1.5
仕事の後の一服は、身体の奥深くに染み込む。行きつけのバーで仕事終わりの煙草と酒を嗜むのが、結城の一番の楽しみだ。煙を肺の奥深くに吸い込み、しばらく溜めて吐き出す。全身に痺れるような快感がくる。実際は血管が収縮して身体に悪影響であることは理解しているが、逆に冴え渡ってくるような気がするのは何故なのか。結城はその長い指でタバコを弄びながら、今日のことを振り返った。
まさか、あんな理由で帰りにくくなっているとは夢にも思わなかった。良い年をした、それもあんな強面の、熊のような男が、「ただいま」を言えなくて家に帰れなくなるとは。それがバレて真っ赤になった様子は、なかなかに可愛らしかった。思い出すだけで、自然と口元がほころぶ。
契約書類の職業欄には「公務員」と書いてあったが、立花の見立てでは消防士か警察官。今日連れてきた同僚というおっさんのことを考えれば後者だろう。
食えないおっさんだったなと思う。あの男は結城の気配りについて、味噌の他にも沢山あるだろうと言っていた。どれくらい気付いたのだろうか。まぁ本人にバレなければ良いと結城は思っている。気配りとは、されていると認識すると途端に重荷になることがある。特に今回の客はそのタイプだろう。気を使われることに気を使う。
そんな性格の部分も話してみるとよく分かるので、今日は収穫の多い日だった。何より、吉野の咀嚼回数が増えていることが嬉しかった。
初めて会った時、夕飯を食べる様子を見たが、とにかく噛む回数が少なかった。米なんてほぼ丸呑みに近い状態だ。今はそれで良いかもしれないが、歳を重ねれば健康上のネックになる。内臓にも脳にも、噛むことはとても大事なのだ。だからこそ結城は意識して固いもの、よく噛んでからしか飲み込めないものをメニューに多く取り入れた。その効果が今日、見えたのである。
再び深く煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。さて、あの食えないおっさんは今日、俺のことをどれだけ見抜いただろうか。そしてそれを、吉野にどれだけ伝えるだろうか。自分を良く見せようとは全く思わないが、ここにいる本当の姿が知れれば、吉野との「パートナーシップ」は終わるだろう。そうならない為に、少しでも長く、客のスウィートホームを守ってやりたい。それが、結城という男の野望であり、夢なのだ。たとえそれが仮初やまやかしと言われるものだとしても。
ふとおっさんが提案してきた「お約束」を思い出した。
「お互い下の名前で呼び合いなさいよ。その方が、早く仲良くなれるだろ」
結城にとっては造作もないことだ。しかし「ただいま」さえ口にするのに理由が必要な吉野は出来るだろうか。ゆでダコのように真っ赤になった吉野の顔を思い出して、また笑えてきた。あんなに赤くなった頬は、撫でたらきっと、それはもう熱くなっていただろう。
グラスの氷がカランと音を立てて溶けた。