第92話 彼の魅力的な提案
修学旅行二日目。
今日の午前中は、都内をグループごとに自由行動して、午後からは国民的アイドルネズミキャラクターのテーマパーク、「ネズミーランド」で半日学ぶ予定だ。
テーマパーク内の「ネズミーアカデミー」で接客の極意や顧客サービスの基本を学んで、その後の残った時間は集合時間まで自由時間になっている。
昨夜は突然轟いた桜子の悲鳴によって真夜中の教師の見回りが強化されたため、健斗達男子三名は自分の部屋に戻る事が出来なくなった。午前5時を過ぎて太陽が昇り辺りが明るくなった頃に、ようやく教師の監視網が解除されたのだった。
女子部屋から出てきた事を見つからないようにキョロキョロと周りを伺いながら、まるで忍者のような忍び足で自分の部屋までたどり着いた3人がホッと安堵の溜息を吐いていると、待ち構えていた居残り3人組に掴まって尋問を受けるはめになってしまった。
「おまえら…… こんな時間まで女子部屋で何してたんだよ…… くそぅ、めちゃくちゃうらやましいぞ、この野郎!!」
健斗たちは、嫉妬が溢れた居残り組の表情を見ていると、まさか「女子と一緒の布団で寝てました」などとは口が裂けても言えなかった。
3人がなんと答えたらいいのか解らなくて口籠っていると、居残り組の一人が何かに気が付いて、健斗たちを指差してくる。
「おい、お前ら二人、頬に手形が付いているけど……」
「えっ?」
「あっ?」
その指摘に健斗と男子が同時に声を上げて、慌てて鏡で顔を見てみると、二人の左頬にはそれぞれ大きな赤い手形が付いていた。ふと思い返すと、それらは間違いなく桜子と楓に付けられたものに違いない。
健斗が何気にその場面を思い出していると、昨夜の浴衣を着崩れしたあられもない桜子の姿が浮かんできて思わず鼻水が出そうになった。
健斗にとっては何かと大変な夜だったが、見たことのない艶めかしい桜子の姿を拝めたうえに、彼女の柔らかい胸に顔を埋めるという初めての経験が出来たので、それだけで十分に満足だった。
「……よ、よぅ、今日はよろしく」
「う、うん、こちらこそ……」
制服に着替えた健斗が正面玄関に集合すると、そこには既に桜子たちのグループが集まっていて、健斗と桜子はお互いの顔を見ると顔を真っ赤にして急にモジモジし始めた。
昨夜からのどこか箍が外れた異常に高いテンションのおかげで、今朝桜子は深く考えずに健斗を胸に抱きしめてしまったのだが、冷静に考えるとなんと破廉恥な事をしたものだろうかと、猛烈に恥ずかしくなっていた。
そしてそれは健斗も同じで、きちんと制服を着込んだ清楚な姿に、昨夜の艶めかしく気崩れた彼女の姿を重ねてしまい、そのギャップに朝から興奮しそうになるのだった。
それにしても、健斗とはまだキスもしていないのに、いきなり胸に抱きしめられて彼はどう思っているのだろう。もしかして自分の事をいやらしいと軽蔑していないだろうか。
しかし、楓が言っていたように、普段の健斗が色々と我慢しているのなら、もしかしてあれを喜んでくれているのかもしれない、などと桜子は思い悩んでいた。
「あ、あのね…… 今朝はごめんね。いきなり抱きしめてびっくりしたでしょ?」
「い、いや、大丈夫…… むしろ嬉しかったというか、気持ち良かったというか……」
何かあっても健斗は桜子に『大丈夫』と言うのが常なので、彼が本当にそう思っているのか疑わしかった。
そう思った桜子がチラリと彼の顔を見たのだが、手形の目立つ頬を赤く染めて照れているのが見えたので、桜子には健斗が本当に気にしていないことが分かった。
「あ、あのさ…… お願いがあるんだ」
桜子が内心ホッとしていると、健斗が照れた顔のまま言い難そうに口を開いた。健人が桜子に何か頼み事をしてくるのは珍しいことなので、何事かと思った彼女は真剣な顔をして健斗が口を開くのを待っている。
「こ、今度また同じようにして欲しい…… あっ、嫌だったら無理にとは言わないけど……」
健斗の囁くような言葉を聞いた桜子は、お安い御用とばかりにその大きな胸をパシンと叩くと、彼に向かってはっきりと答えた。
「うん、いいよ!! いつでもオッケーだよ!!」
午前中は深草寺できび団子を食べたり、クサイツリーで抹茶ぜんざいを食べたりして、桜子は自由行動を満喫しているのだが、行く先々でひたすら食べ続ける桜子を見た友人達は、皆呆れていた。
桜子が細い体に似合わずに実は大食いだと言う事実は、彼女の近しい友人達には有名なのだが、実際にひたすら食べ続ける桜子の姿を初めて見た楓には驚きだった。
「このほっそい身体の、どこにあんなに食べ物が入るのかしらねぇ……」
いまも満面の笑みで、地元名物『ももんじゃ焼き』をつついている桜子を眺めながら、胸やけを起こしたような顔で楓が溜息を吐いていると、光が当たり前のように答えた。
「そんなの、あのでっかいおっぱいに決まってるでしょ!!」
それからしばらくの間、桜子の胸は胃袋で出来ているという噂が流れた。
光と太一のカップルは今朝の集合時からずっと仲良く手を繋いでいて、その仲睦まじい様子から二人の距離感は昨日までとは少し違うように見えた。思えば今朝に健斗が太一を起こそうとした時に太一は光の胸に顔を埋めて寝ていて、光はそんな彼の頭を抱きしめるようにして眠っていた。
昨夜の二人の間には何も如何わしい事は無かったのだが、肌を触れ合って一緒に眠るという経験が二人の間の幾つかの垣根を取り払う事になったのは間違いなかった。
それにしても、人目も憚らずに頬を赤く染めてお互いにジッと見つめ合うのは、少し自重していただきたいとその場の全員が思うのだった。
昼食を終えた後に、午後からの予定のネズミーランドに移動を開始した時だった。
ももんじゃ焼き屋で昼食を終えた後にトイレに寄った桜子が、一人だけ遅れて店から出て来ると、一人の男性が彼女に近付いて来て桜子の前で立ち止まった。
「こんにちは。僕、こういう者なんだけど、きみはアイドルとか歌手とかに興味はないかい?」
突然目の前に現れた男の姿に驚きながら、桜子は差し出されたカード状の物に書かれた文字を素早く読み取った。それはどうやら名刺のようで、そこには芸能プロダクションらしき会社の名前と、肩書、そして『宇佐美夏樹』と書かれている。
「やぁ、きみ、とっても可愛いね。日本語は大丈夫かな?」
そう言いながら、男が桜子の胸の名札に素早く目を走らせたのに桜子は気が付いた。
桜子はこの男に面倒事の匂いを嗅ぎ取ると、いつものウクライナ語で返答しようとしたのだが、中学校の制服を着て胸元に『小林』と書かれた名札を付けた少女がウクライナ語を話すのもおかしいだろうと思い、普通に返答することにした。
「はい、何か御用ですか?」
「やぁ、キミは小林さんか。もしかして、ハーフなのかな? 日本語上手だね」
見てくれはこんなだが、日本で生まれて日本で育った生粋の日本人なのだ、日本語が上手くて当たり前ではないかと心の中で密かに思うのだが、無駄に相手を刺激すると余計に面倒臭くなることを知っている桜子は、無難に返事をすることにした。
「なんでしょうか? いまは修学旅行の移動中なので時間が無いのですが…… 」
「ごめんごめん、すぐに済むからね。僕はこの通りアイドルの卵を探している芸能プロダクションのスカウトなんだ」
そう言うと宇佐美は差し出した名刺を桜子に押し付けながら、さらに質問を続けてくる。その目は桜子の全身を舐めるように見つめていて、まるで品定めをしているようだ。
桜子の容姿は、宇佐美が今まで見た少女の中でも、ぶっちぎりで一番の美少女だった。
世に多数の外国人タレントは存在するが、本物の外国人では言葉の壁のせいで何かと使い辛いのだ。しかし、見た目が白人美少女で日本語が流暢であればタレントとして使いやすいので、人気が出るのは間違いないだろう。
色々と打算めいた事を考えながら宇佐美は改めて桜子の容姿を確認した。
全体に緩くウェーブのかかった白に近い金色の髪と真っ白な肌。
長い睫毛に彩られた、透き通るように青い垂れ目がちな大きな瞳。
スッと筋の通った小さく尖った鼻と、薄く紅の入った小さな唇。
それらが完璧なバランスで配置されたその顔は、まるで天使のように可愛らしい。
そして顔が小さくて頭身が高く、手足の長いスラっとした体形と、絶妙なバランスの大きな胸。
特にその中学生離れした大きな胸は、それだけで世間には十分な話題を提供できるだろう。
さらに全身から溢れる透明感と清楚さは、実際に目の前で対峙している宇佐美でさえ思わず溜息が出るほどで、この少女が少しずつ大人になって行く過程を見てみたいと思わせるのだ。
化粧気の無い素の状態でこの愛らしさなのだから、これで少し化粧をして着飾ればどれほどのものになるかを想像すると興奮が冷めやらなかった。
宇佐美はアイドルのスカウトにもう10年以上携わってきたが、これほどまでに完璧な顔とスタイルの少女に出会ったことはなかった。もうこれは奇跡の確率としか言いようのない出会いで、もしもこの機会を逃せば、この先これ以上の少女には出会えないかもしれない。
宇佐美がそんな事を考えながら桜子の容姿を品定めしていると、その様子を見ていた彼女の様子が徐々に変わって来た。
不思議に思った宇佐美が何か話しかけようとして一歩近付くと、彼女の目には戸惑いと恐れのような感情が浮かび上がり、明らかに宇佐美の事を怖がっているように見える。
「どうしたの? 別に取って食おうっていう訳じゃないから、そんなに怖がらなくても大丈夫だよ?」
「えっ、あっ、その……」
特に怖がらせようとした訳でもないのに、自分の事を異常に恐れる金髪美少女を不思議に思った宇佐美は、ふと震える彼女の手を取ると優しく声を掛けたのだが、それを合図にしたかのように、彼女はその場に蹲ってしまった。
その全身は小刻みに震えていて、とてもこのまま一人にしておく事が出来ないほどだ。
「本当に大丈夫かい? どこか具合でも悪いの? 病院に行こうか?」
「いやぁー…… 怖い怖い怖い…… ゆるして…… お願い……」
「大丈夫? 立てるかい?」
宇佐美が蹲る桜子の肩に手を置いてゆっくりと立ち上がらせようとした。すると急に身体の震えが止まり、桜子は緩やかに顔を上にあげた。
「ねぇ、私に触らないで。スカウトだかなんだか知らないけど、私そう言うの興味ないから、あっちへ行って」
「えっ?」
宇佐美が突然豹変した桜子の様子に戸惑った表情を浮かべていると、桜子はなおも話し続けた。その口調はさらに鋭さをましている。
「早くどこかへ行けって言ってるでしょう!? ぶち殺しますわよ!!」
「桜子どうした、大丈夫か!? おい、おっさん!! 桜子になにしてる!!」
いきなり宇佐美と桜子の間に立ち塞がる影があった。
それは慌てた様子で両手を広げて、必死に桜子を庇おうとする健斗だったのだが、その必死の形相はまるで宇佐美が桜子を拐かそうとしているように見えるほどの鬼気迫る表情だった。
さすがの宇佐美もこの状況を誤解されて通報されようものなら完全にアウトだと思ったので、慌てて健斗に事情を説明したのだが、『桜子はそう言うのは興味がないからもう行って欲しい』の一点張りだった。
仕方なく宇佐美はこの場を諦めて退散したのだが、桜子の制服の名札から中学校名と名前はわかっているので、今日のところはそれを収穫にすることにしたのだった。
「桜子、大丈夫か? また例の発作なんだろう? ごめんな、目を離してしまって」
「ううん、大丈夫、俺は全然平気だから、もう大丈夫だわよ」
「……?」
桜子の話し方に違和感を感じた健斗は、その原因を探ろうとジッと彼女の顔を見つめたのだが、桜子も負けじと見つめ返して来て、急にバチっとウィンクをしてきた。
そのとても『あざと可愛い』様子に思わず頬を染めた健斗だったのだが、それを見てニヤニヤ笑っている桜子の顔を見返した瞬間、健斗はハッと気が付いた。
「お、おまえ…… もしかして……」
「ふふん、ばれたか。そうだよ、俺だよ。……それにしてもお前のその反応どうにかならないのか? 童貞感丸出しだぞ?」
桜子、いや、秀人の指摘に健斗は唇を噛むと顔を横に向けて悔しそうな顔をしている。
「く、くそ…… うるさいな…… それよりも、桜子…… でいいのか? なんて呼べばいい?」
「桜子でかまわないぞ、正直どうでもいいけどな。それよりもこの状況はちょっとまずいな、しばらくこいつは目を覚まさないと思うぞ」
「えっ? それは……」
「例の『男性恐怖症』だよ。久しぶりに発症しやがったな。こいつは今でも俺の中で気を失ったままだ」
「……それはちょっとマズイんじゃ……」
健斗が思わず深刻な顔をすると、秀人はフンっと短い鼻息を吐いてからニヤリと笑って続けた。健斗はその顔を見て『鼻息を吐く桜子も可愛いな』と密かに思った。
「大丈夫だ、夜までには元に戻れるだろうよ。それまでは俺がこいつの振りをして、お前とデートしてやる。安心しろ」
「デ、デート……」
秀人の提案に露骨に嫌な顔をした健斗だが、またも秀人にフンっと鼻息を吐かれると大人しくなった。
「まぁ、いいじゃねぇか、俺もだいぶこいつの真似が上手くなったしな…… あっ、そうだ、なんなら、また胸に抱いてやろうか? 知ってるぞ、お前こいつの乳を触りたいんだろう? ふふん?」
「ななな、な、なに言ってんだよ、そ、そんなことある訳ないだろ!! いいだろう、わかったよ。みんなの前では口調に気を付けてくれよな、絶対にバレんなよ!!」
まるで心の中を見透かされたように感じて慌てて健斗は言い返したのだが、正直少し、いや、かなり秀人の提案を魅力的に感じていた。




