第98話 ズルい女
1月下旬。
小林家の三人は、浩司のいない生活にも少しずつ慣れてきた。
突然心にぽっかりと空いた喪失感はさすがにまだ癒えていないのだが、それでも徐々に3人での生活に馴染んできている。
小林家には早急に解決しなければいけない問題があった。
それは家業の酒屋をどうするか、と言う事だ。
現在の小林酒店は、店番を絹江、発注、品出しを楓子が、夕方からの配達を楓子と桜子が一緒に担当しているのだが、配達の部分で困っていた。
いまは得意先に無理を聞いて貰っているのだが、それもそろそろ限界になっていて、配達要員として早急に力仕事が出来る男性アルバイトを募集する必要に迫られている。
その問題が解決できない場合は、近いうちに酒屋の廃業も視野に入れなければいけないのだが、もしも店を畳んで楓子がパートに出ても、恐らくいま以上の収入は望めないだろう。
高校生になった桜子が家計を助けるために他でアルバイトをするくらいなら、このまま酒屋を継続する方がまだマシだと考えている。
とりあえず、配達業務のアルバイトを募集する広告を手配して、応募を待つことにしたのだった。
「えっ? 志望校を変更したい?」
放課後の進路指導室に、桜子の担任の声が響いた。
生徒からの突然の進路相談に驚いた彼は、座っていた椅子から思わず腰を浮かせている。
「はい。北高も東高も自宅からは遠いので、近くの高校に変更したいんです」
その生徒は小林桜子だった。
彼女は受験する高校を変更したいと担任に相談しているところだ。
桜子の成績は学年でもトップクラスで、このままいけば地域の公立校最難関の北高校も十分狙える位置にいるのだが、北高校も、次点の東高校も、自宅から電車とバスを乗り継いで片道一時間半はかかる場所にある。
「しかし、なぜ急にそんな……」
「先月に父が亡くなって、母と祖母の二人だけでは家業の継続が難しくなりました」
「あぁ、それはとても気の毒な事だと思っているよ。でも…… もしかして、経済的な理由なのかい?」
担任は遠慮がちに訊いてみたのだが、よく考えると北高も東高も同じ公立校なので、国の政策によって実質的に学費はかからないはずだ。
「違います。放課後はあたしも家業を手伝いたいので、なるべく近くの学校にしたいんです。できれば通学時間は片道30分以内で」
桜子の返答には全く淀みがなく、以前から十分に検討していたことが伺える。
担任は真剣に自分を見つめる桜子の顔を見ていると、その透き通るような青い瞳に思わず吸い込まれそうな錯覚に襲われたのだが、「ゴホン」と一つ咳ばらいをしてそれを振り払った。
「しかし、きみの成績に見合う高校となると…… 一番近くても片道一時間はかかるところばかりだぞ?」
「有明高校はどうですか? あそこなら近いです、電車で一駅ですよ」
「有明かぁ…… まぁ、確かに近いっちゃ、近いが…… きみの成績とはだいぶかけ離れていると思うぞ、非常にもったいないと思うのだが」
そこまで話した担任は、急に何かを思い出していた。
「……まさかとは思うが、2組の木村を追いかけようとしてるんじゃないだろうな?」
「あっ、ちちち、ち、違います!! そんな理由じゃありません!!」
慌てる桜子の様子を見た担任は「まさか」とは思ったのだが、どちらにしても保護者の意向を聞かない限り担任としては何も出来ないので、後日に母親も交えて再度話をすることにした。
その日の晩、桜子は楓子に志望校変更の相談をした。
進路の話なので、普通は担任よりもまずは親に相談するべきなのだが、桜子は楓子にこの事を相談するのを最後まで迷っていたのだ。
店の手伝いのために志望校を変更したい、などと伝えれば間違いなく反対されるのは目に見えている。それをどう説得すべきか答えが出ないまま、相談することになってしまった。
いざ桜子が楓子に相談を始めると、楓子は驚きながらも彼女の説明を真摯に頷きながら聞いてくれた。しかし、予想通り桜子の提案に楓子が頷く事はなかった。
「いい? 桜子。あなたの気持ちは良くわかるけど、あなたはまだ学生なのよ。だからお店の事よりも学業を優先して欲しいの」
「でも…… お母さんとお祖母ちゃんだけじゃ大変だよ。それに最近はお祖母ちゃんも体が辛そうだし、あまり無理はさせられないよ」
「だから今アルバイトの募集をしてるんじゃないの。配達を専門でしてくれる人が見つかれば、あなたの手伝いがなくても何とかなるわよ」
「……」
「それに、桜子、あなたには高校で好きな事をしてもらいたいの。また水泳だって始められるかもしれないし、北高だったら大学受験でも有利になるでしょう?」
「そうだけど…… でも、あたしは部活とか受験とか、そんな事よりも家族を優先したいんだよ」
「……確かにあなたの言いたい事もわかるけど……」
楓子はそう言うと、先月亡くなった浩司の事を思い出していた。
あの時の自分は、自分の事より何よりも、浩司の事を最優先にしていた。もちろんその時と今では理由も状況も違うのだが、桜子がそう思う気持ちも良くわかるのだ。
それに、まだ15歳の子供がそこまで家族を思うことは、この世知辛いご時世に中々無い事だろうし、桜子の真っすぐな性格を考えると、彼女が本気で言っていることも間違いないだろう。
それでも楓子には、どうしても桜子の主張を聞き入れることが出来なかった。
それは、「浩司ならどう思うか」といつも考えるからだ。浩司が亡くなってから、何か判断に悩むことがあると、いつもそう考えてきた。『浩司なら何と言うだろう、彼ならどうするだろうか』と。
だから今回の事も、同じように考えてみたのだ。
「ねぇ、桜子。お父さんなら何て言うと思う?」
その言葉を聞いた途端、桜子には珍しく眉間に大きく皺を寄せると楓子を睨みつけた。
「お母さんはズルい…… お父さんのせいにしてる…… お父さんはもう何も言えないのに!!」
桜子の唸るようなその声に、楓子は胸を押さえてしまった。
絞り出された彼女の言葉に、楓子はまるで自分の胸に大きな穴を空けられたような気持ちになって、思わず胸に手を当てていた。
確かにその通りだ。
この判断は楓子自身のものなのに、『浩司ならどうするか』とその判断の最終的な責任を今は亡き夫に被せているだけなのだ。
今まさに、自分は浩司のせいにしている。
「お父さんなら何て言うかって? そんなの決まってる、『お前のしたいようにすればいい、思うようにしてごらん』って言うよ、絶対!!」
桜子のその言葉と、自身の思い違いに打ちのめされた楓子は、思わずよろけて壁に手をついた。その様子を見た桜子はハッと顔色を変えると、慌てて母親の背中に手を回して抱き留める。
「ご、ごめんなさい…… あたし、あたし…… また自分の事ばかり…… ごめんなさい……」
自分に抱き付いて嗚咽をあげ始めた娘を抱きながら、楓子は自身の頬を伝う涙はそのままに、只管娘を抱く両腕に力を込めていた。
しばらくすると桜子が泣きやんだ。
楓子は彼女が落ち着いたことを確認すると、相談を再開した。
あれから楓子も自分自身の考えを率直に話すようになり、お互いに本音で話し合いを続けたのだが、結果として桜子の希望通り、有明高校に出願を変更することになった。
有明高校は電車で一駅の隣町にある公立高校で、桜子の家から一番近い高校だ。
ランク的には中の中、桜子が当初目指していた北高から比べると4ランクは余裕で下の高校で、学力偏差値的には特に見るべきものはなく、近隣住民の平均的な学力の生徒が普通に通う高校といったところだ。
ちなみに、健斗でも普通に合格できるレベルらしい。
部活の関係では柔道と卓球が強いので有名で、公立校にしては頑張って成績を残しているらしく、健斗はその柔道部に入部する予定だ。
桜子は高校では部活に入らずに、放課後は実家の酒屋の手伝いをすることにした。
有明高校までは家から電車一本で片道30分で行くことが出来るので、放課後に真っすぐ帰って来ると夕方の店番は桜子がすることができるのだ。
店番だけなら祖母の絹江にも今までは十分できていたのだが、浩司が亡くなった直後から急に気力と体力が落ち始めて、最近では全く無理が出来なくなってきている。
83歳という絹江の年齢を考慮してもそろそろ引退を考えてもいい頃で、いつまでも彼女を当てにするのも酷と言うものだろう。
楓子の立場としては、十分に合格できる見込みがある以上、やはり桜子にはレベルの高い北高に行って貰いたいと思っているのだが、実際問題として酒屋の切り盛りも同様に切実な問題として目の前に横たわっている。
桜子の事を考えると楓子の口からは絶対に言えないのだが、確かに彼女が学校よりも家業の手伝いを優先してくれるのであれば、これほど助かることはないのだ。
実際に桜子の方からその事を提案してきた時は、内心とても助かると思ったのも事実だった。
そのあたりの事を考えても、やはり自分はズルい人間なのかもしれないと、楓子は思うのだった。
2月上旬。
二週間ほど前に小林酒店が配達アルバイトを募集する広告を出したのだが、なんと一件の応募があり、今日はその面接の日だった。
応募してきた相手は隣町の大学生で、夕方からの配達アルバイトを担当してもらう事になる予定だ。今日は大学の講義が終わる17時から店に来ることになっていて、いまは楓子がそれを待っているところだ。
「えーっと、19歳の大学生で、趣味はマリンスポーツ、ダイビングね…… まぁ、今どきの若い子って感じね」
楓子が送られてきた履歴書を見ながら、何やらぶつぶつ呟いているのを尻目に、桜子は商品陳列の手伝いをしている。
小さい時から店の手伝いをしてきた桜子は、さすがに酒のアドバイスを客にすることはできないが、それ以外の事は殆どすることが出来る。発注から品出し、商品説明も淀みなくすることができ、今では在庫の管理や帳簿書きまで何でもこなしている。
運転免許が無いのと腕力の関係で、さすがに一人で配達業務は出来ないのだが、それ以外の事はなんでもできて、極端な話をすると桜子一人でも店をまわすことが出来るほどだった。
桜子が近所の常連の奥さんと話をしているのを眺めながら、飽きることなく履歴書をしげしげと見つめて楓子は小さく呟いた。
「……でも、なんかこの顔見た事あるのよねぇ、気のせいかしら……」
「失礼します、アルバイトの面接に来ました、土屋です」
約束の時間の5分前に、酒屋の入り口の暖簾を潜りながら、ひょろりと背の高い青年が入って来た。その青年は店の中をきょろきょろと見回しながら人影を探している。
「はーい、いま行きまーす」
桜子がアルバイトの面接の案内をするためにサンダル履きのまま走って行くと、そこには見知った顔の青年が驚いた顔で立っていた。
「さ、桜子ちゃん!?」
「あーっ!! 土屋さん!?」
ひょろりと背の高い色黒の青年と、白に近い金色の髪の少女は、お互いに指を指し合いながら名前を叫んでいた。




