第97話 引きこもり
浩司が亡くなって一週間が過ぎた。
葬儀などでばたばたと忙しく動き回る小林家の三人には、泣いたり悲しんだりしている暇はひとつも無く、ひたすら目の前の仕事を片付けていく只々忙しい日々を過ごしていた。
ちょうど正月休みだった事もあり、浩司の葬儀には商店街中の人たちが手伝いに来てくれたのだが、その対応に追われた楓子は、それ以前からの介護疲れも重なり、葬儀が終わった直後から高熱を出して寝込んでしまった。
葬儀に出席した健斗は桜子の憔悴し切った様子に胸を痛めていたのだが、彼には慰めの言葉をかけたり、新学期が始まるまで毎日桜子の顔を見に行く事くらいしか出来る事は無かった。
それでも彼女には健斗の存在が大きな心の支えになっていて、彼に対しては笑顔を見せるようになっている。
1月8日から中学校の三学期が始まったのだが、新学期の初日から桜子は学校を休んだ。葬儀の後から塞ぎ込んでしまった彼女は、登校初日の朝にいきなり誰とも会いたくないと言い出したからだ。
学校を休んだ桜子の様子を見るために、健斗が小林家を訪れている。
制服姿でいるところを見ると、学校の帰りのようだ。
「こんにちは。桜子の様子はどうですか?」
「あら、健斗くん。ごめんねぇ、あの子、新学期の初日からいきなり休んじゃって」
玄関先に楓子が姿を現したのだが、その顔色は青ざめていて頬も少しこけているように見える。もっとも夫を亡くしたばかりで、さらに病み上がりともなればそのくらいは当たり前と言えるのだろうが。
「とりあえず、上がってくれる? あの子の顔を見てあげて」
健斗は昨日も桜子に会っていた。
確かに全体的に沈んだ様子であまり笑う事もなかったが、それ以外は特に気になる点は無い。なにか特別な事情でもあるのかと思って楓子に訊いてみたのだが、特に何もないそうだ。
それを聞いた健斗はなんとなく嫌な予感がしたのだが、とりあえず桜子が自室から出て来るのを待つことにした。
そして待つ事1分、桜子がリビングにやってきた。
今日の桜子はいつもと少し違っていた。
いつも綺麗に整えられている金色の髪は、今日は適当に背中に流されていて、ボサボサになった髪の毛は彼方此方が跳ねている。
着ている服もパジャマのままで、まさに「今まで寝てました」と言わんばかりの格好だ。
「ちょ、ちょっと、桜子、あなたなんて格好で出て来るの!?」
楓子が驚いて桜子を窘めているのを見ていると、健斗の嫌な予感はいつしか確信に変わっていた。
「す、鈴木さん……?」
あまりの桜子の格好に驚いた楓子は、そのまま彼女を洗面所へと強制的に連れて行った。
約10分後に再登場した時には、いつも通りとまではいかないがそれなりに見られる状態になっていて、服装も綿シャツにジーパンという彼女にしては珍しい格好になっている。
それでも髪の毛だけは短時間ではどうにもならなかったらしく、金色の髪をくるくると後頭部で丸めたシニヨンにして誤魔化していた。
健斗はそれを見ながら、雑な髪型の桜子も可愛いな、と密かに思ったのだった。
「あははは…… ごめんねぇ、健斗くん。何とか誤魔化したから、今日はこれで勘弁してね。それでは、ごゆっくりー」
楓子はそう言うと、無言で俯いている桜子の背中を軽く健斗の方に追いやって、そのまま一階の店舗へと下りて行った。
「……鈴木さん、だよな?」
立ったまま俯いている桜子の顔を、健斗が下から覗き込んで確認しようとすると、「ちっ!!」という舌打ちの音が聞こえて来る。その音が健斗の確信を120パーセントの確率で正解であることを証明していた。
「くそぅ、なぜわかった……?」
「いや、なぜって、桜子はあんな格好でウロウロしないだろ……」
もう既にバレている事を悟った秀人は、ちゃぶ台の前にどっかりと腰を下ろすとそのまま健斗が飲んでいたお茶を一気に飲み干した。彼女の白い喉がゴクゴクと動く様を眺めていた健斗は、もうそれだけで色々と捗りそうだ。
「……今日桜子が学校を休んだ理由がわかったよ。それで、どうしてこうなってる?」
「桜子か…… こいつ、父親が死んだショックで引きこもりやがった」
「えっ? 引きこもり?」
「そうだ。自分の内面に逃げ込んで表に出て来なくなったんだ。どうすんだよ、これ……」
桜子は父親の葬儀では常に冷静であろうと努力していた。
さすがに溢れ出る涙を我慢することは出来なかったが、間違っても叫んだり、泣き喚いたりしないように自分の感情を押さえつけていたのだ。
そして葬儀が終わって日常生活が戻って来た時には、母親が高熱を出して寝込んでしまい、その間一人で家を切り盛りする祖母も高齢のために無理をすることは出来なかった。
そんな状況の中で、桜子は周りの誰にも泣き付いたり、感情を発散することが出来なかったのだが、秀人が昨夜夢の中で桜子を励まそうとした時、彼女は感情の箍が外れたように大きな声でギャン泣きしたのだ。
夢の中では誰にも聞かれることはないし、元々桜子は秀人に対しては素の自分を曝け出していたので、一瞬にして感情が爆発したのだろう。
浩司には弟、つまり桜子の叔父、がいるのだが、葬儀に現れたその男に全身を舐めるように見られたあげく、卑猥な言葉をかけられたそうだ。それもまた彼女には相当なショックだったらしい。
夢の中で桜子を励ましてやろうとした秀人だったが、気付くと桜子に2、3日代わって欲しいと頼まれて、そのまま現在に至っているという状況だ。
もちろん桜子と秀人の本当の関係や本来の立ち位置などは適当に誤魔化したのだが、秀人は概ねそんな内容で健斗に説明をした。
「……人格の交代って、そんなに簡単なものなのか? 野球の代打じゃあるまいし……」
「まぁ、そう言うな。こいつの事が大事なら落ち着くまでそっとしておいてやれ。その間は俺が責任をもって何とかしてやろうじゃねぇか」
「いや、だからそれが一番心配なんだが……」
秀人が胡坐をかいて腕組をしたまま渋い顔をしていると、楓子が一階の店舗から上がってきた。すでに正体を隠すことを放棄した秀人は、そのままの格好でギロリと楓子の顔を見たのだが、その眼差しに彼女はビクリと肩を震わせると、そのままその場に座り込んでしまった。
「あ、あ、あなたは…… 鈴木さん……?」
「おうよ、俺だよ、久しぶりだな。元気だったか……って、旦那が死んだのに元気なわけないか」
「……け、健斗くん……」
楓子は健斗の反応を確かめようとして彼の方に顔を向けたのだが、健斗は既に全部知っていると言いたげな表情で頷き返すと、楓子はその場にへなへなと倒れてしまった。
「お、おばさん、しっかり!!」
その後、絹江も含めて全員で状況の再確認をしたのだが、桜子自身が立ち直るまでの間、家ではこのままでいるしかないという事になった。そして高校受験を控えた大切な時期という事もあって、明日からは秀人が桜子の振りをして学校に行くことになるのだ。
やむを得ずそのフォローをすることになった健斗は、明日からの事を考えると早速胃に穴が開いて、頭部にハゲが出来る勢いで思いやられるのだった。
翌日の朝に健斗が迎えに来ると、秀人の外見はきちんと整えられていて、見た目だけならどう見ても超絶美少女の桜子にしか見えなかった。もちろん秀人には髪の手入れや女性的な身嗜みなどは出来るはずがないので、全て楓子が整えたのだが。
しかしその歩き方は、気を抜くとすぐにガニ股になるので、気が付くと健斗と二人で仲良くガニ股で歩いていたりする。
今も二人が並んでガニ股で登校する姿を楓子は見送っているのだが、彼女の口からは大きなため息が絶え間なく漏れ出ていた。
教室に着くと、秀人の周りに桜子の親しい友人たちが集まって来る。
せっかくの正月休みにも関わらず、親と一緒に地方に帰省していた者は除いて全員が浩司の葬儀に参列してくれて、少しでも桜子の慰めになればと声をかけてくれた。
皆新学期の初日にいきなり休んだ桜子の事を心配していたのだが、今朝登校して来た彼女の顔を見て少し安心しているようだった。
「おはよう、桜子ちゃん。お父さんの事で色々と大変だと思うけど、何か手伝えることがあったら遠慮なく言ってね」
「桜子、元気出して!! 困ったことがあったら言いなさいよ?」
「小林さん、大丈夫?」
友人たちが口々にかけてくる慰めの声を、なりすましがバレないように言葉少なく聞いていた秀人だったが、次第に自分の目頭が熱くなってくる感覚に戸惑っていた。秀人はしばらくそれに必死に耐えていたのだが、遂に堪え切れなくなって彼の目から涙が零れて来た。
秀人にとって泣くという感情は本当に久しぶりの事で、記憶にある限りでは父親に虐待されていた12歳の頃が最後だった。
秀人の精神は根っ子の部分で桜子のそれと繋がっているので、彼女の思考や感情などがダイレクトに伝わって来る。だから今回の父を亡くした悲しみや喪失感も、桜子と同じように秀人も感じ取っていたのだ。
突然涙をぽろぽろと零し始めた秀人を、驚きもせずに遠巻きにそっと見守ってくれる友人達を見渡しながら、秀人は慌ててゴシゴシと制服の袖で涙を拭った。
「す、すまねぇ…… 父親が死ぬ事がこんなに辛くて苦しい事だとは思ってなかった。これは想像以上にくるんだな…… こいつが引きこもりたくなる気持ちもよくわかるよ…… なぁ、浩司兄さん……」
「……」
友人たちは秀人の呟きに少し怪訝な顔をしていたが、あとからそれについて何も言わなかった。
秀人はそんな友人たちに囲まれながら、とめどなく涙を流し続けた。
それから2日後、桜子は引きこもりから戻ってきた。
朝に健斗が迎えに来ると、そこにはいつもの天使スマイルが待ち構えていて、朝から健斗の心を明るく照らしてくれるのだ。
「ごめんね、健斗。あたしはもう大丈夫だから、心配しないで。あたしがいつまでもめそめそする事をお父さんも望んでいないと思うしね」
「そうだな。やっぱり桜子はいつも笑っているのが一番いいと思う。泣き顔は似合わないよ」
「うん、そうだね、ありがとう」
そう言うと、二人はいつもの通学路をいつものように手を繋いで歩き出した。




