第99話 あの日の約束
「まさかここが桜子ちゃんの家だったなんて…… 驚いたよ」
桜子が面接を担当する楓子の所へ土屋拓海を案内していると、拓海は周りをきょろきょろと見回しながら素直な感想を口にしている。
拓海は8月の頭に南方の島に家族旅行に行った時に出会った青年で、本州の大学に通っていると言っていた。それがまさか隣町の教育大学の1年生だったとは、本当に世間とは狭いものだと桜子はしみじみと思った。
店舗の奥の事務室兼倉庫に拓海を案内すると、拓海の顔を見た楓子も桜子と同様に驚いて、世の中とは狭いものだと彼女は口に出して言っている。
ここまでくると、すでにアルバイトの面接はただの雑談と化していて、とんとんと話は進んで早速明日から来て貰う事になったのだ。
拓海の仕事は配達業務で、月、水、金の週3日、17時から20時までの3時間で主に飲食店を回って貰う事になる。
拓海は背は高いがひょろりとしているので、あまり肉体労働に向いているようには見えないのだが、それを心配した楓子が尋ねると、力仕事は意外と得意で、むしろ身体も鍛えられてお金も貰えて一石二鳥だと答えていた。
今はジャケットを着ているので良くわからないが、夏に桜子が一緒に海に潜った時には、確かに細い体をしているが、その贅肉の無いしなやかな体つきはバスケットボール選手のような感じで、明らかにアスリート体形だった記憶があるのだ。
それに今の楓子と桜子がヨロヨロと二人で行っている配達作業よりは、よっぽど危なげなくこなしてくれるだろう。
翌日の夕方に早速拓海に来てもらうと、初日は桜子が軽トラの助手席に乗って実際に配達をしながら、ルートと配達先を教えた。
今は得意先の倉庫にビールケースを運び込んでいるところだが、楓子と桜子が二人がかりでヨロヨロと運んでいたものを、彼が特に重そうな気配も見せずに一人でスイスイと運んでいるのを見て、さすがに男性だと桜子は感心したものだった。
全ての配達を時間通りにこなして店に戻る途中、拓海が助手席の桜子に話しかけてきた。
「桜子ちゃん、ちょっと訊いてもいいかな」
「うん、なぁに?」
「もしかして、きみのお父さんなんだけど……」
そこまで言うと、拓海は言い難そうに途中で黙ってしまった。その仕草には、言うべきかどうかを迷っている様子が透けて見えた。
「……お父さんね、先月…… お正月に亡くなったんだ。本当は年を越せないって言われてたんだけど、お正月まで頑張ったんだよ、7分だけだったけどね……」
桜子は拓海の質問にも淡々と答えていて、父親の死をすでに受け止めて彼女なりに昇華しているように見えた。
「そうか…… それはお悔やみを申し上げます」
「ありがとう。帰ったらお線香あげてくれる? きっと喜ぶから」
それからしばらくの間、桜子は何も話すことなく拓海の運転する軽トラの助手席で揺られていたのだが、あと少しで店に到着する所まで来た時に、彼女はまた話し出した。
「あたしはね、土屋さんにとっても感謝してるんだ」
桜子のその言葉に、拓海は小首を傾げる。なにやら前にふたりで話した時の事を思い出そうとしているようだ。
「あの夕日を見せてくれた時、土屋さんはあたしに言ってくれたでしょ? あたしが自分を幸せだと思って笑っていれば、お父さんも幸せだって」
「あぁ…… そうだね、そんな話をしたよね…… あの時は自分の事を君の姿に重ねたんだよ。俺の父親が死んだ時の自分にね…… あぁ、ごめん、無神経だったよ、謝る」
話の流れだったとはいえ、先月父親を亡くしたばかりの桜子の前でそんな話をした自分を拓海は恥じた。
「ううん、大丈夫。土屋さんが言ってくれたから、あたしはずっと笑顔でいられたし、最期の時もお父さんに笑った顔を見せられたんだと思う。そうじゃなかったら、あたしはずっと泣いていたと思うんだ、最期の時もね、きっと」
「そうか…… こんな俺でも、きみの役に立てて良かったよ」
「そんな事ないよ。お父さんの事では本当に助けられたんだよ。それに、土屋さんが配達の仕事をしてくれるだけでもとっても助かるし、土屋さんで良かったと思ってるんだ」
「そうか、ありがとう。一生懸命頑張るよ。これからよろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
小林家の酒屋継続問題は、当面の間は解決することができた。
今は楓子たち三人はホッと胸を撫でおろしているのだが、そもそも拓海は学生なので、この先彼の事情で急にアルバイトが出来なくなることもあり得るのだ。
そして数年後には大学を卒業してここからいなくなるのは確実だし、高齢の絹江の健康問題や桜子の高校生活など色々な事を考えると、今の状況は綱渡りのように不安定なものであることは楓子も十分に理解していた。
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最近、健斗の様子がおかしかった。
朝に桜子を迎えに来ても、なんだか口数も少なく、桜子の話にただ相槌を打つだけの事が多くなった。元々彼は無口な質なので普段も桜子が一人で喋っている事が多く、彼から積極的に話しかけて来る事は少ないのだが、それにしても最近は口数が少なすぎる。
それに彼の全体を覆う雰囲気も暗くジメっとしていて、どうやら何かを悩んでいるように見えるのだ。
桜子がそれを気にして、ある朝健斗に聞いてみた。
「ねぇ、なにか悩み事でもあるの? あたしで良ければ聞くけど……」
桜子が遠慮がちに健斗の顔を覗き込むと、朝日にキラキラと輝く金色の髪と、相変わらず天使のように愛らしい顔に彼はドキリと心臓を高鳴らせたのだが、直後にずっと悩んでいる事を思い出すと、再び暗く沈み込んでいた。
「あのさ、桜子の…… いや、いい、なんでもない」
健斗の口から自分の名前が出て来た事に気が付いた桜子は、どうやら彼の悩みは自分絡みなのかと思ってさらにグイグイと迫って来る。彼の悩みが自分に何とかできる事なら協力してあげたいと思ったのだ。
「あたしになんとかできること? 協力できることなの?」
桜子にしては珍しく積極的に詰めてくることに驚きながら、それでも健斗は言い淀んでいる。その様子を見ながらしばらく考えていた桜子は、思い切って言ってみることにした。
その頬には薄く赤みが差している。
「もしかして、あたしの……」
「……」
「おっぱい、触りたいの?」
「ぶっ!!」
健斗は一瞬どうして桜子がいきなりそんな事を言い出したのか理解できなかったのだが、そう言えば修学旅行の時に約束した事をまだ果たして貰っていない事を思い出した。
確かあの時の約束は『胸に抱いてもらう』事だったはずだが、いつの間にか『胸を触る』ことになっているのはどうしたことなのだろう。
そもそも『胸に抱かれる』と『胸を触る』ではだいぶ意味が違うと思うのだが、彼女の中では同じような事なのだろうか。
それにしても『抱かれる』のと『触る』のでは後者の方が自分から能動的に動ける分魅力的に感じる。しかしあの抱きしめられた時の彼女の胸の感触と甘い香りもまた捨てがたいものがあるのだ。
攻めの『触る』と受けの『抱かれる』
この相反する価値観を同時に肯定せざるを得ない現在の状況を敢えて表現するならば、それは『混沌』であって、そのいずれか一方を選べと言うのはまさに究極の選択と言えるだろう。
しからば、この件に関してはもう少々時間をかけて慎重に検討したい所存……
「なわけないだろ!!」
桜子のあまりに斜め上の推測に思わず大きな声を出してしまった健斗だったが、それを否定するに至るまでに約0,2秒しかかからなかった事は、彼にしては中々に頭の回転が速かったと褒められるべきだろう。
「……違うの? ご、ごめんなさい、あたし、健斗の事だからてっきり……」
桜子のその言葉に、自分は彼女にどれだけ『巨乳好きのおっぱい星人』だと思われているのかと思わず溜息を吐きそうになった健斗だったが、この一連の流れを思い返すと今まで自分が悩んでいたことを全て彼女に話してもいいと思えたのだ。
「ご、ごめん、急に大きな声を出してしまって」
「あたしこそごめんね。健斗があの約束に拘っている訳ないのにね」
いや、そこはぜひ拘らせて頂きたいと思う健斗だが、口には出さなかった。
「もうすぐ卒業だな。俺たちは別々の高校に行くから、こうして一緒に登校できるのもあと少しなんだと思うと、ちょっとな……」
「あっ、それは……」
「それに、俺はお前の事が心配なんだよ。お前はとても可愛いから、きっと高校でもたくさんラブレターを貰って、たくさん告白されて、危ない目にも会うかもしれない」
「あ、うん、そうかもね……」
健斗に『可愛い』と言われて地味に照れている桜子だが、自分の思いを口にするのに精一杯の健斗にはそれに気が付く余裕はなかった。
「その時に俺が近くにいてあげられないことが、とても不安だし悔しいんだよ」
「……大丈夫だよ、きっと」
桜子が気軽に言った一言に、健斗には珍しく感情を露にしていた。
「大丈夫ってお前は簡単に言うけど、その時に俺は近くにいないんだぞ?」
「だから大丈夫だって言ってるじゃない」
「そんな簡単に言わないでくれ!! 俺は…… 俺は…… お前の事が心配で」
「だって、あたしも有明高校に行くんだもん」
「えっ……」
桜子が楓子と話し合った結果、担任に高校の出願先を変更することを伝えたのは昨日の事だった。
桜子は今朝の登校中にその事を健斗に伝えようと思っていたのだが、話の流れでこのタイミングになってしまった。
それにしても桜子からその話を聞いた時の健斗の様子は尋常では無く、桜子さえ見た事が無いような満面の笑みを浮かべた彼が思わず地面から跳ね上がって叫んだ姿からも、その凄まじい喜びようは健斗の人生で一番だったのかも知れない。
少なくとも、昨年の柔道の大会で優勝した時の100倍は喜んでいるように見えた。
「でもね、健斗…… あたしにも心配な事があるんだよ」
ひとしきり健斗が叫び終わった後に、桜子がポツリ漏らしたのだが、この呟きを彼は聞き逃さなかった。
「心配事? お前にも何かあるのか?」
「うん、たぶん大丈夫だと思うけど……」
「なんだ? 俺に出来る事なら遠慮なく言ってくれ」
「そうだね、これは健斗にしか出来ない事なんだ……」
桜子が妙に言い辛そうにしているので、健斗は大げさに自分の胸を叩いて断言した。
「あぁ、大丈夫だ。俺に任せろ。それで、何が心配なんだ?」
「健斗の受験……」
「ん?」
「失敗しないでね」
「あっ……」
健斗は自分の胸に手を当てた姿勢のまま、固まっていた。




