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いい加減身持ちを固めろ、と言われ始めたのが8年前。
何も言われなくなって3年。
世間一般にはまだ諦める年齢でも無いが、この男、吉野冬紀に関して言うならば、諦めざるを得ない感がある。腹もたるんでくる30代半ば。しかしその割に身体は引き締まって筋肉質。人混みの中にいても頭一つ飛び抜けて見えるほどの長身だ。顔つきも強面ではあるがなかなかの男前である。外見だけで言えばモテそうではあるが、これらアドバンテージを差し引いて余りある難しさが、彼にはある。
彼は、刑事である。
一度事件が起これば何日も帰らないなんてことはザラであるし、その場合は連絡すら取れなくなる。おまけに自分の信念を曲げない頑固さや生来のデリカシーの無さも助け、これまで長く続いた女など皆無だ。「そんなあなたが良いの」とベタ惚れされて付き合い始めた女でさえ、半年と持たなかった。3年半前、「これ以上一緒にいられると思えない」と捨て台詞を残して出て行く女の背中を、呆然と見つめたのが最後の恋だ。大事に思っていなかった訳ではない。ただ、刑事としての矜持に従い、事件と向き合い続けた。その分プライベートはどんどん疎かになった。自覚はあったがどうしようもなかった。警察官になった時、自分で決めた生き方だ。
そう言うわけで、結婚については周りの人間より、本人が諦めている。
事件が一つ片付いた。今回は2週間半という長丁場で、その間は寝食を惜しんで聞き込みやら裏取りに駆けずり回った。姿をくらましていた被疑者をようやっと見つけるも、もの凄いスピードで逃走。周辺にいた刑事全員参加の鬼ごっことなった。被疑者は元陸上選手だった。寝不足と栄養不足の身体で町中を全力疾走した吉野とその同僚たちは、署に戻ったら死体とほとんど見分けがつかない状態になった。一課に与えられている事務部屋に男たちの汗やタバコやその他諸々の臭いが充満している。常人なら5分もそこに留まれないだろうが、その部屋の住人達にとってはそれこそが日常であり、被疑者を無事捕まえた後なのでむしろ清々しいくらいだ。
冬紀は自分のデスクで、事務部屋からすぐの自販機で買った加糖のコーヒーを開けた。小気味良い音がして栓が開き、甘ったるい、しかしほのかに苦い香りが部屋のすえた臭いを打ち消してくれる。
事件が終わった時、冬紀は決まって甘い缶コーヒーを飲む。普段はブラック派だが、大捕物の後はどうしても甘いものが欲しくなる。交番勤務だった頃、当時ペアを組んでいた先輩に勧められて初めて加糖のコーヒーを飲んだ。疲れ切って、もう家に帰る気力さえ残っていなかったその時、先輩がくれたそれで、温かいものが全身に染み渡っていく感覚を知った。久し振りに血が通ったような感覚だった。それ以来、事件後の缶コーヒーは冬紀の習慣である。
最初こそ「美味いな」くらいの気持ちで飲んでいたがふと、ある種の虚無感も霧散することに気づいた。心の奥底に眠っている、願望。甘いコーヒーは、その「代わり」だ。
「じゃ、俺はとりあえず帰るわ。そろそろカミさんの手料理が恋しい」
不精に伸びた髭をさすりながら、相棒の先輩刑事、浅野仁がジャケットを肩にかけて帰っていく。その後姿を見送ってから30分。報告書も書き終えて、ようやく家路につけると冬紀は立ち上がった。そこへ同期の女刑事、早乙女舞子がやってきた。冬紀は面倒なことになりそうだと思った。
「吉野、今帰り?ならちょっと付き合いなさいよ」
やっぱり飲みの誘いだったかとため息が漏れる。
「見てわかんだろ。今日は無理だ。疲れてるんだよ」
「あら、たかだか2週間ぽっちの捜査で、飲みに行けないほどクタクタなの?情けな〜い」
これだから二課の連中は、と冬紀は思う。彼女の所属する二課は経済事件の担当で、知能犯がらみが多い。つまり、犯人と追いかけっこをするような体力仕事にはなりにくい。彼女の言う「捜査」と、冬紀たちのやる「捜査」は質が異なる。
「何とでも言え。俺は帰って寝たいんだよ」
冬紀は舞子の横をすり抜け、さっさと足を進めた。
「どうせ、寂し〜い真っ暗な部屋に帰るんでしょ。寝るためだけみたいな部屋に。だったら、その前に栄養のあるもん食べて帰りなさいよ」
痛いところを突いてくる。いつもならここまで食い下がることも無い舞子だが、それ程分かりやすく顔に疲労が出ていたらしい。誰かの手料理が食べたいと思っていたのは事実だ。この際居酒屋飯でも良いかと、冬紀は観念することにした。
舞子に連れてこられたのは、署の近所の小料理屋である。程よく静かな場所で、彼女の行きつけだ。冬紀がよく行く大衆居酒屋のような、注文するにも青筋を立てなきゃならない五月蝿さは一切無い。女将が丁寧に小鉢なんかを出してくれる、そんな店だ。
今日は冬瓜と鶏肉の煮物が絶品だった。ちょっと前までは、タレと脂の味しかしない焼き肉なんかで米をかきこむのを好んだが、最近はこういう出汁の旨味とか、素材の味の奥深さとかを好むようになった。海苔の味噌汁が胃に染み渡る。
舞子がこの店を選んだと言うことは、仕事の愚痴だの日頃の鬱憤晴らしでは無いことは分かっている。冬紀に何か真剣な話をする時の店だ。舞子が熱燗から梅酒に変えた。そろそろ、本題に入るのだろう。舞子が梅酒を一口飲み、ほっと息をついた。カウンターに座っているので彼女の表情まではわからないが、話し出すきっかけを作っているのだと思った。冬紀がビールをグイッと煽った。それがきっかけになったのか、舞子が口を開いた。
「あんたさぁ、そろそろ、世話してくれる人が欲しくなってんじゃない?」
舞子の言葉が予想だにしないものだったからか、それとも声色が妙にしおらしかったからか、冬紀はビールを吹き出しかけた。ついにこの女、近場でまとめることにしたのか?と身構える。嫁が同業なら、確かに仕事はしやすいかもしれないとも思う。しかし。
「俺はお前とは結婚しない。他を当たれよ」
こういうことははっきり言った方が良い。これまでの経験で学んだことだ。冬紀はできるだけ無機質に、変な期待を持たせないように言った。すると舞子は、大きな目を丸くして、そして吹き出した。
「ちょっと、あんた、私があんたと結婚したがってるとでも思ったの?」
勘弁してよ、と舞子は上品に、揚げ出し豆腐を口に運んだ。
「お生憎さま。私、男には困っていなくってよ」
「じゃあ何なんだよ、さっきのは」
「言葉そのまんまの意味よ。世話してくれる人がいたら良いなって思ってんじゃないかって」
「女でも紹介してくれんのか」
「全く、今時『世話してくれる女』を探すなんて、流行んないわよ吉野」
舞子にしてはえらく勿体ぶっている。警察学校では報告・連絡・相談は簡潔に、順を追って、事実だけを端的に伝えるということを叩き込まれた。日々の仕事でも、そうしなければならない。なのになぜ本題に入らないのか、そんなに言いにくい事をこれから言い出されるのかと冬紀にははかりかねた。
冬紀の不可解そうな顔が嬉しいのか、舞子が悪戯っぽい笑みを浮かべて鞄から紙を取り出した。何かのチラシのようだ。
「家事、代行?」
爽やかな水色の広告には、デカデカとオレンジ色で家事代行サービス、お友達紹介キャンペーンと書かれていた。
「そう。最近、使ってみたのよ。家事代行サービス。思いの外すんごく良かったから、吉野にも教えてあげようと思って」
家事を業者に頼むなんてこの女もいよいよ結婚を諦めたんだな、と冬紀は悟った。が、そのことには触れない方が良いだろうとこれまでの経験値からそう判断する。デリカシーは無いが、学習能力は高い男だ。
チラシには家事代行の文字の他、エプロンをつけた女性が掃除や料理、洗濯をしているイラストが描かれていた。その女性の胸がやけに大きい気がする。そういうところに、この「家事代行」というサービスが男性をターゲットにしていることを感じる。もちろん、家事以外のサービスを期待するわけではないが。
「ここの家事代行、本当に仕事が丁寧で、部屋も片付くし、洗濯もやってくれるから休みの日はゆったり過ごせるし、何より、料理がとても上手で、美味しいのよ。私は週3で来てもらってるんだけど」
舞子は梅酒を飲みながら言った。
新しい出会いへのちょっとした期待に肩透かしを喰らったような気持ちで、冬紀はチラシに目を滑らせた。そして、チラシの下にある文言に、目が止まる。
「明るくて、あったかい、ごはんが待つ家に帰る幸せを、全ての人に」
思わず声に出して読んでしまったが、その言葉の甘い響きに、冬紀は身体が痺れるような感覚を覚えた。
「あんたも欲しいんじゃないかと思ってさ。あったかい家」
その言葉が冬紀の心に刺さっているのを確信して、舞子は微笑んだ。結婚はしなくとも、彼女にとって冬紀は同期の中でも特別なのだ。
舞子からチラシをもらって、1週間が過ぎた。その間、大きな事件は特になく、細々とした喧嘩やカツアゲなどの傷害事件を淡々と処理する毎日が続いていた。これくらい平和なら、冬紀も少しは人間らしい暮らしができる。
その一方で「明るくて、あったかい、ご飯が待つ家に帰る幸せ」という言葉が、頭から離れなかった。事件がなくとも、冬紀の帰宅まで家には人が居ない。必然的に帰る家は暗く、冷たいものだった。家事代行は、確かにそんな暮らしを変えてくれるかもしれない。期待はできる。恐らく冬紀の欲しいものの「代わり」にはなるだろう。
しかし今一歩踏み出せないのは、その「代わり」を利用したら、もう一生、「本物」は手に入らないのではないかと思ったからだ。頭では諦めていても、まだ心のどこかで諦めきれない自分がいる。
こうしている間に大きい事件が起こってしまったら、その時は「ご縁がなかった」と諦めることもできるだろう。そうなることをむしろ期待していたが、まさか1週間も何も起こらないとは思わなかった。
隣の席の先輩刑事が、書類仕事に飽きたのか、天井を見つめながら顎を撫でている。事件がないので、その顎には髭が無い。
「吉野ぉ、なんか面白い話しろよ」
無茶振りだ。よほど退屈なのだろう。
「面白いことなんて何もないですよ。見てわかるでしょう。今のうちにやっとかなきゃいけない書類仕事が山積みです」
刑事も一介の公務員。事務仕事からは解放されない。それは浅野も同じはずだ。冬紀はチラリと浅野のデスクを見て驚いた。そこには大方片付いた書類の山。浅野は勘も鋭いが要領も良い。終わったなら、少しくらい手伝ってくれよと恨めしい目を向けた。その視線に気づいているのかいないのか、浅野はのらりくらりと続ける。
「んじゃぁ、最近お前さんがちょいちょい眺めてる、チラシの話でもしてみてよ」
冬紀の手が思わず止まる。この人は本当に、どうでもいい時にカンの良さを発揮してくる、と呆れた。見られていた気まずさを噛み潰して、顔が少し熱くなるのがわかった。
「何のことです?」
「家事代行のチラシのことだよぉ」
とりあえずしらばっくれてはみたが、逃してはくれないようだ。というか、内容まで全部知っているとは。
「明るくて、あったかい、ご飯が待つ家に帰る幸せを、全ての人に。って最高じゃない」
「そこまで知ってるなら話す必要ないでしょ」
「まぁまぁ、お前のことだから、チラシ眺めてるだけなんじゃないかと思って」
浅野は、事件の時ペアを組む相手だ。信頼できる上司であり、兄貴のような存在だ。そんな彼に見透かされているのは恥ずかしい。
「いいじゃないの。電話、かけてみなさいよ」
「浅野さんの暇つぶしにはなりませんよ」
「諦めきれない自分」だけは隠し通せていることを信じて、冬紀は抵抗して見せた。それさえも見透かしているのかそうでないのかわからない胡乱げな目を冬紀にちらりと向けて、浅野は少し笑った。
「お前に、あったかい家に帰って欲しいのさ。俺も」
俺「も」というところを強調した。このチラシの出所までわかっているのだろう。お節介な同期の顔がチラついた。彼女はチラシを渡して満足げにしていたが、目の奥には冬紀を心配しているような色が伺えた。
「諦めきれない自分」が、少しだけ、手綱を握る手を緩めたような気がした。
冬紀は行動力がない男ではない。頑固さゆえに決断までに時間がかかることもあるが、決断してからの動きは早い。一回だけ使ってみようと思ってみると、「本物」が手に入らなくなるかもしれない不安より、「代わり」によって得られるものへの期待の方が大きく膨らんだ。
チラシにある番号に自分のスマホで電話をかけてみる。1回のコール音で受話器が取られた。なかなか、優良な業者のようだ。
「お電話ありがとうございます。アットスウィートホームです」
若いが、丁寧な雰囲気の女性の声が聞こえた。その声に、冬紀は何だかほっとしたような、気が抜けたような心地がした。これから手に入る「代わり」に、胸が弾む心地がした。
冬紀のスケジュールに合わせて3日後の19時に担当者を家に向かわせると言われた。その日は契約書類の作成と合鍵の受け渡し、そして部屋の状態を見せてもらうとのことだった。初めて会う人に合鍵を渡すのは抵抗があるが、仕事に行っている間に家事をしてもらうことになるので仕方がない。
大きな事件が起こればたちまち帰れなくなってしまうので、冬紀は祈るようにして過ごした。その甲斐あってか、契約の初日まで、淡々とした平和な日々が続いた。
いよいよ初めて、家事代行の業者が家に来る、という日になった。ゴミぐらいはまとめておいた方が良いかとゴミ袋を用意したが、一つ二つじゃ足りないくらいゴミが出て、自分でも引いてしまった。こんな汚い部屋を、初対面の赤の他人に片付けさせるのかと、今更ながら気が引けてくる。しかし、玄関のチャイムは鳴った。
ドアの覗き穴からそっと外を覗いてみると、目がくりくりしたショートカットの若い女性が立っていた。てっきり、もっと主婦然とした人がくることを想像していたので、面食らった。二度目のチャイムが鳴って、慌ててドアを開けた。
「こんばんは。アットスウィートホームの立花です」
その声は、電話で聞いた声と同じだった。若くて、丁寧な雰囲気のある女性。冬紀のイメージを具現化したような、いや、それに可憐さをプラスしたような女性だった。
「では、契約書類は揃いましたので、合鍵をいただきます」
立花菜月と名乗ったその女性は、とても手際が良かった。
部屋に入るなり、床から壁、天井、棚、あらゆるものをさりげなく見て周り、必要なことをさくっと説明したら、すぐに書類作成に取りかかった。
「合鍵は、これです」
テーブルの上に合鍵を出すと、立花はそれをジッパーのついた袋に入れ、「吉野様」とマジックで袋に書いた。鍵の管理もきちんとやってくれそうだ。
「では明日から週3回、月・水・金でお部屋に入り、家事をさせていただきます。初回はお部屋の片付け、掃除、たまった洗濯物の処理と、夕食と翌日の朝食の準備をいたします。他にお弁当を作って欲しいとか、重点的に掃除して欲しい場所などご要望はありますか?」
「あ、いえ、特に。お任せします」
「かしこまりました」
立花の手際が良すぎて、あまりにも事務的な感じがした。冬紀は自分が落胆していることに気付いた。何だかんだ言って、過度な期待をしていたのかもしれない。だが、少なくとも「ご飯が待つ」家にはなりそうだと自分を慰める。それだけでも、「代わり」としては充分すぎるだろうと。これで良かったのかというモヤモヤした気持ちは、次の日の帰宅まで引きずることになった。
帰ってきた時、思わず玄関の表札を確認した。そこには「吉野」と書かれていたので、間違いなく、ここは冬紀の家だった。
決して広くない1DK。確認する場所はそんなに多くないが、一ヶ所一ヶ所に冬紀は驚いて回った。見違えるほど綺麗になっている。
水アカだのカビだのでくすんだピンクのような色をしていた風呂の壁が、元のクリーム色になっている。用さえ足せれば何でも良いと思っていたトイレが、磨き上げられトイレカバーまで変えられている。次に拝めるのは引っ越す時だと思っていた部屋の床は、散らかり放題のものが整頓され、見えている。フローリングは丁寧に水拭きされていた。
そして、テーブルには綺麗に並べられた夕食と、メッセージカード。
「お帰りなさい。お仕事お疲れ様でした。ご飯は炊飯器に2合、お味噌汁は鍋にあります。お皿のハンバーグは、ラップのままチンして温めなおしてください。処分するか迷ったものはダンボールに入れてまとめています。お時間ある時にご確認くださいませ」
メッセージの内容は事務的なものだったが、冬紀は胸が暖かくなるのを感じた。「お帰りなさい」と誰かに言ってもらえたのは、何年ぶりだろうか。
夕食のハンバーグも、居酒屋やレストランでは味わえない、家庭の味がした。実家と同じ甘い味噌汁が、全身に染みるような気がした。
家があったかいと感じたのは、本当に久しぶりだった。
冬紀はその日、甘いコーヒーでは絶対に味わえないほどの充足感を得て、眠りについた。
上司や先輩たちが口を揃えて「結婚しろ」「嫁がいるのは良いぞ」と言うのは、何もプライベートが充実するからというだけではないのだなと思った。単純に、仕事の能率が上がるのだ。
家事代行を利用し始めて1ヶ月。栄養への配慮が行き届いた食事に、心からリラックスできる片付いた部屋、存分に疲れを癒せる風呂、そしてパリッとアイロンのかかったスーツ。とにかくこれまでにない身体的な充足を感じている。こんなことなら、もっと早くに利用しておけば良かった。もしそうしていたら、もっと早く解決した事件すらあったのではないかと思うほどだ。
とにかく充実した毎日を送っていたが、ついに事件が起きてしまった。
夫婦喧嘩の末、妻が包丁を持ち出し、振り回しているうちに夫に怪我をさせた。家から飛び出して逃げる夫を、包丁を振りかざして追いかける妻。それを見た近所の会社帰りのサラリーマンが通報し、交番にいた巡査が急行。取り押さえて終了である。妻はすべて認めている。
ここまでなら何のことはない、ただの傷害事件で、夫が被害届を出さなければ、せいぜい厳重注意で終わる。しかし、ことは少々厄介になった。その喧嘩の原因が、夫の強盗だったのである。最近妙に羽振りが良さそうな夫を不審に思った妻が夫の動向を探ったところ、悪い連中とつるんでいることがわかった。その悪い連中というのが、最近冬紀の署の管轄内で幅を利かせ始めている反グレ集団の一部で、カツアゲの常習犯だった。さらに始末の悪いことに、どうしたものかと妻が考えあぐねている間にエスカレートし、ついには隣町の老夫婦の家に強盗に入った。
妻は夫を自首させようと説得するも、逆に殴るなどの暴力を受けて失敗。罪の意識に駆られ、夫を殺して自分も死のうと思ったそうだ。
ただの障害事件で処理しようと思っていたのに、芋づる式に余罪が発覚。そこからそれぞれの事件の捜査と裏どりで結局長丁場になってしまった。事件の処理が完全に終わって解散になったのは、発生から十日後の昼間だった。
面倒な仕事ではあったが、冬紀はいつもより身体の疲れを感じなかった。というのも、事件の捜査中も何度かは家に帰って、家事代行で作ってもらった料理を食べていたからだ。帰りはたいてい夜中になったし、数日に一度しか帰れなかったが、きちんと用意されている食事を食べると、活力が湧いた。
安らぎと支えあいを求めて結婚した二人が、殴り合い、殺そうとするまでの状態になることを考えると、夫婦とはなんぞやという気持ちになる。妻も、あんな夫と結婚さえしなければ、犯罪者の妻にも、犯罪者にもならずに済んだろうにと思うと、可哀想な気持ちになってくる。が、妻を養わなければならないという重圧に喘ぎ、魔がさした夫の心情も思いやれなくもない。そういう人の心の弱いところに、悪は平気でつけこんでくる。それはどんな正義の心を持っていても、防げない時は防げないのである。
冬紀は、確かに「本物」はまだ手に入れられていないし、もう諦めかけているが、手に入れた「代わり」が「本物」に匹敵する、いや、「本物」を超えるものなのではないかと都合よく思えてきた。余程揉めない限り、家事代行で事件に発展することは考えられない。
ともあれ、事件が終わったので心にも時間にも余裕がある。冬紀はその日、明るいうちに家路についた。
玄関のドアに鍵をさす直前に、冬紀ははたと気付いた。その日は、家事代行が来ている日である。もしかしてこのドアの向こうで、今立花さんが家事をしているのだろうかと考えた。ドアを開ける。少し驚いた顔をする立花さん。それでも、あの可憐な笑顔で「おかえりなさい」と言ってくれるのだろうか。いつもはメッセージカードに書いてある、「おかえりなさい」を聞くことができるのだろうかと、妄想が膨らんだ。
アットスウィートホームとはよく言ったものだ。
出来立てのあったかいご飯、洗濯して畳まれた洋服、片付いた部屋、そして立花さんの笑顔。冬紀の仕事は疑うことだが、扉の向こうのスウィートホームを疑うことはできなかった。
ドアが、緊張と期待がこもった音を立てて開く。玄関に、一歩踏み込む。人の気配がする。味噌汁の甘い匂いと、魚が焼ける匂い。
第一声は「ただいま」でいいのか。自分の部屋なのに、何と言って入ればいいのか逡巡した。なぜか背中に汗が滲むのを感じた。喉の奥が乾いて張り付き、声が出ない。
ドアがガチャリと閉まる。思ったより、大きな音がした気がする。
部屋の主が帰ってきたことに気づいた気配がする。キッチンの人影が動き、近づいて来る足音が聞こえる。
「あ、おかえりなさい。今日は早いんですね」
その顔を見た瞬間、冬紀はもう一度ドアを開けて表札を確認した。そこには「吉野」と書かれていたので、間違いなく、ここは冬紀の家だった。
逸る心臓を深呼吸で宥めながら、冬紀はもう一度家の中を確認した。いや、家の中にいる人を確認した。その人物は、先ほどよりも玄関に近づいていて、部屋の主を迎え入れる姿勢のようだ。玄関マットの手前でもう一度、言った。
「おかえりなさい」
もう間違いようがなかった。その人物は立花さんではない。というか、可憐な女性ではなく、男だった。一見ひょろっとしているように見えるが、長袖でもわかる肩から腕、そして胸板の肉付きから考えても、程々に筋肉のついた、若い男であった。背も高い。
「あ、あ、あの…た、ちばなさん、は…?」
冬紀は仕事中では絶対にありえないほど自分が狼狽していることにも気づかなかった。仕事柄、感情を隠すことには長けている。しかし、目の前の男に、動揺を隠すことはできなかった。
冬紀の動揺をよそに、男はクスリと笑って、あぁ、と言った。
「すみません、立花は契約書類の作成と部屋の下見が担当で、このお家の実務は私が担当しています」
男はエプロンのポケットから名刺ケースを取り出した。名刺を差し出す所作が何処となく優雅で、目が釘付けになる。
「アットスウィートホーム、家政夫の結城春彦といいます。よろしくお願いします」
炊き立てのご飯と、湯気のたつ味噌汁。鰤ときのこのソテー。小鉢は肉じゃがと牛蒡のサラダ。
冬紀が部屋着に着替えている間に、夕飯の支度は完璧に整った。イレギュラーに部屋の主が帰ってきても、全く動揺しない結城の手際の良さは、まさしくプロの仕事だと思った。
「いただきます」
手を合わせて食べ始める。ふっくらとした鰤の旨味が口の中に広がる。その旨味そのままに、白いご飯をかき込む。それを甘い味噌汁で流し込む。性格なのか仕事柄なのか、冬紀は早食いだ。ゆっくり食べたいとは思っているものの、一口も大きく、噛む回数も少なめである。
がっつくように食べていると、はたと視線を感じた。そっと視線の方へ目をやると、結城が黙ってこちらを見ていた。
「あの…、何か?」
「あぁ、すみません。吉野様のお顔も、どんなふうにいつも召し上がっているのかも、初めて見るものですから。お気になさらず」
はぁ、と冬紀は曖昧に相槌を打ったが、視線が気になって食べにくい。
「あまり見られると、食べにくいのですが」
「これは失礼しました。お口に合っているようで、安心致しました」
その後、結城は翌日の朝食用のサラダを作り、活動報告をして帰って行った。
食べているところを見つめられたのには面食らったが、冬紀は思ったより他人がいる部屋でも寛げるものだなと思った。夕飯を食べている隣で、キッチンに立ち料理をしている人がいる。それに何となく安心感のようなものを感じた。高校生の頃、部活で夜が遅くなっても、夕飯を食べている間は食卓の向かいに母が座っていたことを思い出した。さっさと寝てしまっても良いのに、母は自分が食べ終わるまで、おかずを温め直したり、おかわりをよそってくれたりと世話を焼いてくれた。あの時は何とも思っていなかったが、思えば食事をする時に誰かがそばにいてくれることは、とても安らげるものだったと思い出した。
今日の味噌汁は玉ねぎがたっぷり入っていて、特に甘く感じる。こんなに甘いのに、ご飯にはよく合うのだ。母の作る味噌汁も、同じくらい甘かった。
結城と初めて顔を合わせてから数週間。特に大きな事件も起こらず、何度か家政夫の作業時間に帰るタイミングがあったが、冬紀は何となく寄り道などをして、帰る時間をずらしていた。顔を合わせたくないわけではないが、何となく気まずい。立花さんがいると勘違いしていたことを知られたのが気恥ずかしい。立花さんが「お帰りなさい」と迎えてくれる家を妄想してしまったことまでバレてしまってはいないかと不安に思った。邪なことは考えていないが、しかし妄想についてどう思うかは人それぞれだ。立花さんに癒されたいという思いが「邪」と言われれば、そうかもしれない。
とにかく気まずさが消えるまでは、結城が家にいるタイミングは避けるようにしていた。
冬紀はもともと趣味がない。仕事柄、ギャンブルなどに興じるのもどうかと思うので、パチンコやゲームセンターの類も行くことがない。かと言って大人しく本を読んだり、映画を観たりするのも性に合わない。こういう「時間潰し」は苦手だ。
冬紀はここ最近、最寄りの駅前にある商店街の中の喫茶店で時間を潰していた。署の近くの店だと同僚に会う可能性もあるし、同期の女刑事に見つかると長くなりそうだからだ。
その日も、冬紀は週刊誌片手にその喫茶店に入った。すると、なぜかいつもの窓際の席に、先輩刑事が先に陣取っていた。そっちが来たか、と冬紀は思った。どうせ浅野が、妙に鋭いカンを働かせて先回りしてきたのだろう。知らんふりしたかったが、目が合ってしまった。浅野が、右手を上げて「こっちこっち」と呼んでいる。
警察は縦社会だ。先輩を無視することなど許されない。冬紀は浅野に見咎められないようため息をついて、テーブルに向かった。
「いやぁ最近、妙に残業したがってるじゃない。なんかあるのかなと思って」
冬紀がコーヒーを注文するついでに、浅野が紅茶のお代わりを頼んだ。コーヒーみたいな渋い顔をしている割に、浅野は紅茶党である。
「別に、残業なんざしたくないですよ。ただ、真面目に仕事を片付けてるだけです」
「ふぅん。早く帰れる日にこうやってわざわざ寄り道してるってことから推理すると、家に帰りたくないって感じ?」
本当に妙な勘を働かせる男だ。仕事の時は大いに頼りになるが、こうして詮索されるのはあまり良い気分ではない。
「いえ、ま、時間のある時に世の中の動向でも探っておこうかなと」
「週刊誌読んで?」
「そう、週刊誌読んで」
「家で読めば良いんじゃない?」
「こういう街中の様子を見ておくことも大事でしょう?」
「市井調査も兼ねてるわけね」
「そうです」
浅野の取り調べはのらりくらりとしていることが特徴だ。探りのジャブを次々打つ。そのジャブは、核心にこそ触れてこないが、どこに核心があるのかはわかっているかのようだ。気の弱い被疑者ならば、これだけで「全てバレている」と勘違いして、勝手に喋りだす。
浅野は決まって、ジャブの後はたっぷりと間を取る。ゆったりと紅茶をとり、香りを楽しんで、一口飲む。この間に耐えきれず自白した者が、今まで何人いただろう。冬紀はそんなヘマはしない。合わせて、たっぷりと時間をかけてコーヒーを飲み下した。
浅野の目が一瞬、ギラリとしたのが分かった。来る。冬紀は奥歯に力が入るのを感じた。
「家事代行は、どうよ?」
核心に触れてくる。髪の生え際のあたりでじわりと汗がにじむ感じする。
「どう?……まぁ、悪くないですよ。思ったより、快適です」
「へぇ、どんな子が来てんの?」
「いやどんな子って…普通の、家政夫さんですよ」
「可愛い?」
一度核心に触れると、今度はズカズカと踏み込んでくる。
痛くもない腹を探られているような心持ちがしたが、頭の冷静な部分で、浅野も家政夫は女を想像していることに少しほっとする。邪な思いがなくとも、家事代行に女性を期待することはなんら悪いことではないと思えてくる。
「いや、一度しか会ってないんでなんとも…」
「可愛いかどうかなんて、一度会うだけで分かるもんでしょうが」
本当は可愛いかどうか以前の話なのだが、何となく家政夫が男であることは言ってはいけない気がした。浅野の夢を壊したくないのか。いや、自分の家に男が出入りしていることを、知られたくないのかもしれない。
「どんな子か会ってみたいな〜。今日お前んち行けば会えるの?」
話がどんどん厄介な方へ向かっている。とにかく面倒だ。しかしこの面倒は、おそらくもう避けられないであろうことは経験から分かった。
「お帰りなさい、今日は早いですね」
帰ってみたら今日の作業はもう終わっていて、家政夫の彼がもう帰っていることを期待していたが、ダメだった。耳ざとく玄関のドアの音を聞きつけた結城が出迎えてくれた。
「あぁ」
「あぁって。お前お帰りって言われてんだから、ただいまくらい言ったらどうなの?」
冬紀の背中からひょこっと、浅野が顔を出す。結城は少し驚いて
「あ、お客様でしたか」
と聞いてきた。お客様というか、何というか。どう答えてよいか考える間もなく、浅野が答える。
「そうそう、お客様。これからお家で飲もうと思ってね〜」
手に持っているお気に入りの日本酒を掲げて見せた。結城は
「では、つまみになるものをお作りしますね。夕飯もできておりますので、一緒にお召し上がりください」
とにこやかに酒を受け取り、そそくさとキッチンに戻る。
「ちょっとぉ〜、良い子そうじゃない」
「あんた、まずは驚くことあったんじゃないですか?」
「何がよ〜。普通、嫁さんだったらいきなり会社の人連れて帰ると嫌な顔するもんよ?それを、つまみ作ってくれるって。ニコって。良い子に決まってんじゃない」
浅野は家政夫が男であることは、全く気にならないらしい。冬紀は自分の感覚がよほど古いのかと反省しかかったが、あまり深く考えるのはやめようと思った。自分の感覚がずれていたとしても、浅野の感覚が真っ当とは思えない。結局、考えてもどうしようもないのだ。
靴を脱いで部屋に上がり、とりあえず浅野をリビングのソファに案内する。自分は部屋着に着替えに寝室へ向かった。キョロキョロと部屋を舐め回すように見られたが、結城がいつも片付けてくれているおかげで、見られて恥ずかしい箇所など一つもなかった。
部屋着に着替えて戻ってくると、ソファの前のローテーブルに夕飯と即席で作ったのであろうつまみが所狭しと並んでいた。どこから出したのか、結城がハンガーに浅野の上着をかけていて、とうの浅野は我が物顔でソファに転がっている。
「今日は炊き込みご飯を多めに炊いておりましたので、お二人で召し上がるにもちょうどよいかと思います。根菜と肉団子の鍋がメインでしたので、お二人でつつけるようご準備しました」
料理を並べながら、結城が手際良く説明する。他にも、タコときゅうりの酢の物やこんにゃくで作った田楽など、つまみになるものも充実しているようだ。急ごしらえでここまでしてくれるとは、本当に優秀な家政夫だ。冬紀はソファに乗っかっている浅野の足をどけて座る。
並べ終わって一通り説明したら、結城はすっくと立ち上がり、
「それでは、本日はここで失礼させていただきます。どうぞごゆっくりお召し上がりください」と言って丁寧に頭を下げた。使用人然とした姿を、浅野は何を思って眺めているのか、じっと黙って見つめている。
「ニイちゃん、今日はこれで上がりなんだろ?じゃ、ここからは男同士、呑みましょうや」
浅野が帰ろうとする結城にそう声をかける。冬紀は面食らった。
「え、浅野さん、そんな急に」
「良いじゃないのよ、仕事終わりなんでしょ?だったらニイちゃんも呑みたいに決まってんじゃない」
ずいぶんと強引に進めようとしてくる。冬紀はちらりと結城を伺った。結城は驚いたような、困ったような顔をしている。せっかく帰ろうとしているのに引き止めるのは気が引ける。
「いや、良いよ結城さん。引き止めて悪かった。帰りな」
冬紀は結城を促した。しかし
「ちょっとちょっと、別に良いじゃない、仕事終わりの家政夫さん誘うくらい。ニイちゃん、この後予定でもあんの?」
「いえ、予定はないですが」
何で予定ないとか言うんだよ、と冬紀は困惑した。こういう時は、予定がなくても予定があるで帰るもんだろう普通、と思う。
「じゃ、良いじゃない。ちょっとだけ」
「ですが規定で、お客様のお家でお食事するわけには」
「あらどうして?そんな決まりがあんの?」
「私たち家政夫は、お客様のお部屋を綺麗にするために派遣されております。私達がそこでお食事をしてしまっては、お客様の食器やお部屋を汚すことになりますので」
「じゃあ、片付けまでして帰れば?綺麗にさえしときゃ、良いんでしょ」
まるで詰将棋のように相手の逃げ場を奪っていく。こうなった浅野は、百戦錬磨の常習犯でもなかなか言い逃れできない。冬紀は結城が嫌な顔をしているのではないかと恐る恐る伺ったが、結城はフワリと笑みを漏らし、
「では、お言葉に甘えまして、ご相伴させていただきます」
と言った。気まずいどころの騒ぎではない。職場の先輩と、まだ慣れていない家政夫に挟まれて、どんな顔をすれば良いというのか。
冬紀の困惑をよそに、結城は付けていたエプロンを手早く、しかし丁寧に折り畳み、仕事道具が入っているのであろうトートバッグにしまった。そして浅野に差し出された杯を受け取り、オットマンにちょこんと座る。そういえば、彼が座っている姿を見るのはこれが初めてだ。座ると、突き出した膝がローテーブルに当たりそうだ。タイトなパンツを履いているせいか、スラリと長く綺麗な形をした足が強調されて見えた。
「んじゃま、吉野のバラ色ライフと可愛い家政夫さんに乾杯」
適当に調子のいい音頭を取る浅野。微笑みを崩さず乾杯する結城。冬紀は、もうどうにでもなれと杯を掲げた。
結城の料理は浅野にも大変好評だった。特に反応を示したのが、きゅうりの味噌和えだった。一口食べて、なぜか浅野の目がギラリと光った。浅野の目がこういう光り方をすると、捜査が急に動き出す。何か言い出すのではと冬紀はドキッとした。
「このきゅうり……」
冬紀の心情を知ってか知らずか、浅野はたっぷりと溜めてから言った。
「めちゃくちゃ美味いじゃな〜い。これ、味噌和え?きゅうりにこんな食べ方あるなんて知らなかったわ〜」
二口三口と口に放り込む。別段、変わった料理ではないと思っていたが。
「特にこの味噌!味噌ってこんなに甘いっけ?」
浅野が結城に問いかける。結城は、飲んでいた日本酒をテーブルに置いて答えた。
「こちらの味噌和えには、九州味噌を使用しております。麦味噌なので、普通の味噌より甘いんです。さらに、九州は料理に砂糖をよく使う文化がございます。この味噌和えには、砂糖を少々入れておりますので、より甘くなっております」
丁寧に説明してくれたが、冬紀はひとつ引っかかった。
「わざわざ、九州味噌使ってんのか?」
驚きもあったせいか、つい取り調べのような聞き方になってしまった。しかし結城は意に介しておらず、微笑みを崩さずに続けた。
「吉野様は福岡のご出身と聞いておりましたので。味噌や醤油は郷土のものを使う方が、お口に合うのではと」
驚愕した。いくら優秀な家政夫とは言え、ここまで配慮してくれるものなのかと。初めて結城の作った味噌汁を食べた時、実家の味を思い出した理由がわかった。
「これはおったまげた〜。結城ちゃん、あんた、優秀だね〜。本当によく出来た家政夫!鏡だよ!鏡!おじさん、可愛い後輩が良いパートナー見つけたみたいで、嬉しいわ〜」
浅野が大袈裟に言う。
「ちょっと浅野さん。パートナーって」
「あら、だってそうじゃない?家政夫さんって、生活を充実させてくれるパートナーでしょ?お前はお金を払う。家政夫さんは家のことをやってくれる。立派なパートナーシップじゃない」
そう言って浅野は日本酒を煽った。こうして酒を飲むタイミングで冬紀に自分の考えをまとめさせる。そういうやり方は、同期のお節介女と同じだ。そういえば、浅野とあの女は飲み友達だった。
冬紀は、家政夫を雇うことを「パートナーシップ」と考えたことは無かった。自分は金を払ってサービスを受けているだけと思っていたのだ。たとえば散髪屋で髪を切る、のようなことと同じだと思っていた。
「そのように言っていただけるのは、家政夫冥利に尽きます」
営業用の微笑みを崩さず日本酒を飲んでいた結城が口を開いた。
「私としてはただの作業として家事をするのではなく、お客様と一緒にあたたかい家庭作りをしたいと思っておりますので」
仕事柄、冬紀は相手がそれを建前として言っているのか、本音で言っているのかを見抜くのには長けている。結城が嘘偽りなく、本音でそう言っているのが分かり、顔が熱くなった。
「一緒にって…」
男に言われていると言うことを差し引いても、家庭を一緒に作る、なんて言われると気恥ずかしい。冬紀は脚がムズムズするような、居た堪れない気持ちになった。
「素晴らしい理念だね〜。単なる家事代行じゃないって事が、食卓からも伝わってくるよ。吉野への配慮もこの味噌だけじゃなさそうだしね」
どうやら他にも何か気づいているらしいことを言う浅野。こういう細かいところに気づく勘が、冬紀はうらやましくもある。刑事としても、男としても。
全くわからないという顔をする冬紀に、浅野は得意げな視線をよこした。
「ま、お前はな〜んも分かってないみたいだけど。こんなにも気づかないものなのかね。結城ちゃん、愛想尽かさないでね」
その浅野のドヤ顔に腹も立つが、冬紀は結城の反応の方が気になった。ただの家政夫だと思っていたのに、浅野の言い方はまるで恋人か嫁だ。自分も男なのに嫌な気分になっていないだろうか。どんな顔をしているか伺いたいが、いたたまれなくて顔があげられない。
「えぇ、私にできる限りのことは精一杯努めてまいります」
結城の言葉に、冬紀は少しほっとする。しかし。
「ただ、私もこういう思いで勤めておりますので」
何か大事なことを伝えるとでも言うように、少し姿勢を正して、言った。
「私が家にいる時間にも、吉野様には何の気兼ねもなく帰ってきていただきたいと思っております」
冬紀はついに面食らって顔を上げた。まじまじと結城の顔を見てしまう。なぜ、俺が早く帰れる時も外で時間を潰していることに気づいているのだ。冬紀はそう聞きたかったが、言葉が出てこない。
結城は冬紀の顔を見て、冬紀の心情を察したのだろう。こう続けた。
「実は何度か、こちらの作業を終えて帰る際に、駅前商店街の喫茶店でお茶をされているのをお見かけしていました。家にはこれまで週刊誌などの雑誌類は一切無かったのに、最近読み始められたことなどから考えて、帰りにくいと思われているのではないかと」
見事なまでに言い当てられて、冬紀は何も言えない。結城のこの推理にはさすがに浅野も驚いた。
「名推理じゃない。おい吉野、お前さん、全部お見通しみたいよ」
さぁ、お前は何て返す?とでも言いたげに、目をキラキラさせて浅野が冬紀の方を見る。この展開は、浅野にとってとても愉快なものらしい。しかし冬紀にとっては困ったものだ。
ここで帰り辛い理由を正直に打ち明けるのは、恥ずかし過ぎる。こんなにも心情を見透かされていることだけでも顔から火が出そうなのに、この展開である。冬紀はまた下を向き、額を押さえた。
「あ〜……、その、気を使わせて悪かったな。だが別に、帰り辛いっていうわけじゃなくてだな……」
冬紀は言い淀んだ。そもそも冬紀は、自分の内面をさらけ出すタイプではない。仕事でもプライベートでもそれは同じだ。だからこそ被疑者との駆け引きも難しくなかったし、恋人になる前の女はそれをミステリアスと捉え、恋人になってからは分かりにくい男と烙印を押されてきた。今回も、適当なことを言って誤魔化そうと思った。それがバレないように、目が泳がないよう結城に向き直る。
しかし結城の真っ直ぐな目をとらえた瞬間、誤魔化す言葉を考えることが出来なくなった。思考が止まった、とでもいうのか。今この時は、嘘や誤魔化しが許されない気がした。
「なんていうか……その……」
誤魔化したい気持ちとそうしてはいけないような気持ちがせめぎ合い、言葉が出てこない。冬紀は猛烈に喉が渇いた。これではまるで、自白を迫られている被疑者のようだ。
被疑者……。ならばこれ以上は逃げられない。冬紀は観念した。
「部屋に入る時……何て、言ったらいいかわかんねぇんだよ」
冬紀の言葉に、結城も浅野もポカンと口を開けた。鳩が豆鉄砲を食らったような顔、そのままである。二人の反応に冬紀は「ええいままよ」と続けた。
「お帰りなさいって言われて、どんな顔して、何て答えりゃいいか、わかんねぇんだよ!」
部屋が静寂に包まれる。冬紀は顔から火が出そうに思った。それは側から見ても文字通り「火が出そう」なくらい赤くなっていた。
その静寂は、一瞬後に吹き出した結城の笑い声によって打ち破られた。涙が出るほどおかしかったのか、結城はすらりと長い指で、目の端を拭っている。その様を浅野も冬紀も呆気に取られて見ていたが、やがて浅野も笑い始めた。
「お前、そんなことで帰れなくなってたの?可愛いね〜、さすが俺の可愛い後輩だよ全く」
冬木の背中をバシバシ叩きながら浅野が言う。そしてひとしきり笑った後、結城は言った。
「申し訳ございません、吉野様。実は初めてお会いした日に、吉野様は女性スタッフに担当して欲しかったのではないかと思いまして。私ではお嫌だったのではないかと不安だったのです。それとはまた、別の、理由だったようで、お、思わず笑ってしまいました」
堪えきれず結城はまた吹き出した。余程ツボに入ったのか、はたまた笑い上戸なのかもしれない。冬紀は恥ずかしさを通り越して、だんだん馬鹿らしくなってきた。こんなに笑われてしまうことにここ何日も悩んでいたのかと思うと、情けないやら馬鹿馬鹿しいやらである。結城が笑っている間に顔の熱も落ち着いてきた。
はぁ、と一つ深い呼吸をして、結城が息を整える。そして恥ずかしさや情けなさ、あらゆる複雑な感情を噛み潰している冬紀に向き直った。
「では吉野様、今後はただいま、と言っていただくことを、私とのお約束にしていただけますか?」
「約束?」
突然の提案に冬紀は困惑した。なぜ急に約束なのだろうか。
「えぇ、お約束です。お約束は守るのがルールですから、ただいまと言うことに恥ずかしさも抵抗も無くなるかと思います」
なるほど、そんな事まで考えてくれるのかと冬紀は思った。納得した半分、そこまで気を使われることへの気恥ずかしさが湧いてくる。しかし、これでただいまと言いやすくなるのは確かだし、そうなると帰ることも別にどうということもない気がしてくる。何より、ここまでしっかり笑い倒されて、これ以上何が恥ずかしいのかという気持ちにもなった。
少し気持ちが軽くなったと感じる冬紀。それを感じ取り、安心した様子の結城。その二人を黙ってじっと見ていた浅野が、新たな提案を持ちかけた。提案というより、冬紀にとってはほとんど先輩命令のようなものだ。そしてそれは冬紀にとっては、「ただいま」よりハードルの高いものだった。




