先生、授業を始めてください」
いつの間にか教室の後ろに五島先生(国語の先生でもある)と教頭、校長が入ってきており、皆A4の紙をクリップボードに挟みシャーペンを持って座っていた。
五島先生の言葉にざわつきが治まり、二ノ宮さんが授業を始めた。この授業はうちら生徒の授業でもあり、二ノ宮さんの実施試験でもあるのだろう。採点や注意点をチェックされながら授業を進めなければならないし、また僕の事もある。緊張するだろうな、と二ノ宮さんが少し気の毒になったが、そんな面持ちもなく持ってきたプリントを配り始めた。
「これは私が好きな作品なんです」
やや緊張が見られるものの、にこやかな笑顔で皆に語りかけていた。授業は五島先生の引き継ぎや形式ばったものでなく、二ノ宮さんが自分が考えた授業を行うらしい。
いやぜるの
安是の小松に 木綿垂でて
吾を振り見ゆも 阿是小洲はも
潮には
立たむと言へど 汝夫の子が
八十島隠り 吾を見さ走り
『常陸国風土記より』
渡ってきたプリントには二句の俳句があった。
「少ない文章で皆さんに国語について興味を持ってくれるものがないかと、悩みましたが、いいものがあったのでプリントにしてみました。国語とは人の気持ちを伝えることを学ぶものだと思うんです……」
二句の句は少年と少女のやりとりらしい。
『ねぇ、君が僕の方にその布を振ってくれた。それは僕で間違いないんだよね?』
『たくさんの人がいたのに私だけを目掛けて走ってきてくれた。それはそういうことでいいんだよね?』
意訳にするとこういうことらしい。
お互い祭事の際、運命的に出会い、歌で確認し合って結ばれるという話にある句らしい。
「古文でもこういう現代とあまり変わらないようなドラマチックな出会いややりとりがあり……」
二ノ宮さんの授業は続く。けれどやはり初心者なのだろう。少し言葉は固く、五島先生のように冗談や話が脱線する五島先生のそれとは違った。ただ題材が良かったのかもしれない。皆、興味深く話を聞いていた。
授業的にはテストや教科書の順を追っていないのでどうなのだろう、と生徒らしくないことを考えてしまったが、教室の後ろで五島先生たちがなにか書いている音が聴こえたが、その筆圧は柔らかいような気がする。概ね合格ラインの授業なのだろう。
授業終了のチャイムが鳴ると同時に僕はほっとした。二ノ宮さんも同じらしくほっとしたような表情を浮かべ、お互いにその顔をみて少し笑ってしまった。
放課後になると僕は武道場の片隅に行く。
いつものように柔道部員は格闘技の真似事をしたり、だべりながら柔道着を着たりしていた。剣道部員も同じようにだべりながら対戦相手を模した廃タイヤに向かって竹刀を叩き込んでたり、チャンバラをしたり、防具の手入れをしていたり、部活開始までの準備をしているようだった。
そのなか、僕は一人、念入りに準備体操をしてからバーベルスタンドにバーを置き、ウェイトを着け、バーベルスクワットの準備をする。バーベルを潜り、肩に重みを感じると同時に周囲の喧騒が消える。目に映る部員達は壁一枚隔てたところに存在するように希薄な存在となる。あるのはバーベルの鉄の冷たさとバーベル越しに感じる鉄の確かな重量だ。まず一回のスクワット、ゆっくり下ろし、全力で挙げる。体調を確認するように一回目が終わると今度はできる限り何度も何度も攻め続ける。筋肉の繊維が痛み、乳酸が溜まり、血流が毛細血管までめぐり、身体は酸素を必要とし、熱くなった身体を少しでも冷やそうと汗が額から吹き出し頬から顎に沿い、そして落ちる。限界までいくとバーベルスタンドにバーベルを置いた。
辺りの情景が元に戻る。剣道部は掛かり稽古をしており、柔道部は投げと受身の練習をしていた。
僕はハンドタオルで汗を拭くとぱちぱちと拍手が聞こえた。
拍手のした方を振り向くと、いつの間にか隣のバーベルベンチに五島先生が座っていた。
「凄いじゃないか。足の具合はどうだ?」
「さぁ……ただ、まだ長距離を走るのは怖いです」
五島先生は担任だからか、いつも部活が始まる前に僕に声をかけてくれていた。
バーベルスクワットでも結構な重量を扱えるようになってはきていた。ゆっくり動かすのなら怖さはない。だが長距離を早く走って疲労が蓄積してきたときに関節がどれだけ耐えられるのかわからない。正直また痛みがでてくるのが怖い。
「そうか。ちょっとな、二ノ宮先生がおまえを探していたから呼びに来たんだよ。あれじゃないか? 昨日、道案内したらしいじゃないか。そのお礼かもな」
二ノ宮先生が僕を探していた、その言葉に嬉しさが込み上げてくる反面、疑問が頭をよぎる。僕はお礼されるようなことはしていない。あれは言い訳に過ぎないからだ。だから探している理由がわからなかった。
「二ノ宮先生は美術室にいるよ」と俺にいうと「おーい! 次は組手!ペアになって、睦村! 一年と組むんじゃない。楽をしようとするな、楽を」と柔道部の指導を始めた。