第95話 心の棘
12月上旬。
師走の忙しさに、世間が何となく慌ただしくなり始めたある日曜日の午後、桜子は自宅の寝室で横になっている浩司の枕元に座っていた。
「お父さん、お口を開けてね。はい、あーん」
最近の浩司は既に一人で食事を摂ることも出来なくなっていた。
それでも食欲自体はあるようで、3、4時間おきに極少量の食べ物と水分を欲しがるのだ。彼のことはいつも家族で交代で世話に当たっていて、ちょうど今は桜子の番だった。
順番と言っても、桜子が家にいる間は自ら進んで浩司の世話をしたがるし、浩司もそれを喜んでいるので、今では無理のない範囲で桜子に任せるようになっていた。
もちろん排泄や入浴の介助は桜子には無理なので、訪問ヘルパーと一緒に楓子が受け持っている。
日曜日の今日は中学校は休みなので、桜子は朝からずっと浩司の面倒を見ていた。
今は浩司の好物の桃を少しずつ食べさせているところで、桜子はやせ細った浩司の頭を支えながらのんびりと会話を楽しんでいる。
「いつもすまんな。お前には最期まで世話をかけるな……」
「ううん、それは言わない約束でしょ、お父さん」
「……このセリフ、なんかのテレビで聞いたことないか?」
「あぁ、そうだね、どこかのお笑い番組で見た事あるような……」
「うはははは」
「あはははは」
「あー、おかしいね…… はい、どうぞ、お口開けてね。もうひとつ召し上がれ」
桜子は体が自由に動かない父親をとても甲斐甲斐しく世話をしている。顔には常に笑みを浮かべて、苦しさや悲しさを極力表に出さないように努力しながら、一生懸命尽くしている。
それはまるで、今まで育ててくれた親にその恩を返そうと懸命に力を振り絞るようで、その健気さはある種の悲壮感が滲み出て、傍から見るととても涙を誘うのだ。
食卓で涙を流して以来、桜子は浩司の前で泣いていない。
これだけ苦しい思いをしながらも、一日でも長く生きようと頑張る父を見ていると、常に笑っていようなどと言う自分の誓いなどとても容易い事のように思えるのだ。
しかし実際はそんなに簡単なものではなかった。
桜子は誰もいない自室に入るといつも泣いていた。
しかし、一番辛いはずの浩司が泣いていないのに、なぜ自分ばかりが泣いてしまうのかと思うと、自分に対して何か怒りのような感情が湧いてきて、思わず自分で自分を叩いてやりたくなる。
桜子はそんな事を考えながら、日々悲しみを押し殺して生活していた。
12月中旬。
浩司の容態が悪化していく。
往診に来る麻酔科医のおかげで、身体の痛みを訴えることはほとんどなくなったが、その代わりに意識が朦朧としたり、混濁するようになった。
今では一日の大半を眠って過ごすようになり、食事もろくに摂れなくなったので、これ以上は点滴などで強制的に栄養の補給が必要だろうとの判断で明日から入院することになった。しかしまだ本人には話していない。
桜子が眠る浩司の枕元に座って、うつらうつらと船を漕いでいると、なんだか自分の名前を呼ぶ声が聞こえたような気がした。彼女が居眠りから目を覚ますと、目を覚ました浩司が自分を見て名前を呼んでいた。
「あぁ、桜子、すまんな。お前も疲れてるだろうに……」
「ううん、あたしは平気だよ。それよりも、お父さんの具合はどうなの?」
「おかげさまで、だいぶ元気になったかもな。まだ起き上がれないが、来週には立って歩けるようになるさ」
「……そうだね。お父さん、だいぶ、よく、なって……きた……から…… うぅぅぅ、ひっく、ひっく……」
桜子は誓いを破って涙を流してしまった。彼女は涙を浩司に見せないように後ろを向いたのだが、そんな桜子に浩司は優しく声を掛けた。
「もうそんな無理はするな。泣きたい時に泣け、笑いたい時に笑え。それでいいんじゃないのか? もう俺はお前が無理をする顔は見たくない」
そう言われた桜子は、涙で濡れた顔を浩司に向けると、涙でぐちゃぐちゃの顔のまま、ニコリと笑い返した。
「そうだね、じゃあもう無理はしないよ。だから泣きたい時には泣くからね。でも、笑いたい時にはいっぱい笑うよ」
「そうだな、それでいい…… でも、せめて鼻水は拭け。糸を引いて垂れてるぞ」
いまの浩司は、最近では珍しく意識をはっきりと保っている。
段々と全身の痛みが増してきたこの頃は、往診の麻酔科医が投与する麻酔の量が増えていて、起きて意識がある時でも朦朧としている事が多かったのだ。
桜子は久しぶりに頭がはっきりとしている浩司と、嬉しそうに笑いながら会話を楽しんでいるのだが、桜子の笑顔を見つめながら途中で浩司の口調が沈み始めた。浩司の変化が心配になった桜子が浩司の顔色を伺っている。
「お父さん、どこか痛いところがあるの?」
「いや、大丈夫だ、どこも痛くはないよ。俺はな、桜子、お前の事が心配なんだよ」
「えっ? あたしの事が?」
「あぁ、そう、お前の事だよ。男性恐怖症もそうだが、あの二重人格…… 鈴木さんの事がとても心配でな……」
「……」
浩司は桜子が患う『解離性同一性障害』の事をとても心配していた。
これだけの優れた容姿と誰にでも好かれる性格を併せ持つ類まれな自分の娘が、その病にこの先もずっと苦しみ続けることを思うと、この子を残して自分だけが先に死んでしまうことが許せなかった。
せめてその病の治療の道筋や見込みを見つけるまでは、自分が娘を守ってやりたかった。しかしそれももう叶わない。
「お前がこの先、その病で苦しまないように願っているのだが……」
「……ううん、大丈夫、あれは病気なんかじゃないから……」
桜子は浩司に全て話すことにした。
もちろんこんな荒唐無稽な話をいきなり信じろと言う方が無理な話なのは十分承知しているのだが、それでも浩司が自分の事を心残りにしながら去って行くのを見ているのがどうしても忍びなかったのだ。
それからしばらくの間、桜子が淡々と真実を告げて行くのを、浩司は真剣な眼差しで聞いていた。
浩司は今まで桜子の言う事を疑った事は一度もなかった。
それだけ彼女の事を信用しているのはもちろんだが、なにより最愛の娘が人に嘘をつくような人間ではない事を知っているからだ。
それでもいまの浩司の顔には戸惑いと困惑の表情が浮かんでいて、桜子の話を俄かには信じられない様子だった。
「そうか…… 前世の人か…… ちょっとびっくりしたけど、俺はお前の言う事は信じるよ」
「ありがとう。でも本当の事なんだよ、信じられないと思うけどね」
「いや、信じるよ」
正直に言うと、浩司は桜子の話を信じていなかった。
優しい娘が父親の事を心配させないように、敢えてそんな無茶な話をしてきたのだろうと思うと、浩司は信じている振りをするしかなかったのだ。
「あのね、実は鈴木さんから伝言があるんだけど……」
数日前に桜子は秀人と夢の中で会っていた。
その時彼に、もしも父親に自分の事を話す事があるのなら幾つか伝えて欲しい事があると言われていたのだ。それをいま、伝言として浩司に伝えようとしている。
「伝言……? 彼が俺に?」
「そう、鈴木さんがお父さんに伝えて欲しいんだって。言われた事をそのまま言うから聞いてね」
桜子の発言に、当然のように浩司は困惑している。
それもそうだろう、桜子が無意識に自分で作り出した架空の人格が、自分に伝言があるなどと、余りにも非現実的な話なのだ。
「えぇと…… 『いつも家の前で声を掛けてくれて、ありがとう』だって、なんのことだろうね?」
「……よくわからんなぁ」
「それから、『いつも傷だらけで泣いていた自分を庇ってくれたのは、浩司兄さんだけだったよ』」
「……」
「うーんと、ごめんね、覚えきれなくて細かいニュアンスが違うかもしれないの」
「いや、大丈夫だ、そのまま続けてくれ」
「『うちのクソ親父と取っ組み合いをしてまで俺の事を守ろうとしてくれて、すごく嬉しかった』…… なんのこと?」
「……」
「それから、『クソ親父が死んでから、グレた俺を心配してくれたのもあんただけだったよ。でも酷いことを言ってしまって後悔している』」
「…… ちょっと待ってくれ。鈴木さんの下の名前って、もしかして……」
そう言えば、桜子はいつも秀人の事を『鈴木さん』と呼んでいて、彼の名前を両親は知らなかったかも知れない。
「うん、秀人さんだよ。どうしたの?」
「なにっ!? すずき ひでひと…… もしかしてあいつか? ヒデ坊なのか……?」
「ヒデ坊?」
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浩司は遠い昔の事を思い出していた。
今から約30年前の話だ。当時20代後半だった浩司は、実家の酒屋を手伝いながらふらふらする生活をしていた。
その日も実家の酒の配達を手伝っていた彼は、ある一軒の家の前を通りかかると、そこの玄関先で泣いている男の子に気が付いた。その子は小学校高学年くらいで、痩せて線の細い華奢な体格をしていたのだが、何よりその顔に作った無数の痣が目を引いた。
浩司が不審に思って声を掛けたのだが、その男の子はただ怯えるだけで、何も答えようとはしなかった。
それから度々仕事中にその家の前を通ると、時々同じように体に痣を作った男の子が泣いているのが見えたのだが、やはりその子は浩司の呼び掛けには何も答えずに、玄関先の茂みに身を隠すのだ。
浩司はその子の処遇を薄々察していたのだが、今とは違って児童虐待という言葉自体が無い時代に、それを通報するという考えも無かった。
そしてある日、その子の様子が目に余った浩司は、その家のチャイムを鳴らしたのだ。
浩司はその家の父親と、言い争いから始まって最後は取っ組み合いまでしてなんとかその虐待をやめさせようとしたのだが、赤の他人の浩司に人の家庭の事情に口を出すなと突っぱねられた挙句、その子の母親にも口を出さないように泣いて懇願されたのだ。
他家の夫婦にそこまで拒絶された上に、助けようと思った男の子にも余計な事をしないで欲しいと言われた浩司は、最早それ以上の事は出来なかった。
それでも浩司は、その家でその子を見かける度に何かと気にかけてやっていた。
浩司はその子を『ヒデ坊』と呼んで歳の離れた弟のように可愛がり、ヒデ坊も浩司のことを『浩司兄さん』といって懐いて来るようになった。
しかし、ある日を境にヒデ坊の様子が一変してしまった。それまでは声を掛ければ返事もしたし、お菓子をあげれば礼も言ってくれたのだが、急に今まで見せた事も無いような鋭い目つきでただ睨みつけて来るようになったのだ。
遂にヒデ坊の心が壊れてしまったと思った浩司は、優しかったその子の変わり果てた姿を見たくなかったし、ちょうど酒の配達のルートからその家が外れた事もあり、次第にその家の前を通ることは無くなった。
それから数年後、ヒデ坊の父親が亡くなったと噂で聞いた浩司は、久しぶりに彼の家の前を通ったのだが、そこで偶然ヒデ坊本人に再会した。
久しぶりに会ったヒデ坊は、見るからに不良少年の格好をしていて、浩司が最後に見たあの鋭い目つきもそのままだった。今まで押さえつけて来た父親が死んで、その反動が一気に現れた、そんな感じだった。
そして彼の様子は、まるで世の中全てに逆らっているように見えて、浩司にはとても危うく見えたのだ。
浩司はヒデ坊との再会を喜んでそれから度々彼の家に寄るようになったのだが、荒れに荒れた彼の態度は、母親も姉も妹も彼の事を恐怖の対象としか見ていなかった。そして浩司はそんなヒデ坊を捉まえて何度も諫めたのだが、その時に言われた一言が浩司の心に棘のように突き刺さって、その後ずっと抜けることはなかった。
「お前は裏切り者の偽善者だ。俺を途中で見捨てたんだ。あれから俺がどんな思いをして生きて来たのか想像できるか?」
その言葉を聞いた後、しばらくして浩司は実家を飛び出したのだった。
『自分を探しに行く』と言って。
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「そうか、ヒデ坊か…… お前はあいつの生まれ変わりだったのか……」
桜子から聞いた話と秀人からの伝言で、浩司は最早桜子の話を疑う余地はなかった。そもそもヒデ坊との話を知っているのは浩司だけだし、ヒデ坊自身も既に10年以上前に亡くなっていたからだ。
ヒデ坊との一件があったので、その後に楓子が幸と仲良くなったり、健斗と桜子が幼馴染になったことも、浩司の中で少し思うところはあったのだが、その事は一切誰にも話したことはない。そして秀人の母親の昌枝は認知症になってしまったし、姉の幸も浩司の事は憶えていないようなので、桜子がヒデ坊の話を知っている訳がないのだ。
「そうか…… あいつがこの先もお前を守ってくれるのか……」
桜子に聞いた秀人の謝罪の言葉は、長らく浩司の心に突き刺さっていた棘を抜いてくれた。そして浩司にとって長年の懸案事項だった桜子の『解離性同一性障害』は、実は病気ではなかったことが桜子本人の口から語られたのだ。
浩司にとっては大きな心残りだった桜子の病気と、自分亡き後に彼女を見守る存在の二つが同時に解決したことにより、胸の痞えが取れて安心したのだろうか、浩司はホッと小さな溜息を吐くとそのまま目を瞑り眠ってしまったのだった。




