外伝13.過去との別離
◇<結衣>
学校から里紗先輩の家までの帰り道。
先輩にお願いがあると言われて聞いてみたのがついさっき。
――――どうしてこうなった?
今私の太腿の上に先輩の手がある。
ううん、ただあるだけじゃない。
私の太腿を壊れ物でも扱うかのように優しい手つきで動いてる。
くすぐったい。時々体が勝手にびくっと跳ねる。
そのたびに先輩は「あ! ごめんね」って謝ってくれるけど撫でるのをやめようとはしない。
先輩のお願いは私の太腿を少しだけ触らせて欲しいってことだった。
それを私は恥ずかしいけど、樹木くんのぬいぐるみで手を打って了承した。
前にぬいぐるみをもらったら先輩の言うことを聞くって約束してたしね。
約束は守らないと。と言うのは建前。こうしたら私も先輩もお互い気兼ね無しでやりたいことやれるんじゃないかなってそう思ったんだ。
「あの…。先輩いつまで」
「もう少し、もう少しだけ。お願い」
「…本当にもう少しだけですよ」
「結衣ちゃん、ありがとう」
話の間一時的に止まっていた先輩の手が再始動する。
さっきまでと同じように太腿の表側をゆるゆる撫で擦ってから、その手は徐々に内側へ。
最初は膝に近いところ、それから徐々に徐々に私の脚と脚の付け根の方へ近づいてくる。
「んっ。先輩、それ以上はダメです!」
「っ。う、うん。結衣ちゃん、ごめんね」
先輩が慌てて離れる。自分の行動認識してなかった?
欲だけで動いてた、私に欲情を抱いていた?
バックミラー越しにユズさんと目が合う。
頷かれた。それは私という客に対しての挨拶みたいな頷きだけではなく、里紗先輩に寄りそう私に対しての礼みたいなものも込められた頷きだろう。
「お嬢様」
「はい」
「間もなく到着いたします」
「そうですか。いつもありがとう、ユズ」
「いいえ、これが私共の仕事ですから」
淡々と受け応えしているものの、先輩の声はやや上擦っていることが隠しきれてない。
口角を上げるユズさん。先輩は愛されてるなって思う。私もユイ・ナナセだった頃は彼女たちにこんな風に見守られていたんだろうか。私は良き主人だったかな。家族だったかな。多分もう会えないけど、彼女たちが私の傍にいて少しでも幸せだったと思っていてくれていたらいいな。
「結衣ちゃん」
「はい」
「機嫌良いね。何かいいことあった?」
「それは…」
話しているうちに車がエシュアル家に到着した。
お泊まり今日で二日目。一緒に宿題をして、分からないところを教えてもらって、一緒にご飯を食べて、一緒にお風呂。飽きることなく他愛のない話をして夜も更けてきたのでベットに入る。
消灯。暗闇の中、先輩の手が私の肩を抱く。傍に引っ張られて私は今日も先輩の抱き枕。
先輩の呼吸の音と心臓の音が聞こえる。落ち着く音。すぐに睡魔に誘われそう。
「結衣ちゃん」
「はい…」
「ずっと聞きたいことがあったの」
「なん…ですか」
「ごめんね。眠い? 明日にしようか?」
「大丈夫、です。起きてますから」
「そっか、じゃあ聞くね。結衣ちゃんが私と会った時に言ったリーシャって誰?」
耳元で囁かれたそれはまるで死刑判決を受けたかのように耳から脳みそに重く響いた。
「え」
嫌な汗が流れる。
暗闇で良かったと思う。今の先輩の顔見なくて済むのだから。
だから先輩も今という時間を選んだのかな。私の顔を見なくて済むから。
「心の何処かでね。引っかかってたの。結衣ちゃんはそのリーシャさんって人と私を重ねて付き合ってくれてるんじゃないかって。ごめんね。こんなこと言って。ほんとはずっと言わないつもりだったんだけど」
じゅくじゅくと心臓が痛む。そうじゃないとは言い切れない。
言葉が出ない。喉がカラカラに乾く。いつかこういう時が来るとは思ってた。
それなのに私はそれから目を背けてた。遠ざけてた。
先送りにしたところで問題が無くなるわけではないのに。
無言の刻。先輩が私を抱く力が僅かばかり強くなる。
沈黙を破るのはまたも先輩。
「私、自分で思ってたより独占力と束縛欲が強いみたい。でも結衣ちゃんが悪いんだよ? 私の心を溶かしたから。弱みに付け込んで私の目を自分に向けさせたから。失いたくないよ。こんな温もり知らなければ私は今まで通り孤独に気付かないでいられた。結衣ちゃんのせい…だよ」
糾弾が嗚咽に代わる。嫌だ嫌だと言いながら先輩は私を強く抱き締める。
物理的にも精神的にも息が苦しい。良かれと思ってしたことがこんなにも人を苦しめていた。
リーシャ。私の愛した人。私は彼女にも酷い仕打ちをした。
最低だ。私。
後悔と焦燥感に押し潰されそうになる。
私はどうしたらいい? 私の心は何処に向いてる? 私。私は……。
ふとさっき自分が思ったことを思い出した。
私はリーシャのことを愛した人と過去形で思った。
彼女のことを思えばまだ胸は痛む。もし再会できるのならばどんな贖罪だってするつもりだ。
体を差し出してと言われたら差し出すし、戻ってきてと言われたら戻ると思う。
その代わり里紗先輩のことをリーシャに頼むと思うけれど。
里紗先輩…。私は本当に里紗先輩をリーシャと重ねてた?
最初こそそうだったけど、里紗先輩という人のことをいろいろ知ってからは里紗先輩のことは里紗先輩と認識するようになった筈。デートの時も里紗先輩の優しさに触れて私は里紗先輩に惹かれた。
不意に里紗先輩が悍ましいことを口にした。
「ねぇ、もし私が結衣ちゃんの知らない誰かと付き合いだしたら結衣ちゃんはどうする?」
ゾっとして吐き気がした。私の知らない人と先輩が付き合う。そうなると先輩は私を必要としなくなって私は先輩の隣にいられなくなる。私の知らない人に甘える先輩。私と同じように先輩に求められて先輩の抱き枕になる私の知らない人。
い、嫌だ。そんなの絶対嫌。許さない。絶対そんなの許さない。
「結衣ちゃんの知らない人と愛を囁き合って、体を重ねてキスをして」
「やめて!」
「結衣ちゃん?」
「やだ…。絶対やだ。行かないで、先輩」
素早く体を動かして私は先輩に馬乗りになって先輩をベットに押し付けた。
先輩の両手を半万歳の恰好にさせて私はその手首を掴んで先輩の顔を見下ろす。
暗闇だからハッキリとは見えない。
でも先輩は少しだけ怯えているように見える。
先輩の言葉を借りるなら先輩が悪いんです。
私をこんな気持ちにさせるから。
「結衣ちゃん」
「里紗先輩」
「は、はい…」
「聞いてくれますか?」
「えっ?」
「荒唐無稽な話です。信じるか信じないかは先輩にお任せします」
私はそう前置きをして前世、前々世の話を始めた。
話すたびに心の芯が冷たくなっていく。
これを話し終えた時、先輩は私から離れていって二度と会ってくれなくなるかもしれない。
それでも私は全部を話す。一縷の望みにすべてを賭けて。
「以上が概要だけですけど私の前世と前々世の話です」
纏めても長くなってしまった。
先輩からは何の言葉もない。
寝てしまった? わけではないと思う。考えを纏めてるのかな。しばし待ってみる。
どれくらい待っただろう。実際はそんなに長くなかったんだろうけど、私には永遠にも感じた。
「結衣ちゃん」
名前を呼ばれる。その声は優しい。そのおかげで一瞬安堵するもすぐにまた不安が心を覆いつくす。
先輩の答えを聞きたくて聞きたくない。怖い。逃げたい。でもここで逃げたらどんな答えであっても会えなくなる。それはダメだ。私は先輩の出した答えを聞かなくちゃいけない。
「手、離してもらっていい?」
「逃げないですか?」
「約束する」
「じゃあ」
先輩の手を自由にする。瞬間、世界が反転した。
「へっ?」
私の頭上に先輩の顔。さっきと逆だ。でも手は拘束されてない。
先輩の手が私の頬に触れる。温かい。それだけで救われた感じがする。
「結衣ちゃん」
「はい」
「つまり結衣ちゃんはちゃんと私に優しくしてくれてたってことでいいんだよね? 間違ってないよね?」
「はい。リーシャと重ねてたのは最初だけです」
「そっか。そっか。なら良し」
先輩が私から離れる。
またベットに潜り込んで私を胸元に引き寄せて抱き枕にする。
「結衣ちゃん、おやすみ」
「はい、おやすみなさい。……ってそれでいいんですか? 私の話信じるんですか? 自分で話しておいてなんですけど、作り話っぽくないですか? 厨二的な」
「作り話なの?」
「違いますけど」
「じゃあ真実?」
「はい」
「なら良し。おやすみー」
「ええ……」
なんか釈然としない。それでいいのか。でもこれ以上告げることはもう無い。
先輩が良しって言ってるんならいいか。
目を閉じる。うとうとしだした頃、先輩が小さく呟いた。
「私が好きになったのは私が知り合った結衣ちゃんだよ」
そうか。私か。前世とか前々世とか関係なかったなぁ。
私を信じてなかったのは私だったんだ。
先輩のことも信じてなかった。
私たちの付き合いは短いけど、それでも先輩は可愛くて私を受け止めてくれる人だって知ってた筈だ。
私は里紗先輩の腰に手を回し、胸に数回匂い付けするように頬を摺り寄せた。
改めて歩もう。今の七瀬結衣の人生。前に進もう。私は私として。頑張ろう。
里紗先輩の隣にいられるように――――。




