第89話 風呂上がりの彼女
9月中旬。
小林家では、浩司の体調がかなり以前に近い状態にまで戻って来ていて、酒の配達も全て浩司一人でできるようになった。今では抗がん剤で治療をしていた頃よりもよっぽど体調も良く、最近は普通の量の食事もできるようになったので、かなりふっくらと肉付きも良くなっている。
それでも月に一回の検査では、すでに治療をするという話にはならない程にリンパ腫は進行していて、いずれ近いうちに体に痛みが出て来るだろうと言われている。しかし浩司は出来る限り今の普通の生活をすることを望んでいるので、家族もあまり病気の事を思い出すようなことは言わないようにしていた。
桜子が来週から修学旅行に出かけると聞くと、へそくりの一万円札を数枚持ち出して、桜子に小遣いだと言って渡そうとしたのだが、楓子にそれは多すぎると言って断られていた。
それならば、旅行で着る服を買えと言い出したのだが、移動や見学中は常に制服だし、夜の寝間着はホテルに備え付けの浴衣か学校指定のジャージなので、残念ながら私服の出番はないのだ。
それでも桜子は、浩司の好意を素直に受け取ると、その足で普段着を数着買いに行ったのだった。
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9月下旬。
待ちに待った修学旅行が始まる。
旅行に先立って、同じ部屋に宿泊したり自由行動の際のグループ分けをしたのだが、桜子は女子の間で引っ張りだこだった。桜子の飛び抜けた容姿と学校のアイドル的存在である事実は、得てして同じ女子達の反感を買うことになるのだが、彼女に関してはそのような事は無く、むしろ逆なのだ。
それは桜子の人柄や性格が大きな要因を占めていて、彼女は自分の優れた容姿を鼻に掛けるようなことは一切しなかった。
いや、しない、と言うと語弊があって、正確に言うと桜子は自分の美貌を正確に理解していないので、容姿の自慢をするはずも無いのだ。確かに人より少し整った顔をしているという認識はあるのだが、わざわざ人に自慢にするほどだとは思っていない。
彼女の明るく朗らかで優しく話しやすい性格は、男女を問わず人を引き付けるものだ。これは桜子が生まれつき持っている才能と言えるのだが、どんな相手でも魅了してすぐに仲良くなれる天然の人たらしの才能を持っているのだ。
桜子は普段から仲のいい田村光とはもちろん、その他のメンバーもクラスの中で比較的仲のいい4人と同じグループになった。
光がその事を彼氏の宮沢太一に伝えると、太一は同じクラスの健斗と同じグループになって、旅行中の自由行動の日は1組の桜子たちのグループと2組の太一たちのグループで一緒に行動することを提案してきた。
光が桜子も含めて他のメンバーに承諾を求めると、まるでグループデートのようで楽しそうだと即座に話がまとまった。そしてそれを見ていた他のグループも桜子たちの真似をして、他のクラスでも男女のグループが合同で自由行動をするのが流行ったのだ。
彼らは全員受験生なので、普段の息苦しい受験戦争を一時忘れて、修学旅行の時くらいはグループデートのような雰囲気を息抜きとして楽しみたいと思ったのだろう。
旅行先はこの国の首都で、国会議事堂やこの国で一番背が高い建物のクサイツリーなどを見学しての2泊3日の日程だ。
もちろん2日目の自由行動はあの有名な国民的ネズミアイドルのテーマパーク、『ネズミーランド』で、桜子も健斗も一度も行ったことがないので、いまからとても楽しみにしている。
朝6時に小林家に迎えに来るはずの健斗が寝坊して遅刻して来たり、慌てて出発した桜子がトイレサンダルのままだったりと、小さなハプニングはあったが、概ね順調に出発することが出来た。
全員で新幹線に乗り込むと、約3時間ほどの移動時間兼自由時間となった。
女子中学生が自由な時間にすることと言えば、それは「おしゃべり」しかなく、辺り一面に黄色い笑い声が木霊して騒がしい事この上ない。
「ねぇ、小林さんは何が一番楽しみ?」
「うーんとね、あたしは本場のももんじゃ焼きが食べてみたいな」
「行ってみたい所は?」
「そうだね、やっぱり深草寺かな。きび団子が美味しいらしいよ」
「……あとは?」
「クサイツリーで抹茶ぜんざいが食べたいな」
「……さっきから食べる事ばかりじゃない……?」
同級生の女子が半ば呆れ気味に桜子の様子を見ているのだが、彼女は青い瞳をキラキラと輝かせながらまだ見ぬグルメに想いを巡らせていて、すでに心はここには無いようだ。
そんな桜子の姿を見ながら、同級生の女子は溜息を吐いている。
「……この子、本気で言ってるよ……」
それを聞いていた光が桜子の後ろの席から顔を出すと、いきなり桜子の胸を鷲掴みにした。
「その位たくさん食べないと、こんな立派なおっぱいにはならないってことでしょう? うりゃうりゃー」
「ひゃーーー、やめ、やめーー、くすぐったいよ、やめてーー、あはははは」
突然胸を後ろから鷲掴みにされて、桜子は思わず叫んでいる。本気でくすぐったいらしく、少し垂れ目の瞳の隅には涙が溜まっていた。
「いやだ、やめないよー、こんなにけしからん胸をしおってからにーー、うりゃうりゃー」
旅行の非日常感のせいなのか、いつもとはテンションの違う光が尚もふざけて桜子の胸を揉んでいると、彼女の様子が少し変わって来た。
「あははは…… あはぁ……」
それまでゲラゲラと笑っていた桜子の様子が急に変わると、次第に変な声を出し始めたので、光が慌てて彼女の顔を見たのだが、桜子は頬が上気したように赤くなっている。
「た、田村はん、これは本当にあかんやつや…… もうやめたほうがええ……」
なぜそんな喋り方なのかは知らないが、とにかく向かいの席の女子が光の事を止めたので、彼女は慌てて桜子の胸から手を離したのだが、その後も桜子は暫くの間目をとろんとさせて、頬の赤味もそのままだった。
そんな桜子の様子を見ていた男子達は、今まで見たことも無いような彼女の煽情的な表情に胸をドキュンと射抜かれていたのだが、もしかすると彼女のそんな表情をすでに独り占めしているかもしれない2組の木村は、とんでもなくうらやまけしからん奴という事で、本人の知らない所で健斗は新たな敵を作る事になるのだった。
昼前に下野駅に着いてから、江呂博物館やベイエリアを見学して、夕方には有名なミュージカル「リトルマーマン」を鑑賞してからホテルに到着した。
早速夕食も済ませて、これからは嬉し恥ずかし入浴タイムとなるのだ。
今回も桜子は皆と一緒の風呂に入ることに難色を示して、挙句にはホテルの部屋に備え付けのユニットバスに一人で入ると言い出したのだが、同室の仲間達と光に説得されると渋々大浴場に入ることに同意した。
現在の桜子は昨年の宿泊研修の時よりも更に胸が大きくなっていて、恐らく今の学年では一番の巨乳と言っても過言ではなく、4組の東海林舞が惜しくも次点と言ったところだ。
そして、桜子は体格自体が非常に細身で華奢なので、もしも「トップとアンダーの差選手権」などと言うものがあったら、ぶっちぎりで優勝して殿堂入りも確実の勢いだ。
そんな訳で、学年一の生巨乳を拝める機会など滅多に無い事もあり、桜子が脱衣所で着替えを始めると脱衣所中の女子にガン見されて、まさに「公開脱衣ショー」さながらの状況になるのは最早避けられないのだが、それでも桜子は堂々と自慢の胸を見せびらかす事など出来るはずも無く、隅っこでコソコソと着替えて恥ずかしがっているのだった。
そして、最近の桜子には少し悩みがあったのだ。
以前から全身が毛深い事を密かに悩んでいたのだが、中でも背中の中央に生えている産毛がまるで鬣のようになっていて、どんなに剃刀で剃ってもすぐに濃くなるのだ。
場所が場所だけに自分で剃ることも出来ないため、いつもは楓子に剃って貰っているのだが、夏も終わって背中を見せるような服装をしなくなったおかげで、油断してムダ毛を剃ることを忘れていたのだ。
それを思い出したのが、この脱衣所で服を脱ぎ始めたタイミングだったので、まさに手遅れと言ったところだ。
それでも桜子が数十の視線に晒されながらもコソコソと服を脱いでタオルを体に巻いていると、多くの羨望の溜息が聞こえてくると同時に、皆桜子の背中の鬣に気付いている様子が伺えた。しかしさすがにそれを口に出してくる者もおらず、暗黙の了解のもと、皆見て見ない振りをしている。
そしてこの時の、桜子の背中が少し毛深かったという話が独り歩きして、いつの間にか「桜子はぼーぼー」と言う噂になったのはまた別の話だ。
ただ風呂に入るだけでも色々と大変な桜子だったが、さすがに大浴場の解放感は素晴らしく、少し長い時間露天風呂に浸かっていた。
風呂から上がった桜子は、浴衣に着替えると手ぬぐいを頬に当てながら静々と自分の部屋に向かって歩いていたのだが、途中の廊下で健斗たち男子グループと遭遇した。
最初、廊下の向こうから健斗が桜子に気付いて手を上げて合図をしてきたのだが、段々と桜子が健斗に近付いて行くと、健斗が桜子を見つめながら顔を赤くしているのに気が付いた。
その時の桜子は、露天風呂に長い時間浸かっていたせいで顔が赤く上気していて、しっとりと濡れた金色の髪は彼女の横顔に艶めかしく流れていた。
そして、ゆったりとしているはずの浴衣は胸の部分だけが大きく張り出していて、浴衣の合わせ目からチラリと見えた真っ白な太ももと頬にあてられた手ぬぐいが、普段の清楚な桜子とは少し違うように見せていた。
「お疲れ様。健斗はこれからお風呂なの?」
「あ、あぁ、そうなんだ。順番があってさ」
「あっ、そうだよね。そうだ、明日の自由行動、一緒によろしくね」
「こちらこそ、よろしくな」
健斗の友人が隣で待っているので、桜子は簡単な会話をしただけですぐにその場から去って行ったのだが、去り際に何度も健斗の方を振り返ってニコニコと笑いながら白い手を振っている彼女の姿が廊下の曲がり角に消えて行くまで、健斗は少しぼーっとした顔で眺めていた。
「……風呂上がりの小林、なんか色っぽかったな……」
「あぁ、今まで制服姿しか見た事無かったけど、あいつ、あんな一面もあるんだな……」
「なんかすごい破壊力だったな、あの胸……」
「それを独り占めしているヤツは…… お前か!!」
いきなりその場の全員に睨みつけられてハッと我に返った健斗は、その場で180度回頭すると、風呂まで猛ダッシュで逃げていった。
23時。
消灯時間。
最近の中学生は塾から帰って来るのが21時過ぎと言うのが当たり前で、23時に寝るなど出来る訳もないだが、それ以前に友達みんなと一緒に旅行という非日常感でテンションが上がりまくった生徒たちは、もちろん朝までオールする気満々だ。
そして当然のように、桜子たちの部屋でもパジャマパーティならぬ浴衣パーティが始まった。




