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第96話 夢

 12月20日。



 今日の浩司も朝から調子が良さそうで、麻酔による意識の混濁も見られずにはっきりとした受け答えが出来ている。

 浩司は一週間前から口から食事をすることが出来なくなったので、いまは病院に入院して点滴で栄養を摂るようになっていた。

 それでも浩司は家に帰りたがったのだが、家では十分な処置が出来ないために病院がそれを許さなかった。


 どうやら彼が家に帰りたがったのは、桜子が学校に行っている間に自分が死んでしまう事を恐れたからなのだが、もうすぐ学校が冬休みになって彼女が毎日朝から見舞いに来られるようになるので、最近は家に帰りたいと言わなくなった。




「そうだ、お父さん、何かして欲しい事はある?」 


 桜子の問い掛けに目を閉じてしばらく考えていた浩司だが、いつまでもその目を開けないので彼女は父が眠ってしまったのかと思った。諦めて父の髪を撫でていると、浩司がパチリ目を開けて天井を見上げたまま話し出した。



「そうだなぁ…… したい事かぁ…… あぁ、あるかな」


 父のその言葉に桜子は身を乗り出すと、真剣な顔で頷いている。


「うん、あたしに手伝える事ならなんでもするよ。遠慮なく言ってね」


「じゃあ、遠慮なく言わせてもらうかな……」


「うん、いいよ」


「お前の高校の制服姿が見たいな……」


「えっ?」


「大学はどこへ行くんだろうなぁ、やっぱり一人暮らしするのか……」


「あ……」


「成人式の着物姿は奇麗だろうな……」


「うぅ……」


「社会に出る大人になったお前も見てみたかった……」


「うぅ…… ぐす……」


「お前の花嫁姿は、世界で一番綺麗なんだろうな…… 相手の奴は一発殴らないと気が済まんがな」


「お、お父さん……」


「お前の生んだ赤ん坊…… 俺の孫はお前に似て、天使のように可愛いだろうな…… 抱いてみたかったな」


「ひっく、お、おとうさん…… ひっくひっく……」


「俺はな、もっと歳を取って爺さんになった時、お前の子供たちの面倒を見ながら余生を過ごすのが夢だったんだ…… 孫たちに囲まれて賑やかに暮らすのが夢だった」


「うん、叶うよ、きっと叶うから……」


「それと、最後にな…… もう少しお前たち家族と一緒に笑いながら暮らしていきたい…… あともう少しだけでいい…… それが今一番したいことだな……」


「ううぅぅ、お父さん、ごめんなさい…… うぅぅ、あたし、お父さんに何も出来なかった、なにもしてあげられなかった…… うあぁぁぁ……」





 桜子が泣きじゃくりながら、浩司の胸に縋りつく。

 浩司は不自由な手で娘の金色の髪を優しく撫でながら、遠くを見つめるように呟いた。


「そんなことはない、お前は俺にたくさんの事をしてくれた。いっぱい貰ったよ」


「うああぁぁ…… うぅぅぁぁぁ……」


「俺はお前と出会えて幸せだったよ。俺たち夫婦には子供ができなくてなぁ…… そんな時にお前と出会ったんだ」


「あぁぁぁ…… お父さん、お父さん……」


「お前は本当に天使みたいだったなぁ…… 真っ白で金色に輝いていて…… 俺の天使だったよ」


「うぅぅぁぁぁ…… もういいよ、もういいから……」


「お前は本当に真っすぐに育ってくれた、自慢の娘だよ。優しくて、素直で、正直で、明るくて、朗らかで…… 本当にありがとうな、俺は本当に世界一の幸せ者なんだと思うよ」


「うぁぁぁぁ…… お父さん……」


 


 病室の入り口で二人の様子を見ていた楓子も、思わず目頭を押さえて涙を流していた。

 楓子は医師から、浩司はもう年内は持たないかもしれないと言われていたのだが、気丈な彼女は自分の娘の前では絶対に涙を流さなかった。しかし今はもう限界だった。

 

 最愛の娘を残してこの世を去る気持ちは如何ばかりだろうか。

 娘に向ける浩司の優しい眼差しを見つめながらそれを想像する楓子の目からは、いつまでも涙が溢れて止まることはなかった。





 12月25日。

 クリスマス。


 ケーキを買って、みんなで病室でクリスマスパーティーをした。

 浩司はとても喜んで声を出して笑っている。浩司はケーキを食べられなかったが、桜子が浩司の分までケーキを頬張っているのを見ながら、心から楽しそうにしていた。

 

 最後にみんなで記念写真を撮った。

 楽しかったパーティーも終わり、面会時間を過ぎた桜子が家に帰ってから30分後、浩司は意識を失った。





 12月28日。


 浩司は3日ぶりに意識を取り戻した。

 楓子が朝から付きっきりで面倒を見ているのだが、浩司は意識が混濁している様子でずっと楓子の事を桜子と呼んでいる。

 

 楓子は浩司が桜子に会いたいのだろうと思って、食事に行っていた彼女を呼び戻したのだが、彼女が到着した時には浩司はまた意識を失っていた。

 




 12月31日。

 大晦日。


 浩司は既にもう丸3日間、目を覚ましていない。

 楓子は医師から年内は持たないと言われていたので既に覚悟はしていたが、今日は今年最後の日、なんとか来年まで生きてくれることを願った。


 ずっと意識の戻らない夫を見つめながら、このままでは最後のお別れを直接伝えられない可能性も出て来て、楓子は複雑な思いを胸に抱えていた。




 除夜の鐘が聞こえる。


 現在の時刻は23時50分、今夜は家族全員が病室に泊まり込んでいた。

 既にもう一週間以上泊まっている楓子の顔には疲労の色が濃く出ていて、今もベッドの横に置いた椅子に座ったまま、うつらうつらと船を漕いでいる。

 

 そんな母親を気遣った桜子が、楓子に先に寝るように勧めたのだが、彼女は頑として言う事を聞かなかった。浩司にはまだ直接別れの言葉を言っていないので、ほんの少しのチャンスも逃したくはないのだ。

 

 もちろんこのまま意識が戻らないこともあるのだろうが、浩司の性格を良く知っている彼女には、このまま何も言わずに浩司が去っていく事を考えられなかった。




 楓子がそんな事を考えていた時、微かに浩司の頭が動いたような気がした。

 彼女が急いで浩司の顔を覗き込むと、確かに彼の目は開いていて口も何やら動かしているのが見える。


「お父さん、わかる? みんないるのよ。ほら、桜子も、お義母さんも、私も」

 

 目を開いた浩司の顔を全員が覗き込むと、浩司の口がニヤリと微かに動いたのがわかった。


「あぁ、みんなありがとう…… 今日は何日だ?」


 浩司のその言葉に意識の混濁はないと判断した楓子は、積極的に話しかけるようにして、なんとか彼の意識をこの場に繋ぎ止めようとしている。


「今日は大晦日だよ、あと10分で年が明けるんだ。来年もよろしくね」


 桜子が何とか笑顔を作って一生懸命浩司に話しかけている。その笑顔は少し歪んでいて、その青い瞳の端には涙が光っていた。


「ふふふ…… 少し気が早いだろ…… そうか、あと10分、か……」


「これ、浩司、しっかり元気出さんといけんよ。気張らなあかん」 


「やぁ、お袋も、まだまだ、元気そうだな…… すまない…… こんな、姿で」




 それからしばらく、浩司は最後の力を振り絞るように話し続けたのだが、次第にまた意識が朦朧としてきたらしく言葉も途切れがちになってきた。それでも桜子が一生懸命話しかける言葉には、頑張って返している。


「楓子、お前は旅行が、好きなのに…… 結婚してから、あまり、連れて、行けなかったな…… 悪かった」


「そんなことないわ。毎日楽しかったし」


「桜子、お前は本当に、いい子だ…… このまま、まっすぐ、どこまでも、まっすぐに、大きく、なるんだぞ……」


「お父さん…… うん、大丈夫、あたしはずっとあたしだよ」


「お袋…… 親より先に、死ぬ…… 親不孝な息子を、許して、くれ…… 頼む……」


「なに言っとる、まだまだじゃろうが……」




 ぼーん……



 少し間をおいて、ひときわ大きな鐘の音が周囲に響き渡る。

 それは除夜の鐘の最後の一突きだった。



 桜子は、最後の鐘の音は新しい年が明けた事を告げるのではなく、古い年が終わった事を意味するのだと、誰かが言っていた事を思い出していた。


 彼女はその言葉を目の前の父親の姿に重ねると、思わず涙が溢れて来るのを堪え切れなかったのだが、それでも必死に笑顔を作り上げようとして、両方の口角を笑顔の形に釣り上げた。


 出来上がった笑顔は何とも奇妙なものだった。

 口は笑う形になっているのに、その青い瞳からは大粒の涙がポロポロと零れていて、まるで福笑いの人形のような顔だ。

 それでも彼女は、最後まで笑顔でいるという誓いを果たそうとして必死で頑張っていた。



「お父さん、最後の除夜の鐘だよ…… 年が明けたんだよ…… 明けまして、おめでとう……」



「そう、か…… ハッピー…… ニュー…… イヤー…… ことしも、よろし……」



 浩司の目には、桜子の最後の笑顔は見えていたのだろうか。

 

 それは本人にしかわからないことだろう。



 それでも浩司の顔には、とても幸せそうな微笑が浮かんでいた。




 1月1日 午前0時7分。


 小林浩司 享年59歳。

 

 家族全員に見送られて、彼はこの世を去った。


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― 新着の感想 ―
[気になる点] つらいつらいつらいつらい! ひどすぎるよ
2021/07/20 11:51 退会済み
管理
[一言] 今まで散々神様に対してヘイト書いてきたし、 他の人も散々書いてるようなので、一言。 神様はこの人にどんな死後の世界(or来世)を用意するんだろうか? また二人が出会って、 今度こそ二人の…
[一言] なんでどうして……
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