第94話 歪んだ笑顔
健斗と桜子が初めてのキスをしたその夜、健斗の部屋では昨夜居残り組になってしまった三人組の強硬な意見により、再度女子部屋への潜入作戦が開始されようとしていた。
「おい、木村と宮沢とお前は今日は殿だからな。先発の強襲任務は俺たち三人に任せてもらう、いいな?」
昨夜の居残り組三名は、ホテルの見取り図を前にして異常に興奮した様子で今夜の作戦を熱く語っている。
しかし、数時間前の桜子との目眩く体験の余韻に浸っている健斗は、その時の事を思い出すだけで既にもうお腹が一杯で、今夜はもうこのまま寝てしまいたい気分だった。実際、昨夜の寝不足もあって、すでにもう眠たいのが正直なところだ。
しかもいくら修学旅行中の無礼講とは言え、さすがに二晩も続けて女子部屋に行くのは羽目を外し過ぎのような気がして、健斗と太一の両名は今作戦からの離脱を表明したのだった。
「おのれ裏切者どもめ、この作戦が成功した後には、貴様らには軍法会議が待っているものと覚悟しておけ!!」
だからお前は役に入り込みすぎだろうと思い切り突っ込みたいところなのだが、彼の昨夜の置いてけぼりの気持ちもわかるので、少し可哀そうになった健斗は彼らに適当に付き合ってやることにした。
しかし実際には作戦に参加することはなく、同室の四名が部屋から出て行った後に、健斗と太一はそのまま部屋で眠ってしまったのだ。
そして、部屋から出て行った4名はそのまま朝まで部屋に戻って来ることはなかった。
翌朝に目が覚めた健斗と太一は、同室の4人が戻って来ていないことに気付くと、もしや女子部屋で何か悪さをしているのではないかと心配になった。
彼女の姿を思い描きながら二人が慌てて廊下に出てみると、遠く廊下の端の教員部屋の前に、何か人のようなものが座っているのが見えた。
健斗たちが怪訝に思って近づいて行くとそれは同室の4人組で、『私たちは、女子の部屋に侵入しようとしたスケベ野郎です』と書かれたプラカードを持たされて、正座をさせられていた。
それまで俯いてぐったりとしていた4人組は、健斗達の姿に気が付くと全員恨みがましい目で睨んで来たのだった。
最終日は、午前中にバスで数か所観光地を巡った後に新幹線で帰る予定だ。
全ての荷物を持ってホテルのロビーに集合した健斗は、階段から降りて来る桜子と目が合ったのだが、お互いに顔を赤く染めるとすぐに視線を外しながら挨拶をした。
二人とも昨夜の事を思い出すと猛烈に恥ずかしくなって、目を合わせることが出来なかったのだ。
「お、おはよう……」
「あっ、健斗、おはよう……」
急にもじもじし始めた二人の態度を遠目に見ていた光と舞は、お互いに顔を見合わせながら何かを考えていたのだが、舞が急に掌に拳をポンと叩きつけた。
「あぁ、あの二人、昨日なにかあったのね…… これは早速聞き出してやるわよ」
「……ねぇ、マイマイ、あまり余計な事はしない方がいいんじゃないかな? あの二人はそっとしておいてあげようよ」
既に経験があった光には、二人の間に何があったのかは大凡見当がついたのだが、それを他人が詮索するのは野暮だと思い、そのまま放って置きたかった。
「……そういうあなたも、太一君となにかあったんじゃないの? 私にはわかるわよ」
「えっ? あっ、な、なにもないよ。彼とはまだキス以上は……」
そう言いながらも、光は太一と一晩添い寝したことを思い出して、急に顔を真っ赤にして俯いてしまった。その様子を見た舞は、この修学旅行中に光と太一の間には絶対に何かあった事を確信して、思わず叫んでしまったのだ。
「もう、光も桜子も修学旅行に何をしに来てるのよ!! もーっ!! 羨ましいったらありゃしないわねーーーーー!!」
色々と小さな(?)トラブルはあったが、無事に修学旅行を終えた桜子たちは、滅多に無い経験と思い出を胸に帰路に就いた。ナイトパレードの輝きに照らされながらのファーストキスというなんともロマンチックな経験は、桜子と健斗にとって、二人の秘めた思い出として長く心に留まる事だろう。
二人の未来がどうなるのか今はまだわからないが、この旅行での思い出はきっとかけがえのない一生の宝物になって、この先の人生において何度も思い出すのだろうと二人は思うのだった。
----
10月中旬。
修学旅行から帰って来て3週間が経った。
その間も健斗と桜子の関係に大きな変化は無く、肉体的接触は相変わらず手を繋ぐ程度の二人なのだが、それは意図的にそうしているのだった。
お互いに中学生という事もあり、そもそも二人きりになれる環境自体があまりなく、学校ではもちろん、それぞれの家の自室でも二人きりになる状況をお互いの親達が許さないのだ。
特に健斗は男の子ということもあり、母親の幸から散々注意されていて、彼も真面目にそれを守っている。
修学旅行の時に桜子がまた胸に抱いてくれると約束した事を、健斗は密かに期待しているのだが、そもそも二人きりになること自体が出来ないので、あれからキスをすることすらままならない状態が続いていて、桜子の胸に抱いてもらえるなどいつになるかわからない状況だ。
修学旅行以降、お互いの身体に触れ合う事は以前に比べると少し垣根が低くなった。しかしそれは精々手を繋いだり、肩を寄せたり抱いたりする程度で、それ以上の事を桜子はしようとしないのだ。それは決してそれ以上の事を彼女が望んでいないわけではなく、過度の触れ合いは健斗に色々と我慢を強いることになるので、彼を気の毒に思う桜子は敢えて自重しているからだ。
実際に健斗は、浴衣を着崩れさせたあの晩の桜子の姿を思い出すと思わず興奮してしまうので、これ以上の刺激はあまり良くないのだろう。
それにしても、健斗を胸に抱くと言うのも彼にとっては相当興奮する状況だと思うのだが、その行為は桜子の中では母親が赤ん坊を抱くように、あくまでも愛情表現の一種であると思っているようなのだ。
事実、あの時の健斗は、まるで母親の胸に抱かれているかのような安心しきった顔をしていた。
最近はそんな状況が続いている事もあり、健斗は悶々とした日々を過ごしている。
----
10月下旬。
退院してからずっと元気だった浩司だが、最近は食事が喉を通らなくなってきた。
それでも小林家の習慣として家族で揃って食事をするようにしているのだが、食欲自体が減退した浩司は、ほんの2、3口食べただけでもう満腹だと言って笑っている。
家族を心配させないように無理して笑顔を作っているのは明らかなのに、家族の誰もそれに気付かない振りをしていた。
一度に少量しか食事をとることが出来なくなった代わりに、3、4時間おきに空腹を訴えるようになり、夜中でも冷蔵庫から好きな物を少量出して食べている。
そんな生活を続けていたので、7月の終わりに退院してからだいぶ戻りつつあった浩司の体重も徐々に減り始め、今では退院直後に近い状態にまで体重が減っていた。
いつもの夕食時、食事を2口で終わった浩司が、対面にいる桜子の様子を微笑みながら眺めていたのだが、その視線を必死に気付かない振りをしていた桜子が、堪え切れずに途中でぽろぽろと涙を零し始めた。
「桜子、食事はにこやかに食べるものだよ。泣きながら食べたら、料理を作ってくれた人に申し訳ないだろう?」
桜子は顔を上げることが出来ずに、零れた涙がテーブルクロスに染みを作っていく。
「ほら、顔を上げて、可愛い顔を見せてごらん」
「う…… ひっく…… う、うん」
桜子が涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げると、浩司はにっこりと笑いながら語り掛けた。
「ほら、今日の料理も美味しいだろう? だから笑って食べなきゃだめだよ。さぁ、笑って。美味しいかい?」
「う、うん……」
桜子は何とか笑顔を作ったのだが、その顔は歪んでいる。
彼女は父親の最後の日までずっと笑っている事を誓ったのだが、その約束も最近は守れないことが多くなってきていた。
「そうか、それはよかった」
浩司は最愛の娘の顔を見つめると、にっこりと笑った。
その顔は以前のような男らしい顔では無く、どこか儚げな少女のような笑みだった。
その数日後、浩司は立って歩くことが出来なくなった。
----
11月上旬。
遂に病魔が脊髄を侵し始めて、下半身の自由が利かなくなった浩司は立って歩くことが出来なくなった。それでも必死に起き上がろうとする浩司の姿には、筋肉質な身体であんなに力強かった父親の面影は、最早ほとんど残っていない。
桜子は約束を果たすために父の前では笑っていようと心掛けたのだが、その笑顔は歪んでいて今にも涙が零れそうな顔しか作ることが出来ないのだ。それでも彼女の顔を見ると、「いつも笑顔でありがとう」と言って浩司は笑ってくれる。
そしてそんな二人の姿を陰から見ていた楓子は、堪え切れずに涙を流していた。
11月中旬。
遂に浩司が体に痛みを訴え始めた。
既に身体中に広がった悪性リンパ腫は全身の神経をも侵し初めて、昼夜を問わず耐えがたい苦痛を浩司にもたらしている。
浩司は急遽病院に入院して痛み止めの処方をしたのだが、容体が落ち着くとどうしても自宅に帰りたがった。
「どうせもう長くないのなら、せめて生まれ育った我が家に帰りたいよ。そこにはいつもお前も、桜子も、お袋もいるからな」
浩司の口調は、以前元気だった頃のように軽口めいたものなのだが、その言葉を絞り出す夫のやせ細って頬骨の目立つ顔を見ていた楓子はその姿がとても不憫に見えて、どうしてもその願いを叶えてあげたくなった。
楓子が医師に相談すると「ペインクリニック」を紹介された。
ペインクリニックとは痛みを取り除くことを専門とする診療機関で、末期がん患者などの終末期医療では欠かす事の出来ないところだ。
浩司の場合も、このまま自宅で最期を迎えるためには絶え間なく襲う痛みの対処が必要になるので、まずはそこを受診することを勧められた。
ペインクリニックに相談すると、週に1回、自宅に麻酔科専門医が痛みの処方をするために往診に来てくれることになった。
最初は半信半疑だったのだが、実際に処方をしてもらうとその効果はてきめんで、それ以降浩司が痛みを訴えることは無くなり、その顔にはまた笑顔が戻ってきた。
それ以降、楓子を初め家族全員で浩司の介護を行いながら、彼が最期を迎える準備をするのだった。




