3.5
大きな手のひらが、左頬を包む。
その感触が心地よくて、猫が戯れるように頬をすり寄せる。
ひと回り大きな手に自分の手を重ね、少しゴツゴツした手の感触を頬で楽しんだ。
すると今度はその手が意志を持って動き出し、耳をかすめ、後頭部、首筋、肩と、春彦の身体をくすぐるように撫でていく。
春彦も、相手の頬に触れてみる。
こうして触れ合っている時だけ、春彦は自分がここに存在していることを認識できた。相手との境界線が明確になればなるほどに。
手が、腰に触れた。
これまでより一層、強く甘い痺れが体中に走る。
思わず漏れそうになる声を何とか止め、縋り付くように腕を相手の首にまわすと、大きな手も遠慮なくとばかりに春彦の腰や背中を優しく撫でた。それは先程までの猫を可愛がるような触り方ではない。
春彦はもっとその手に触れて欲しいと思った。
くすぐったいような、切ないような感覚に息が上がっていく。
春彦の吐息に誘われるように、相手の口が開いた。
名前を、呼ばれるーーー
はっと目を覚ますと職場の天井、つまり冬紀の寝室の天井が見えた。
スーツなどを片付けるクローゼットがこの部屋にあるため、寝室という極めてプライベートな場所ではあるが、割りとよく立ち入る。もちろん、ベッドメイキングもする。
しかし、業務以外でこの部屋に入ることになるとは、まして日頃自分が整えているベッドで眠る日が来ようとは考えてもみなかった。ボーッと天井を眺める。カーテンの隙間から、一筋光が差し込んでいる。この部屋の朝はこんな風に光が差し、影が出来るのかと、それを知るのは、特別なことだと思った。
そっと右側を見ると、冬紀がこちら側を向いて寝ている。夢の中の声が、まだ耳の中に残っている。寝息ともいびきとも取れる音を発しながら、この間の熱があった時よりは幾分柔らかな表情で眠る冬紀に、春彦は胸がキュッとなる。
こちらに背を向けていたはずだが、夜中に寝返りを打ったのだろう。そのことに、春彦は少し安堵した。広いとは言え、男同士で同じベッドで眠ることに、抵抗があるのではないかと思っていたからだ。人は緊張すると寝返りさえ打てなくなる場合がある。だが冬紀は少なくとも、寝返りを打つくらいにはリラックスしているし、寝顔を晒すくらいには心を開いてくれている。
住所不定がバレた時、終わったと思った。自分の家さえ無い人間に、ハウスキープしてもらおうとはなかなか思わない。わかってはいるが、今の春彦には「自分の家を持つ」という気持ちは湧かなかった。
自分の家を持てば、その場所に執着が生まれる。
同じ男に抱かれれば、その男に執着が生まれる。
家を離れる時、男と別れる時、その執着が自身を苦しめる。その苦しみの深さは身をもって知っている。
遮光カーテンで弱められた光を受けてうっすらと白く浮き上がっている冬紀の頬に、もしも今、春彦が手を伸ばしたとして、その手が受け入れられたら。そんなありもしないことを想像してみる。夢の中とは逆に、その大きな手で、自分の手を包み込んでもらえたら。
もう少し妄想に浸っていたかったが、あまりの不毛さにすぐに馬鹿馬鹿しくなった。もうどうせ眠れないし、朝食でも作り始めるかと、身体を起こした。
「だから空手を教えてあげるっていつも言ってるのに」
菜月がぶうたれた顔でこちらを見ている。
菜月は春彦の代わりの家政婦として、新人を連れてきた。冬紀から電話を受け、代わりの家政婦を派遣することになった瞬間に閃いたらしい。せっかくだから、新人の実地研修を兼ねようと。
菜月のそういう抜け目のなさがこの小さい家事代行業者を支えていることは理解しているが、面倒だとのらりくらり躱していた新人研修を、まさかこの状況でやらされるとは思わなかった。菜月に連れられてきた新人家政婦の相沢佳苗が、せっせとカッターシャツにアイロンをかけている。ギリギリ成人をしてはいるが、お下げという垢抜けないヘアスタイルに、これまた垢抜けない丸メガネをかけているもんだからまるで少女のようである。床の拭き掃除なんかさせたら、まるっきり虐められているシンデレラだなと春彦は思った。
「肩のところは、アイロン台の角を上手く使えよ」
適宜アドバイスを挟んで、シンデレラを立派な家政婦に育てる。怪我をしていてもできるミッションだ。
「俺はそういう格闘技とか苦手なんだ。知ってるだろ?」
「でも、空手やってたらそんな一方的なことにはならなかったはずよ。少なくとも怪我をしなくて済んだ」
こんな風に菜月が頑なになるのも久しぶりだ。菜月にとって春彦が大怪我をさせられたことは、それだけ許し難い出来事だった。むくれて頬が膨らんでいる。
「まぁこの程度で済んで良かったじゃねぇか。殴られたのだって一発だし」
宥めるように春彦が言うが、菜月の不機嫌はおさまりそうにない。
アイロンをかけ終わったシャツは、すぐにハンガーにかけるよう指示する。アイロンをかけた直後が、実はシワになりやすい。そういう細かいことは、実際に働いて覚えていくしかない。シンデレラは思ったより器用な子だから、経験さえきちんと積めば立派な家政婦になれそうだと春彦は思った。
「哲ちゃんに、可能な限り搾り取ってって言ってるから」
菜月は、殴られても飄々としている春彦への苛立ちも全て加害者にぶつけることにしたらしいが、搾り取るとはまるでヤクザみたいな口ぶりだな、と春彦は笑った。哲ちゃんというのは菜月の夫で、弁護士だ。事務所の法務的なことは全部やってくれている。沸点の低い菜月とは対照的に、菩薩のように穏やかな人だ。今回のことも、恐らく穏やかに対応してくれるだろう。
「それより、しばらく事務所で寝泊まりするのを許可してくれないか?」
実地研修はもちろん構わないが、ずっと冬紀の家にお世話になるわけにはいかない。春彦は今晩にはこの部屋を出る気でいた。しかし、菜月は目をきらりと光らせてそれを却下した。
「吉野さんはここで休んで良いって言ってるんでしょ。だったら、ここでしっかり怪我を治せば良いじゃない。大体、事務所は寝泊まりできるような設備ないでしょ。お風呂無いし」
「風呂なんてどうとでもなるだろ」
「あなた、銭湯入れないじゃない」
「漫画喫茶とかコインシャワーとかでどうにかなるだろ」
「そんなんじゃ、全然身体が休まらないでしょ」
「別に、そんなことどうだって良いだろ!」
お互いに一歩も引かないまま、ボルテージがどんどん上がっている。春彦も菜月もそれに気付いてはいたが、どちらも譲れなかった。
「あの〜……」
シンデレラもとい佳苗が割って入る。申し訳なさそうに、恐る恐るという感じだが、上司が喧嘩しているところに割って入れるのはなかなか肝が据わっているようだ。
「そろそろ、お夕飯の買い出しに行きたくて……結城さんはいつも、どちらのスーパーに行かれてますか?」
睨み合う菜月と春彦の顔を交互にチラチラ見ながら、新人らしい質問である。さすがに答えないわけにはいかない。とにかく話はここまで、とばかりに、菜月が言った。
「春彦、店を教えて。あたしが付き添うから、あなたは留守番よ」
俺も行く、と言いたかったが、挫いた足を引きずっていては時間がかかり過ぎる。やむなしと諦めて、何軒かある近隣スーパーの特徴を説明した。肉が安いところ、野菜が安いところ、日用品の割引が良いところなど、買うものによってスーパーを使い分ける。それによって、コストパフォーマンスを上げるのだ。家事とすると面倒なことこの上無いが、家政婦にとってはそれが仕事。仕事と思えばこそできることだ。家事代行の基本料金に加えて、実費は別途請求。できる限り実費請求を抑えることが、クライアントの満足に直結する。コスト管理は家事代行業の一番大事なところだと、春彦は佳苗に言って聞かせた。
買い出しから帰り、夕飯の支度、風呂の準備、ベッドメイキングをして業務終了である。
佳苗は疲れた顔をしていたが、初めてにしてはよく出来た。上出来だと褒めてやると、嬉しそうに笑った。
「この部屋の鍵は、相沢さんに管理してもらうわ。鍵の管理も実地研修の一環よ」
絶対に部屋から出さないという菜月の意思表示に、さすがの春彦も今回ばかりは従うしかなさそうだと思った。冬紀自身が、しばらく帰れそうにないと言っていたので、精々寛がせてもらうかと腹を括り、鍵を佳苗に渡した。これで、家政婦がいない時間を狙って外に出ることが出来なくなった。
二人を玄関で見送ったあと、朝に冬紀が言っていた灰皿のことを思い出した。さすがに部屋の中で吸うのは憚られるので、ベランダでタバコを吸った。少し冷たい夜風に当たりながら、室外機だの物干しだのが並んでいるベランダで吸っていると、以前暮らしていたマンションのことを思い出す。それとセットで、思い出したくない男の顔も否応なく瞼に浮かんだ。涼やかな目元に薄い唇。スラっと長い指がタバコを挟んでいるのが何とも言えず色っぽい男だった。もうずっと前に終わったことなのに、今でも思い出せば胸の奥がキュッと締め付けられる。あの男との暮らしに、未来に対する自分の執着が、最近は少しずつ薄まっていくのを感じていた。なのに、ベランダでタバコを吸うだけで、まだこんな気持ちになるのかと呆れた。
タバコの煙は、夜風に溶けてすぐに消える。こんな風にこの気持ちもあっさり消えてくれれば良いのにと思う。誰か溶かしてくれないかな、と口の中で呟いてみた。遠くの方で、パトカーのサイレンが鳴り始めた。
尻のポケットに入れていたスマートフォンが震える。画面に表示された、もう一人の憂鬱の原因にため息が漏れた。もう一口だけタバコを吸ったら、着信に応じることにする。出来るだけたくさん吸って、ゆっくり吐き出す。
その煙は、いつもより長くそこに止まっているように見えた。




