外伝02.生まれて来てくれてありがとう
◇<結衣>
「こんにちは。立花先生いますか?」
聞こえてきたその声にがばっと半身を起こし、プライバシー保護のため外からの目隠しの役割を担ってくれているカーテンを雑に引いた。
その声を私が絶対に聞き間違える筈がない。
他の誰よりも愛する人。私の大切な大切な妻リーシャの声。
私が愚かなせいで心に傷を負わせてしまったその人の声。
「リーシャ!!」
ベットから出ようとしてその声の主と目と目が合う。
緑色の双眸、綺麗と可愛いが合わさった顔立ち。亜麻色の髪。透き通るような白い肌。
そこまでは同じだけど少し違うところがある。耳が丸い。それと私と同じセーラー服を着ている。
よく見ると私のリボンタイと色が違う。リボンタイは一年生は紺、二年生は黒、三年生は濃い紫。
この学校はこれがローテーションとなっている。
私たちは一年生の時から黒だった。三年生になっても黒。で、来年の新入生は今の三年生の色を引き継ぐことになる。
リーシャと似た人物のリボンタイは濃い紫。つまり私の一年上の先輩。
「リーシャ? 私のこと?」
その人はこてんと首を傾げる。
それを見て私は過ちに気が付いた。
「あ、いえ…。すいません。なんでもありません」
冷静になればそうだ。リーシャである筈がない。彼女はアイリスの人でこちらの人じゃないんだから。
気が削がれたのでベットに戻る。
布団を頭まで被って今度こそうたた寝でもしようと試みていると保険医の先生が先程の彼女と話している声がする。
「え~っとエシュアル・里紗さんだったかしら? 今日はどうしました?」
「はい。あの…さっきの彼女は?」
「あの子は二年生の…。おっと個人情報だから言えないわ」
「私の名前は言ってますが? さっきの娘が起きてたら聞こえてるのでは?」
「あ!!」
「あははっ。先生って面白いですね」
「こほんっ。…それで今日は何かしら?」
「誤魔化した。さっきの体育で転んで擦りむいてしまったので絆創膏があればと思いまして。いつもなら持ってるのにこういう日に限ってそれを入れたものを忘れてきちゃったんですよ」
「なるほど。消毒はしとく?」
「水洗いはしたんですけど…。でも念のためお願いします」
「じゃあ擦りむいたところを見せてね」
「はーい」
エシュアル・りさ。日本人と何処か別の国の人との間に生まれたハーフなんだろうか。
エシュアル。リーシャの家名と同じ。やっぱり彼女はリーシャ? 頭がこんがらがって来た。
(ここは地球…だよね? 地球の筈だけど、でも私にりさっていう人の記憶はない。
会ってても当時は気にしてなかっただけかもしれないけど。
ううん、そんな筈。あんな綺麗な人がいたら目に留まってる筈。
もしかしてここは地球じゃない? じゃあ何? 地球の平行世界とか?
それなら私は? 考えられることとしたら何かの原因で本来のこっちの世界の私と魂が入れ替わった? と考えるとりさって人はこっちの世界のリーシャ………)
また思考の渦に飲まれそうになる。
何故か寒気がして私は体を縮こませて考えることを放棄した。
「少し寝よう」
懐かしい匂いがする。
なんと言えばいいのだろう。上手い表現が見つからない。
消毒薬と清潔なシーツと少し物が焼けたような空気の匂い。
微睡から覚醒。目を開けると白い天井。それから周りを見ると雰囲気が私がここに来たばかりの時は白だったものが今はオレンジとなっている。
どれくらい寝ていたんだろう? 少々外が騒がしいということは放課後?
ぼんやりしていると保険医の先生が私の様子を確かめに来た。
「あら、起きたのね。丁度良かったわ。そろそろ起こそうと思ってたのよ」
「………現状は変わらない、か」
「え?」
「いえ、なんでもないです。私、どれくらい寝てましたか?」
「そうね。二時間と少しくらいかしら。体はどう? 起きれそう?」
「はい。大丈夫です」
保険医の先生に応えて体を起こす。
手を伸ばし、ベット横のちょっとした台に置いてあったスカートを手に取ろうとすると先生はカーテンを引いて再び目隠しとした。
「先生はちょっと職員室に用事があるから保健室を出るわね。着替え終わったら帰っていいから」
「はい、ありがとうございました」
遠ざかる足音を聞きつつ床に足を降ろして立ち上がる。
スカートを足に通して腰まで上げ、ファスナーを上げてホックを組み嵌める。
「後は…」
リボンタイを襟に通して位置などを調節して着替え終わり。
保健室を出て教室に戻ると敦美が机に座ってひらひらと手を振っていた。
「何してるの?」
「ひどっ。結衣を待ってたんだけど?」
「そうなんだ? ごめんごめん。っていうか今日部活は?」
「休んだ。こういう時は部活より友達っしょ」
「そっか。ありがとう」
敦美は結構友達思いだ。
礼を告げ、彼女の後ろ。私の席に行って鞄を持つ。
机の中から教科書を引っ張り出して鞄に詰め込んでいると敦美がわざとらしく嘆息した。
「全部持ち帰るとか。相変わらず真面目すぎ」
「敦美は全部置いて帰ってるんだっけ?」
「だって重いじゃん!」
ごもっとも。まぁ性格かな。私はどうも置き帰りっていうのができない。
重くても持ち帰ってしまう。
敦美は私を見ながらもその後は特に何も言わなかった。
オレンジに染まった世界を敦美と二人で歩く。
切ないような、楽しいような、心に巻き起こるなんとも言えない感情。
当たり前だったことが一度奪われて、それがまたこうして戻ってきている。
その代わりアイリスの皆とは会えない。今日だけでいろいろ起こりすぎて心の整理が追い付かない。
なんか落ち着かなくて、ちらりと敦美を見ると、鞄を右手で肩の位置に上げて持って本人はそういうつもりではないのだろうけれど、夕陽を真っ直ぐに見て歩いている姿がなんだか絵になっていて格好いい。
ほんの少し笑みが漏れる。それは私が一人じゃないからだろうか。
じっと見つめたままでいると不意に敦美がこちらに振り向いた。
「何? どしたん?」
「なんか今の敦美、ドラマとかに出てくるヒロインみたいだなって」
「うちが? ないない。ヒロインならうちより結衣っしょ」
「私?」
「そうそう。結衣可愛いし」
「あははっ。ありがと」
お世辞上手いな。まぁそうと分かってても可愛いって言われて悪い気はしない。
敦美から視線を逸らして前を向く。隣から「分かってないな。これは」っていう声が聞こえた気がした。
「じゃあまた明日」
「お~、明日」
学校から三十分くらい歩いて敦美とお別れ。
彼女はこの先もう少し歩いて電車に乗って自宅へと向かう。
「さてと」
私の家。門の前。そこに立って家を眺める。
外壁はベージュ系で屋根はグレー系、二階建てのありふれた家。家の右隣に車庫があり二台普通車が駐車できる広さのあるそこは今はお母さんが乗る軽自動車だけが駐まっている。
「アイリスに渡ってもう会えないと思ってたけど、シルアの魔法で会いに来れた。それからは十年おきに様子見には来ていたんだけど…」
今回はそれとは違う。この世界の私はまぎれもなくここが自分の家だ。
緊張する。深呼吸してから門扉を開いた。
「庭はまだ煉瓦敷きになってないか」
門扉の向こう。庭は土の道な普通の花壇。私が死んでから暫くするとここは煉瓦敷きのアンティーク風味な庭になる。
はて? 私はここでも死ぬんだろうか。本当はそうでも今の私は自分がどうやって死ぬかを知っているから死を回避できそう。そうなったら私が知ることのなかったこっちでの未来に花が開くかもしれない。でもそうなるとアイリスには行けない。そもそも行けるんだろうか? っというか私はずっとこのままなんだろうか。ある日突然また何処かに飛ばされたりとかしたりして。勘弁して欲しい。そのたびにこうやってごちゃごちゃ悩まないといけないのは正直キツい。
二、三度頭を振ってから玄関扉に手を掛ける。
取っ手を引いて扉を開けて家の中へ。
「ただいま」
「結衣? おかえりなさい」
「おかえりー」
お母さんと弟の煉の声。憂お姉ちゃんはまだ帰ってきてないっぽいかな。
玄関に中腰になって靴を揃える。それを終えたら体を起こして廊下を歩く。
奥のリビングダイニングに行くと夕食の材料を用意しているらしいお母さんの後ろ姿が見える。
「ただいま」
声のトーンを落としてもう一度挨拶。
それを受けて振り向き「おかえりなさい」挨拶を返してくれるお母さん。
「何か手伝う?」
「ううん、大丈夫よ。ご飯までまだもう少しあるから休んでなさい」
「ん…。ねぇ、お母さん」
「はい? なぁに? 結衣」
お母さんの目が優しい。
言いたいこと沢山あるのに声が出ない。
リビングダイニングのリビング側。そこから一歩も動かず無言で立ち尽くす私に徐々にお母さんの顔が怪訝な物になっていく。
「結衣?」
「………お母さん」
「どうしたの? 何か悩み事でもあるなら聞くわよ?」
「そうじゃなくて」
「どうしたの?」
一歩、二歩。ゆっくりとお母さんの傍へ。
現在四十代前半。にしては若々しく二十代と言っても多分通じる。
そんなお母さんのすぐ手前で立ち止まる。
娘の意味不明な行動でますます顔を怪訝なものにするお母さん。
「結衣。どうしたの? 学校で何かあった?」
「ううん。あ…、あのね、お母さん」
「うん?」
「久しぶりに抱き締めてもらっていい?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔。なるほど。私もこっちの世界に来てすぐはこういう顔をしていたんだ。
これじゃあ敦美が心配するよね。熱とか測られたのも納得した。
「ダメ…かな」
「ふふっ。なんだか結衣がもっと小さい頃に戻ったみたいね。覚えてる? 小学校の低学年くらいまでは今みたいによく抱っこを強請って来てたのよ」
「うん」
覚えてる。私は三人、姉・私・弟の中で一番甘んぼだった。
高学年になってやっと親離れしなきゃって意識が芽生えてそれ以来お母さんに抱っこを強請ったりとかいう甘え方はしなくなった。
「おいで、結衣」
手を広げて私を受け入れてくれようとしているお母さんに遠慮なく抱き着く。
お母さんも私を抱き締めてくれて、それで小さな子供をあやすように私の背中をぽんぽんと優しく叩き始めた。
「大きくなったわね。結衣」
「私、もう高校生だからね」
「そうね。ねぇ、結衣」
「ん? なぁに? お母さん」
「生まれて来てくれてありがとう。無事に大きくなってくれてありがとう。これからも健やかに成長して人生を楽しんでね」
「………不意打ちは狡い」
心構えなんて全然できてなかった。
それなのにそんな言葉掛けられたら泣いちゃうよ。
「お母さんはそれだけを願ってるわ。大好きよ。結衣」
「うん……」
この人の娘に生まれて良かった。
「ぐすっ…お母さん」
「なぁに?」
「生んでくれてありがとう……。これからもよろしくね」
「勿論よ。こちらこそよろしくね。結衣」
このお母さんとのやり取りの後、私は心を決め、同時に今後の方針も決めた。




