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人生には意外と、やっちまったと思うことが多い。後悔というより驚きと困惑。なぜ。いつ。どうしたらいい。通常ならそれらの疑問に答えを出すことも容易いが、やっちまったと思っている時に良い答えは出ない。
全身の痛みと倦怠感。気を抜くとゴホゴホと咳が出る。身体は熱くて仕方ないが、とにかく寒い。冬紀はかなり重症な風邪を引いたと思った。
おそらく昨日の取り調べが原因である。昨日は昼過ぎに、公園で主婦同士が大喧嘩をし、片方が日傘で相手を滅多打ちにするという事件があった。その主婦、というかママ友同士が子供を連れて公園を散策中、私立小学校を受験させるのさせないのとマウントを取り合い、激昂した片方が日傘を武器として振り回したというのがことの顛末だそうだ。たまたま巡回していた警察官が取り押さえ、事情を聞いて厳重注意にしようとしたところ、日傘で攻撃された方が腕を怪我したことを理由に傷害で被害届を出すと言い出した。そこで仕方なく冬紀たちが傷害事件として処理することになったのである。
その取り調べの際、被害者の連れていた子供がひどい咳を繰り返していた。顔も少し赤かったような気がする。子供が苦しそうにしているのが見えないのか、被害者の女性は少し擦れて血が滲んだ腕を見せつけるようにして訴えた。子供は母親のヒステリーに慣れている様子で、ゴホゴホと咳をし、鼻水を垂らしながらも、泣きもせず母親のスカートの裾を握っていた。冬紀はその子供がひどく憐れに思えて、近くのベンチまで連れて行った。その時に、鼻水でべっとり濡れたその子の手を引いた記憶がある。あの様子だと、あの子供は昨日の晩か、遅くとも今頃にはもう高熱を出しているだろう。母親はあの子をきちんと看病するのだろうかと、冬紀は一抹の不安を覚えたが、とにかく今は頭が回らない。
観念して相棒である先輩刑事に連絡する。
「あら、な〜によ〜。声ガラガラじゃない。絶対署に来ないでよ。うつされたらたまんない」
浅野はそんな軽い調子で休みの連絡を受け取ってくれた。一度事件が起これば体調不良で休むことなど許されない職場。浅野のこの返事は、「今のとこ事件は起きてないから、安心して休め」というメッセージでもある。今何も起きていないことに冬紀は安堵した。
これで安静にできる。とにかく怠いので、病院は昼からでも良いだろうかと考えて、はたと気付いた。今日は家政夫が来る日だ。
浅野が家に飲みにきて、お互いを下の名前で呼び合うよう提案された。提案というより、冬紀にとっては命令に等しい。かなりの難題であるように思えたが、順調である。家政夫の彼は冬紀のことを「冬紀さん」と呼び、冬紀は彼を「春彦くん」と呼んでいる。最初こそむず痒い感じがあったが、所詮は名前だ。近所の若者と少し仲良くなったくらいの感覚で、ニックネームとして呼べば良いと自分に言い聞かせた。実際、交番勤務の時にはそのような、名前で呼ぶような若者が何人かいた。全員非行少年だったが。
早く帰れる日に「ただいま」と言って家に入ることにも慣れた。今では帰ってすぐに出来立てのご飯が食べられることが何より嬉しい。契約する前は家事代行というものに躊躇いもあったが、冬紀は今の暮らしがとても気に入っている。これまでの恋人も同じように世話をしてくれたが、ここまでの充足感は無かった。休みの日に買い物に付き合わされたり、何だかんだとプレゼントなどを用意したりする煩わしさ抜きにあらゆる家事から解放されているのが理由だろう。本当に良いサービスが出来たものだと感心するしかない。
ともあれ、この大風邪を春彦に移すわけにはいかない。早く連絡を入れなくてはと、喉が痛み、身体が怠いのをぐっと堪え、家事代行サービスの事務所に電話をかけた。
「吉野さん、大丈夫ですか?その声……随分と酷いようですが、病院には行かれました?」
電話に出た立花は、相変わらず丁寧な物腰と凛とした声で、冬紀を気遣ってくれた。体調不良を伝え、今日は家事代行をお休みしてくれと頼もうとすると、皆まで言うなと言わんばかりに遮られ、「お大事に」と電話を切られた。部下に欲しいくらい物分かりの良い女性だ。
冬紀はこれで休めるとホッと息を吐き出したが、それがそのまま寝息に変わる。ほとんど意識を失うようにして、深い眠りについた。
眠っている間、夢を見た。幼い頃の夢だ。今の冬紀と同じ警察官だった父を怖がるくらいに幼かった頃。丈夫なだけが取り柄、と言われていた冬紀が、酷い大熱を出したことがあった。滅多にない熱に、母はとても心配し、付きっきりで看病してくれた。汗ばんでいることも全く気にせず額にかかる前髪をよけ、優しく撫でてくれた母の手の感触が夢の中にあった。特別家が好きだったわけではなかったが、居心地の良い場所だった。
出汁の良い香りがする。そういえば、これは母の匂いでもある。大食漢の父の健康を考えて、毎日大量の煮物を作っていた母。出汁の匂いが母の服にも髪にも染み付いていた。懐かしさに全身の力が抜ける。冬紀はしばらくこの心地良い夢に全身を預けていたが、はたと気づいた。
夢の中に匂いはあるのか?
そう思った途端夢が終わり、冬紀は一気に現実に引き戻された。
「冬紀さん、お粥、食べられますか?」
今日は居ないはずの春彦の声がする。ボーッとする視界の端に、その姿が見えた。
「……!は、春彦くん?今日は断りの電話をしたはず…」
「はい。立花から聞いています。今日は体調を崩されていると。ですから、お粥をお作りしました」
いつもより幾分低めの声なのは、熱がある冬紀を気遣ってのことなのだろうが、顔半分がマスクに覆われていてその表情は読めない。サイドテーブルに盆に乗せて置かれた土鍋の蓋を開けると、さらに出汁の匂いが濃くなった。中には美味しそうに湯気を立てる、たまご粥が入っている。
「いや、風邪をうつすといけないから、今日は来ないでくれと言ったはずだが…」
ガラガラの声でやっとのことで喋る。風邪をひくとこんなに辛かったかと、冬紀は改めて思った。一言喋るのに随分と体力がいる。喉がチリチリと痛く、口の中が焼けるように熱い。
「こんな大熱を出しているのに、何を言ってるんですか。私が来なかったら、冬紀さん何にも食べず、着替えもせずに、ずっと布団で寝てたでしょう?」
それでは治るものも治りませんよ、と言われてしまった。どうやら少し機嫌が悪いようだが、それでも声色が穏やかなのは冬紀の熱を気遣っているからだろう。春彦は少し大きく息を吸って吐き出し、続けた。
「マスクも手袋もしてますので、うつりませんよ」
ビニール手袋をした両手をヒラヒラさせる。
春彦はそのまま手を冬紀の背中に回し、「少し体起こせますか?」と自分よりも一回りほど大きい冬紀の体を支えながら起こした。身体は細いが、意外と力強い。冬紀はほとんど自分の力を使わずに起こされた。冬紀にとっては「体を起こされる」なんて経験、大人になってからは無いので驚きもあったが、春彦は何でもない顔をしてれんげを掴み、小さいお椀に少しだけ、たまご粥をよそった。冬紀は頭がうまく回らず、されるがままにお椀とスプーンを受け取ってしまった。ベッド脇の床に正座するように座った春彦がじっと見ている。おずおずと、お粥をひとすくい、口に運ぶ。
「美味い……」
冬紀はほとんど無意識に呟いた。
トロッとしたご飯は喉に優しく、舌の上ではたまごの旨味が感じられる。具合の悪い身体にはちょうど良い薄味だ。食欲はほとんど無かったが、一口、また一口と進む。食べ終わる頃には、身体にしっとりと汗をかき、今朝方に感じた身体が震えるほどの寒さは無くなっていた。
「様子から見るに、インフルエンザだと思います。早めに病院に行くのが良いと思うので、食べたら着替えてください。タクシーを呼びます」
春彦はそう言って手早く冬紀の身支度を手伝い、保険証や財布などを持たせてくれた。子供ではないのでさすがに病院までついてくるわけではないが、冬紀が帰るまでに部屋の空気の入れ替えと、汗でじっとりと濡れたシーツを替えてくれるらしい。家から出たその瞬間から、冬紀は帰りたい衝動に駆られるのだった。
春彦の見立て通り、インフルエンザと診断された。
帰ると春彦が替えの寝巻きを用意しており、清潔に整えられた布団でぐっすり眠ることが出来た。さらに、食欲の無い冬紀を気遣い、ゼリーやアイス、お粥など食べやすいものをあれやこれやと用意してくれた。そもそも体調を崩すことがほとんどない冬紀だが、何度か酷い風邪を引いたことがあった。一人暮らしの体調不良の辛さは何度か体験している。恋人がいる時はまだマシではあったが、それでも彼女らにも仕事があったため、ここまで手厚い看病をしてくれたのは、やはり母くらいなものだ。冬紀は具合が悪い時の布団が、こんなに心地よかったことはないなと思った。
夕飯はコーンがたっぷり入ったスープだった。まだあまり食欲のない冬紀にとっては、こういうスープが食べやすい。程よく身体の内側から温もったところで、春彦が今日の業務報告をしてくれた。冬紀の看病に加え、玄関とベランダ、洗面台の掃除、洗濯までこなしてくれたらしい。明日も着るものには困らないはずだから、汗をかいたらどんどん着替えるように言われた。さらに
「明日はオフなので、様子を見に来ますね」
と言われた。さすがにそれは申し訳ないと強めに辞退したが、春彦の方が引き下がらなかった。
「休みの日に私がどう過ごそうと、私の自由です。冬紀さんの様子が見たいから、見に来るだけです」
そう言って押し切られてしまった。身体が弱ると、押しにまで弱くなるのかと冬紀は情けない気持ちになったが、頭も痛いので考えるのを辞めて寝ることにした。
春彦はそっと部屋の電気を消し、静かに帰って行った。
夜中もずっと高熱で眠りが浅く、少し寝ては起きるを繰り返したために夜がとても長く感じた。浅い眠りで見る夢は、事件のことだったり、これまでの恋人のことだったり、警察学校の同期たちのことだったりとさまざまだ。それらのおかげで退屈ではなかったが、朝方にはどっと疲れてやっと深い眠りに入った。
どれくらい眠っていたのか、ボーッと天井を眺めながら考えた。身体のだるさや頭痛は随分収まっている。この働かない頭は、寝過ぎによるものではないかと思えた。
汗をかいている。寝巻き代わりのトレーナーの下に着ているTシャツがじっとりと濡れて気持ちが悪い。顔や首筋にベタつく感じがある。冬紀は起き上がって着替えようと、お腹に力を入れた。その時。
首筋の辺りに、お湯で湿らせたタオルが触れた。
「…!?」
声にならない悲鳴のような、呻きのような音を発して、そのタオルが当てられた方を見る。そこには、春彦の顔があった。
「びっくりさせてしまいましたか。すみません。すごく汗をかいているようだったので」
そう言いながら、タオルで額や頬、首筋と、優しく撫でてくれた。
ベタつきも不快な汗もサッパリしていく感覚があり、またそれ以上に春彦の手付きが心地よく、冬紀はされるがままになってしまった。しかし、本来ここまで他人に触れられることはない。付き合っていた恋人こそ身体の触れ合いがあったが、成人男性にタオル越しとは言え顔を触られていることに、羞恥心が沸いた。
「も…もう、大丈夫です。ありがとう」
そう言って首をすくめ、顔を逸らした。身体に燻る熱が、顔に集まっていくように感じた。
「気分はいかがですか?お腹すいてます?」
一方の春彦は、そんな冬紀の気持ちなどどこ吹く風で、顔を拭いていたタオルを桶に汲んだお湯に浸け、また硬く絞りながら聞いてくる。薬が効いているのか、もう随分楽になったこと、お腹もそこそこ空いていることを伝えると、春彦はその固く絞ったタオルを差し出してきた。
「では、こちらで身体を拭いて、着替えてください。その間に、雑炊を温めてきますから」
冬紀がタオルを受け取ると、春彦はそそくさと寝室を出て行った。何から何まで、本当に気が効く男だと感心しながら、冬紀は程よく温かい濡れタオルで身体を拭き、新しいTシャツとスウェットに着替えた。
「昨日処方されていた薬と冬紀さんの様子から考えて、今日はだいぶ熱も下がっているだろうと思ったんです。だから後は、栄養のあるものをしっかり食べて、体力で治していかないと。そう思って、少し具が入った雑炊にしました」
ベッドサイドまでお盆に載せて持ってきてくれた雑炊には、ササミの肉を細かく解したものや、細かく切って柔らかくなった人参や大根、ホクホクのカボチャも入っている。今日は出汁の旨味と香りもしっかり感じられ、一層美味しかった。しかし、出汁と塩だけでこんなに美味しく仕上がるだろうか、と首を傾げる。何か味が隠されているのか、と逡巡する冬紀の顔を、春彦が覗き込む。
「お口に合いませんでした?」
マスク越しでも分かる、少し不安そうな表情に、冬紀は慌てて否定した。
「いや、美味いよ。ただ、何が入ってるんだろうと思って。出汁と塩だけじゃこんな味には…」
それを聞いて、春彦の目元は嬉しそうに細められた。
「味噌です。良かった。そんなに、細かい味が分かるくらい回復したんですね」
お椀にお代わりの雑炊をよそってくれる。こうやって少しずつ覚ましながら食べるのも、大雑把な冬紀には無い発想だ。
「これは、体調が悪い時に母がよく作ってくれたメニューなんです」
お椀を手渡しながら、春彦が言った。
「私は子供の頃よく熱を出していたので。もう母の味といえば、この雑炊なんです」
そう言う春彦の表情が、懐かしいことを思い出しているだけではなく、どこか影があるように冬紀は感じた。それが少し気になったが、そこまで立ち入ってはいけないと思い、
「料理上手は、お袋さん譲りなんだな」
とだけ言って、あとは黙って食べることに専念した。
その後も、春彦は汗をかいた冬紀の服を洗濯し、夕飯に野菜スープを作って帰った。休みの日まで働かせてしまったのでと、冬紀は財布からお金を出そうとしたが、好きでやってることだからと固辞されてしまった。世話になるだけというのが心苦しかったが、仕事柄人の嫌なところを徹底的に洗い出し、誰でも疑ってかかることが多い冬紀にとって、春彦の無償の善意は雑炊より身体を温めてくれた。
薬が効いて冬紀の体調は割合早く整い、インフルエンザによる出社停止期間の後半を持て余すことになった。日頃の疲れを癒して余りある時間をベッドで過ごした冬紀は、今こそ被疑者でも何でも追いかけたいくらいの気持ちだったが、冬紀が動き回ることを春彦が許さなかった。
病気の後の体力回復には休息が肝要、との主張だ。お陰で冬紀は「むしろ身体が鈍ってしまう」と焦りすら感じた。
ベッドで週刊誌を読んでいると、春彦が昼食を持ってきた。メニューは焼き魚にお浸し、漬物、ご飯、味噌汁と、もう病人食ではないのが嬉しい。
ベッド横のサイドテーブルにそれらを並べる春彦を見て、冬紀はふと湧いた疑問を口にした。
「そう言えば、春彦くんは俺の症状を見てすぐにインフルエンザと分かっていたな。薬や回復についても詳しいし、家政婦ってなぁそんな勉強もするのか?」
その質問に春彦が、こともなげに答える。
「あぁ、私の実家は内科の開業医でして。家業を継ぐために、私も医学部を出ておりますので」
それを聞いた冬紀は、心底驚いた。医学部出身。となると、今は家業を継ぐ話はどうなっているんだ。なぜ家政夫などやっているのか。次々に聞きたいことが頭を駆け巡ったが、冬紀はそこに踏み込んで良いのか逡巡した。長く付き合うためには、距離感が必要だ。不用意に個人的なことを掘り下げて、嫌な顔をされ、やっと慣れてきたこの環境を失いたくなかった。
聞きたいけど聞けない、その葛藤が顔に出てしまったのか、春彦は冬紀の顔を見てクスリと笑った。
「聞きたいことがあれば、何でも聞いてもらって大丈夫ですよ」
冬紀は警察官として、表情を読まれたことを恥じた。反射的に「聞きたいことなんて無い」と言いそうになった。しかしこの機会を逃したら聞けなくなるような気もして、口をつぐむ。眉間に皺が寄り、口元がへの字に曲がっているのが自分でもわかった。己の表情がここまで変わることは普段無いので、複雑な気持ちに拍車がかかる。
本人が聞いて良いと言っているんだと冬紀は踏ん切りを付けて、聞いてみることにした。
「何で家政夫なんてやってる?」
口にしてから冬紀は後悔した。これではまるで取り調べだ。せめて自然で柔らかい聞き方が出来れば良いのにと思った。こういう口下手なところが、これまでの恋人たちと上手くいかなかった原因の一端だと冬紀は考えている。しかし春彦は全く気にした様子もなく答えた。
「研修医の時に、仕事をしながら違和感があったんです。毎日患者さんを診て、必要な治療をして、その人にとっての日常を取り戻す。病気や怪我を治す、もしくは和らげる、そういうことを誇りに思う反面、これじゃないかも、と」
「これじゃない?」
「患者を救う以前に、患者にならないようにすることは出来なかったのか、と」
春彦の目は、冬紀の方を向きながら、冬紀を見ていなかった。冬紀はこの顔を知っている。被疑者が見せる、動機を思い返す顔。そう思う明確なきっかけがあったのかも知れないと思った。
「患者さんの多くは、無理をしたり、何かが欠けたり、失ったりというのが原因でそうなっていることが多いと思ったんです。生活への配慮というか、自分への思いやりというか。それが悪いことだとは一概には言えません。自分よりも大切な、守りたいものがあるというのは、ある意味幸せなことだと思います。ただ、それを支えてあげられないか、医者として出来ることより、医者を必要とする前に出来ることがあるんじゃないかと」
「それが家政夫ってことか?」
春彦はコクリと頷いて続けた。
「うちは両親が仲良くて、多忙の割りに元気でしたから。特に医者の父を支える母は、病院の事務的な仕事をこなしながら、家のことをとても良くしてくれて。朝から晩まで働き詰めの父が、どうしてあんなに元気で健康なんだろうって、子供の頃からずっと不思議だったんです。医者の仕事に違和感を感じた時初めて、あぁこれか、母の存在か、と思ったんです」
春彦の顔から曇りが消えたような感じがした。それは、冬紀には何かに「蓋をした」ようにも見えたが、今度こそ本当に立ち入ってはいけないところなんだろうと理解した。
「それで、同じような考えを持ってた立花や、他の仲間を集めてこの会社を立ち上げたんです」
そう続いた春彦の言葉に、今度は全く別の角度からの驚きがあった。
「えっ、てことは、アットスウィートホームは、春彦くんが立ち上げた会社なのか?で、立花さんも元医者ってことか?」
舞子の紹介だからと、ほとんど何も調べずに契約してしまっていたことを思い出し、冬紀は改めて春彦の会社のことを何も知らなかったことに気づいた。刑事として不覚を取った気持ちである。
「いえ、立花はいわゆる幼馴染で……立花の元々の職業を知ったら、冬紀さんもっと驚くかも」
少し勿体ぶったように春彦が笑う。元医者というより衝撃的というのは、どんな職業だろうと思い巡らす。立花さんの可憐な姿を思い出すが、全く見当もつかない。
「立花は、元自衛官です」
人は見かけによらないものだなぁと、久しぶりに現場に出た冬紀はしみじみと思った。目の前ではいかにも真面目そうな、サラリーマン然とした男が項垂れている。彼は特殊詐欺、いわゆる振り込め詐欺の受け子として先程現行犯逮捕された。
病み上がりで一課の力仕事をさせるのは心配という建前で、二課の応援に出された。二課は捜査も確保までの手順も細かく、面倒なことが多いため一課の人間はあまり得意ではない。が、バックに暴力団がいたり暴れるタイプの知能犯もいるので、冬紀のような強面の一課やそもそも暴力団専門の四課に応援要請が来ることが多い。普段は冬紀に引けを取らないガタイの良さを買われた、河津という後輩が駆り出されることが多いが、今回は冬紀が行ってこいと言われた。
受け子は若者の場合が多い。アルバイト感覚で雇われて、バックにどんな組織がいるかさえ分かっていない事がほとんどである。しかし今回確保したのは、どう見ても冬紀よりやや上か、少なくとも同世代であり、冬紀より余程まともな暮らしをしていそうな男だ。バイト感覚でやっていたとは思えない。しかし彼の項垂れようから察するに、他の多くの受け子と同じく、何も知らずにやっていたんだろうと思われる。
「嘆かわしいわね。良い歳して自分がやってることに何の疑問も抱かず、詐欺の片棒を担ぐなんて」
舞子がタバコの煙を吐き出しながら話しかけてきた。冬紀の甘い缶コーヒーと同じく、このタバコが舞子にとっての仕事の区切りとしての儀式なのは知っている。「あんたも吸う?」と箱を差し出されたが、冬紀は固辞した。禁煙して、もう何年も吸っていない。
「道端で吸ってると、市民からのクレームになるぞ」
「あら、これは失敬」
舞子は戯けて最後の一口を大きく吸い、携帯灰皿にタバコを押し付けた。そして連行されていく被疑者を乗せた車のすぐ後ろの車に乗り込み、颯爽と署に戻った。冬紀も自分が乗ってきた車に四課の刑事を乗せて続く。
運転しながら、立花のことを思い出した。人は見かけによらないと思った一番最近の例だ。あの後、春彦から立花のことを聞くと、驚きの連続だった。元自衛官、かつ空手、柔道、テコンドーの黒帯だそうだ。特に空手は高校生の頃、全国大会で準優勝の腕前とのこと。冬紀も一応剣道を修めてはいるが、手合わせして勝てるか自信が無い。そしてさらに驚くべきことに、立花は春彦の三つ年上で今年31歳、既婚者だそうだ。30歳オーバーには全く見えなかったし、何より既婚ということに冬紀はなんとも言えないショックを感じていた。別に彼女とどうにかなりたいという気持ちがあったわけでは断じて無いし、既婚だからどうということも全く無いのだが。冬紀はあの日から、このモヤモヤとした気持ちを「落胆」と捉えてはいけないと、自分に言い聞かせている。
自分のため息の音が、妙に車に響いた気がした。
署に戻り、自席に座ると、踏ん反り返るように背もたれに体を預けた先輩刑事が顔に新聞を載せたまま話しかけてきた。
「おい吉野ぉ。さっきパクってきた受け子ちゃんさぁ、ただの受け子だと思う?」
「はぁ?どういう意味です?」
浅野の言いようが不可解で、冬紀は聞き返した。
「だからぁ、なーんも知らない受け子に見えるかって聞いてんのよ」
言われて、冬紀は今回の事件の逮捕劇を思い返した。
管轄内に住む一人暮らし、72歳の女性宅に息子を名乗る男から入電。事情を聞くと、会社の金を横領したのがバレて、警察に捕まりそうだと言う。代わる代わるに会社の上司や警察なども電話口に登場して、随分と手の込んだ芝居でストーリーを信じ込ませようとしてきたが、生憎女性は途中で「よくある詐欺」と気づき、信じたフリをして通報。息子の同僚として現れた受け子を逮捕したという流れだ。女性が詐欺と気づいたのは、つい最近同じような手口でお金を騙し取られた老人の話を、大好きな二時間ドラマでやっていたからというのだからテレビは侮れない。騙されたフリをした女性の機転を二課の連中は大いに褒め称えていた。
通常この流れなら、捕まった受け子は本当にただの雇われ、アルバイトで何も知らないことが多い。浅野が何に引っかかっているのかわからない。
「何かあるってことですか?」
冬紀は改めて聞いた。すると、浅野は顔の上の新聞をちょいと持ち上げた。新聞の影になって光なんて当たっていないはずなのに、浅野の目は妙にギラついて見えた。
「多分あいつ、いろいろ知ってるから。早乙女にしっかり念を押すよう言っといて」
とだけ言ってまたパサリと新聞を顔に載せた。
こんな態度のおっさんの言うことなど本来なら無視だが、浅野に限ってはそれが出来ない。冬紀は取調室で話をしているであろう舞子を呼び出し、浅野の言葉を伝えた。
取調べが始まってから3時間が過ぎた頃、冬紀が帰ろうと立ち上がった18時過ぎに刑事課はにわかに騒ぎになった。なんとあの項垂れていただけの、何も知らないはずの受け子の口から、最近管轄内でマークされているヤクザ、祥極会の幹部の名前が出てきたからだ。その男は来栖元樹と言い、かなり頭がキレる。二課は来栖の存在を知りつつもいつも決め手に欠け、二の足を踏んでいた。来栖が今回の詐欺事件に絡んでいるなら、本格的に捜査を始めるキッカケにも足掛かりにもなる。
しかし妙なのは、なぜ最末端ともいえる受け子が来栖を知っていたかである。特殊詐欺において最も逮捕される可能性が高い受け子を雇うのは、中枢から幾重にも仲介する団体があって、その中の下層団体だ。元請けから下請けの下請けの、さらに下請けの下請けといった感じで、当然下層団体は元請が誰なのか教えられていない。あの受け子が、祥極会と繋がるはずがない。
「浅野さん、お手柄です」
取調室から出てきた舞子が、浅野と冬紀のデスクまで来て言った。
「ちょっと吉野、お前俺の忠告って言ったの?こういう時は、自分の手柄になるよう俺の名前は出さないもんよ、普通」
浅野は横目でジトリと冬紀を見た。
「浅野さんが怪しんでるから、そのまま伝えたまでです」
冬紀は浅野を一瞥し、すぐに舞子に聞いた。
「あの受け子がゲロったらしいが…なんであいつがヤクザの名前知ってたんだ」
「それがよく分からないの。浅野さんからの忠告を聞いて、いろんな方法で揺さぶりをかけたんだけど、確かに怪しい臭いがするようになって。今は確信を持って言えるわ。あいつ、ヤクザの関係者ね」
もうそこまで尻尾が来ている気がするのに、それが掴めない苛立たしさが舞子の顔に滲んでいる。一刻も早く手がかりを掴んで、四課と組んで組に踏み込みたいのだろう。ヤクザをぶっ潰す。根絶やしにする。それは警察学校の頃から燃やし続けている、舞子が警察官である動機なのだ。
「あんなに肝の小さそうな、普通の奴が…」
思わず冬紀がそう漏らした。それを聞いた浅野は、
「人は見かけによらぬもの、ねぇ」
と言ってニヤリと笑った。
快気祝いで奢ってやるという浅野に連れられて、署の近くの居酒屋に来た。二課の連中は慌ただしく裏取りや受け子の揺さぶりネタを探しているようだが、今のところ冬紀は応援が要請されない限りすることが無い。割合早い時間から飲めるのが嬉しい。
「今日は結城ちゃんお休みなんでしょ?」
浅野が確認してくる。冬紀にとってはだから何?という確認だが、浅野曰く、
「結城ちゃんがご飯作って待ってるんなら、誘っちゃ悪いじゃない」
とのこと。春彦は仕事でご飯を作っているだけだし、待ってもいない。浅野の言うような「悪い」という感覚は冬紀にはまるで無いが、何故か浅野は納得しなかった。
「どういう経緯でお前の飯を作っていようが、お前は作ってもらってる側なんだからすっぽかしちゃダメでしょうよ」
浅野の言うことも何となくわかるが、しかし春彦の存在は冬紀にとってもっとビジネスライクなものだ。浅野の言い分だと、その領域を超えている気がする。
「どうせお前のことだから、そういうサービスと思って結城ちゃんの作ったご飯を食べたりしてるんでしょうけどね」
浅野はちびりちびりと日本酒を舐め、続けた。「インフルエンザの看病までしてもらっといて、そりゃ失礼通り越して薄情だよ」
「いや、俺はうつるとまずいからって断ったんですよ」
「断ったのに、看病してくれたんでしょ?その看病のお陰で、お前は今こうして元気なんでしょ?」
言われて、冬紀はハッとした。そうだ、春彦のお陰で高熱もさほど苦しむことなく乗り越えられた。そして言い方は変だが、インフルエンザのお陰で春彦のことを聞けたのだ。そのことに思い至った時、冬紀は立花のことを知った衝撃より、春彦がどういう人間なのかに興味が湧いてきた。もしかすると、自分が見えている春彦とは違うように、浅野には映っているかも知れない。そう考えて、冬紀は浅野に春彦から聞いた家事代行会社の立ち上げ秘話を話した。そして、浅野には春彦がどんな人間だと映っているかを聞いてみた。
すると浅野は、なかなか手放さなかった日本酒の杯をテーブルに置き、両手を膝に叩くように置いて、背筋を伸ばした。
「吉野、お前も刑事だ。相手を見抜こうとする時は、五感全てを、いや、六感まで使え。結城ちゃんの言葉の一つ一つ、トーン、間、表情、匂い、あらゆるものを整理して絡めて考えろ。ヒントはもう十分持ってるはずだぞ」
結局、浅野は意味ありげに濁しただけで、冬紀に何も教えてくれなかった。浅野に見えていて、自分に見えていないものがある。立花のこととは全く違うモヤモヤを抱えて、家に帰った。
整えられた部屋。春彦に来てもらう前までは、家に帰ることに対して何も思いはしなかった。ただ、仕事で疲れた身体を休め、翌る日も刑事としての職務を全うする、それだけの繰り返し。しかし春彦が来るようになってから、家に帰ると何か、うっすらと胸に込み上がってくるものを感じていた。じんわりとした、ほっとするような、ここに居れば大丈夫という気持ち。今日も無事に帰って来れたという気持ち。春彦が居ればその感覚はいっそう濃くなり、居なければ明日への待ち遠しさが加わる。
冬紀は、この気持ちが何なのか、名前が見つけられなかった。




