第88話 二人きりの受験勉強
少し下品かもしれません。苦手な方はご注意下さい。
8月下旬。
水泳部の夏の大会が終わった。
桜子は水泳部の夏の大会には出場しなかったのだが、応援には顔を出していた。
桜子の後輩で2年生の坂田は、桜子と同じ背泳ぎの選手なのだが、4月からずっと練習に参加できなかった桜子の代わりに今大会に出場していた。
彼女は順調に決勝まで駒を進めて最終的に4位で終わったのだが、3位の選手とはたったの0.1秒差で表彰台を逃したので、彼女はとても悔しがって来年は絶対に表彰台に上ると息巻いている。
桜子が入部するまでは、県大会に出場すらした事の無いような弱小部だったのだが、彼女の持ち込んだ練習メニューやノウハウのおかげで、ついにここまでの成績を残せるようになっていたのだ。
来年の大会に賭ける意気込みを仲間内で熱く語る後輩たちの姿を、桜子は離れた所から少し寂しそうに見つめている。そんな桜子の様子に気付いた根竜川は、彼女の肩を優しく叩くと「3年間ありがとう。ご苦労さんだったな」と労いの言葉を掛けてきたのだが、桜子はその言葉に水泳部の引退を現実のものとして受け止めていた。
9月上旬。
2学期が始まった。
約一ヵ月ぶりに会うクラスメイト達は、日に焼けて真っ黒だったり、髪型が変わっていたりと色々な変化が感じられる。そして桜子の親しい友人の中では田村光も夏休み明けの雰囲気が少し変わった一人だった。
最近の光は背が少し伸びて、出るところも出て来ている。もっとも背が伸びたと言っても精々145センチほどしか無いのだが、それ以上に胸と腰回りが女性らしい丸みを帯びてきていた。
「わたしなんて『つるぺた』だから、マイマイや桜子ちゃんが羨ましいんだよ」
「『ぺた』はわかるけど、こうちゃん、あなた『つる』じゃないでしょ、『ぼーぼー』でしょ」
「ぼーぼー言うな!! そんなに毛深くないわい!!」
「……毛深い…… はぁ……」
毛深いと言われて何か思うところがあるのか、桜子は密かに小さな溜息を吐いたのだが、そう言いながら桜子の大きな胸を見つめて羨ましそうにしている光を見ると、彼女は疑問に思って普段感じている事を正直に話してみた。
「胸が大きいと肩が凝るし、走ると痛いし、可愛いブラジャーも無いし、男子の視線をいつも感じるし良い事なんて何もないけど…… あたしなんて水泳の種目を変更する羽目にもなったしね」
「胸が大きい人にもそれぞれ悩みはあると思うけど、やっぱり胸の大きさは死活問題なんだよ」
「えっ? なぁに、それ?」
「だって、太一君のためにもっと大きくしたいし……」
「えっ、太一君のためって…… あなたもしかして、太一君にもう……」
光のその発言に舞が速攻で食い付いて来た。その瞳は爛々と輝いていて、さらに詳しく話せとその表情が催促している。やはりこの手の話題が好物なのは変わっていないようだ。
好奇心に満ちた舞の表情を見た光は「しまった」とばかりに口に手を当てると、そのまま後ずさりをして逃げようとしているのだが、舞の表情を見るとこのまま逃がすつもりは毛頭無いらしい。
「こうちゃん…… 逃がさないわよ。そこまで言ったからには、全部話してもらうから」
「えっ、あっ、その……」
獲物を見つけた猛禽類のような鋭い目つきで後退る光を見つめる舞の顔には、趣味の悪い笑いが張り付いている。
「ふふん、ひと夏のアバンチュールかしら、羨ましい限りだわ…… さぁ、吐きなさい、ひとつ残らず吐いてしまいなさい!!」
舞の追及に、光は顔を真っ赤にしながら口をパクパクしていたのだが、直後に目を強く瞑ると、大きな声で叫びながら逃げて行った。
「そんな恥ずかしい事言えないよーーー!!」
数日後、放課後に3人で一緒に帰っていると、またもや舞が光を追求し始めた。
舞はもともとこの手の話が大好物で一度食い付くと中々離れない。
彼女は女性の桜子から見ても、すらりと背が高くて目鼻立ちも整ったとても美しい容姿と女性的で豊満な体形をしているので男子にとてもモテそうなのだが、不思議と浮いた話は聞かない。
不思議に思った桜子がそれを光に聞いたことがあったのだが、彼女の答えは「性格がおかしいからじゃない?」という身も蓋も無いものだった。
しかし桜子は知っていた。
舞の家は母子家庭でいつも母親が仕事で家にいないので、まだ幼い弟と妹の面倒を母親の代わりに見ているのだ。放課後は毎日保育園のお迎えがあるので部活に入ることも出来ず、その後も夕食の準備や家事などでほとんど自分の時間は無い。
また、母親の仕事が不定休なので、保育園が休みの土日も一日中弟と妹の世話で終わってしまい、休日も何処へも出かけられない事が多いのだ。
だから、もしかすると彼女が人の噂話や色恋事の話題を好むのは、普段の抑圧された生活の反動なのではないかと桜子は思っている。
確かに舞は少し派手目な外見や少し高飛車な話し方から色々と誤解を生みやすいのだが、実際の彼女はとても家庭的で地味な女性なのだ。
そして最近は、自分が異性と付き合う事を諦めているようで、あまり自分から男子の話などはしないのだが、その代わりに人の恋愛話を聞きたがる。
「いいじゃない、教えてよ、お願い」
光が頑なに話すことを拒んでいると、舞は今度は泣き落としを始めたようで、少し釣り目がちな瞳をうるうるとさせると、両手を合わせて拝むような姿勢で光を上目遣いに見ている。
そんな舞の様子を見た光は、しょうがないと言わんばかりに溜息を吐きながら、最近の太一との関係を話し始めた。
夏休みに入ってから、同じ吹奏楽部の光と太一は週に3回の部活の練習に一緒に参加していて、昼過ぎに練習が終わると夕方まで一緒に図書室で受験勉強をする生活を続けていた。
しばらくそんな事を続けていたある日、突然太一が部活後の勉強を光の家でしたいと言ってきたのだ。光の家は学校から歩いて10分程の所にあり、太一の家に帰る途中でもあるので、その時の光は深く考えずに了解の意思を示した。
しかしよく考えると、両親共働きの光の家は日中は誰もいないので、必然的に太一と二人きりになってしまう事に光は気付いたのだ。しかし一度了承した手前いまさら嫌だとも言えずに、その日は太一を誰もいない自宅へ上げたのだが、太一は大人しく勉強しているだけで、光が密かに恐れていたことは何も起こらなかった。
自宅での勉強は快適だった。
連日うだるような暑さの中、ハンカチで汗を拭きながら図書館で勉強をしているのに比べると、エアコンの効いた自宅のリビングのなんと快適な事か。それに、勉強しながらジュースもお菓子も自由に食べられるのだ、勉強するのにこんなに最適な場所はなかった。
それに太一も真面目に勉強に取り組んでいて、何かおかしなことをしてくる気配も無かったので、それ以降、部活後の勉強は光の家でするようになった。
そんな生活を続けて2週間が経った頃、今日も二人は田村家のリビングで勉強をしていて、今は休憩中に二人でお菓子を食べながら雑談をしていた。
「それでね、梨沙ちゃんが言ったんだって、まだ早いって」
「…… ふーん。でも付き合って半年以上経ってたんでしょ?」
「そう、半年以上経ったのに、まだキスも許さないんだって。まだ中学生だからって」
「…… そうかぁ、でも、俺たちはもう1年以上経ってるけど……」
それまでニコニコと笑顔で会話を楽しんでいた光は、そんな太一の呟きを聞くと急に何かを思い出したように黙り込んで脚をモジモジし始めた。
そう言えば自分達が付き合い始めたのは去年のバレンタインデーからだから、もう1年半以上になるのだ。その間、デートの別れ際にお互いの頬や額に時々キスをするようにもなったが、それ以上の関係にはなっていない。光がそれで満足していたというのもあるのだが、そもそも太一がそれ以上を望んでこなかったからだ。
太一が光の家で勉強がしたいと言い出した時、二人きりになった時に彼が何かして来るかと思って少し恐れたのだが、結局そんな素振りは微塵も見せなかった。
もちろん何かされるのが嫌だという訳では無いし、光としても色々と興味が無くはないのだが、やはり乙女としては色々と準備や覚悟と言うものが必要で、そんなに急に迫られてもすぐには応えられない場合もあるのだ。
「……そうだよね。わたしたちももう一年半付き合ってるけど……」
光が座っている絨毯の模様を指でなぞりながら伏し目がちに言いかけると、それまで黙っていた太一が何か覚悟を決めたような表情で口を開いた。
「光ちゃん…… キスしていい?」
「えっ……?」
緊張した面持ちの太一は、光の答えを待つことも無くガクガクとぎこちない動作で光の横に移動してくると、光の肩に自身の肩を付けるように横に座った。
「それとも、中学生にはまだ早いって思う?」
「……そんなことは無いと思う」
「うん、俺もそう思う」
その日はそれ以上二人の勉強が捗ることはなかった。
初めて太一とキスをした後、光は必要以上に太一を意識してしまって、次の部活の練習で会った時はまともに太一の顔を見ることが出来なかった。
それでも太一はいつもと変わらない自然な態度で自分に接してくれて、そんな彼の様子に光はとても救われた気がして、この人になら自分をすべてさらけ出しても良いと思うようになった。
キスをする前までの二人は依然友達の延長のような関係だったのだが、あの日から少しずつ二人の関係は変わっている。前よりも気軽にお互いの身体に触れるようになったし、二人の距離感がさらに近くなったような気がした。
それから一週間後、二人は相変わらず部活後の勉強を田村家のリビングで続けている。
二人きりの田村家で、真面目に勉強をして、時々休憩を挟んで、また勉強をして、ジュースを飲みながら雑談をして、また勉強をする。そして最後の別れ際にキスをするようになった。
あの日から10日後、夕方になって勉強を終えた二人は雑談をしながら机の上を片付けていた。光の両親が帰って来るまであと一時間、太一はもう帰らなければいけない時間だ。
いつものように最後に二人がキスをすると、離れ際に太一が口を開いた。その顔にはまた必死な決意が滲み出ていたのだが、何か言いかけては口を閉じる事を繰り返して中々話そうとしない。そんな太一を見た光が首を傾げながら問いかけた。
「太一君、どうしたの? 何か言いたい事があるんじゃないの?」
「う、うん…… でも、こんなこと言ったら光ちゃんは俺の事を嫌いになるかも……」
「嫌いになんかならないよ。太一君の事は大好きだからね」
そう言いながら、光は頬を赤く染めてはにかんでいる。その様子を見た太一は、遂に我慢が出来なくなったように、口を開いた。
「光ちゃん、あ、あのさ、ちょっとだけ身体を抱きしめたいんだけど…… いい?」
「えっ?」
瞬間、光は何を言われたのか理解できなくて思わず太一の顔を見つめたのだが、光のその表情を見た太一が急に怯えたような顔を見せた事に気が付くと、次第に彼に言われた言葉の意味が頭に入って来た、あぁ、そういう事なのかと。
光も友達との話などで彼氏が彼女に求める事を知っていたし、優しい彼にならそのくらいは良いかと思った。
「……いいよ、少しなら……」
光は顔を真っ赤にしながら頑張ってそれだけ答えると、あまりの恥ずかしさに俯いてしまったのだが、太一は光の返事に驚いていた。
場の流れと雰囲気で思い切って言ってみたが絶対に断られると思っていたし、それと同時にきっと嫌われてしまうだろうとも思っていたのだ。だから、その予想外の光の返答に、逆に太一のほうがどうしたら良いのかわからなくなっていた。
「あ、ありがとう…… でも、どうやって……」
「ちょっと待ってね……」
太一が予想外の出来事に狼狽えていると、光は顔を俯かせて大きく息をしている。
どうやらなにか勇気を出すために深呼吸をしているようだった。
「はい、いいよ、抱きしめて……」
太一の目の前には、恥ずかしそうに顔を俯かせた光が自分に抱きしめられるのをジッと待っている姿が見える。それは自分の事を全面的に信頼してくれているようで、とてもいじらしく見えた。
激しい胸の鼓動に押し潰されそうになりながら、太一が恐る恐る光の身体に手を伸ばして優しく包み込む。その感触は彼がずっと想像していたようにとても柔らかくて、そしてなんだか良い匂いがした。
「光ちゃん…… 温かい…… それにとてもいい匂いがするよ」
太一の顔はとても幸せそうに微笑んでいて、彼がずっと前から胸に秘めていた願いがひとつ叶った事に胸を躍らせていた。
「太一くんもとても温かいよ…… こうしていると、なんだかとても幸せな気持ちになるね……」
「うん、そうだね。ずっとこうしていたいよ……」
少しかすれたような太一の声を聞きながら、光が彼の背中に手を当てて優しく撫でていると、太一の腕に力が入って光は少しだけ苦しくなってしまったのだが、それでも光の幸せな気持ちに変わりはなかった。
それからしばらく抱きしめ合っていた二人だが、そろそろ光の両親が帰って来る時間が迫って来たので、お互いに名残り惜しい気持ちを我慢しながらどちらからともなく身体を離した。
「ごめん…… もしかして少し苦しかった? 少し腕に力が入っていたかも」
「ううん、大丈夫、苦しくなんかなかったよ。とっても温かくていい気持ちだったよ」
光の答えに太一はまた顔を赤くして照れながら、「ありがとう」と小さな声で囁いている。そんな彼の姿を見つめながら、光はとても幸せな気持ちになるのだった。
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「と、いう事があったんだよ。あぁ、あれは幸せなひと時だったなぁ……」
ひとしきり語り終わると、光は恍惚とした顔で目を輝かせている。
「へいへい、ごちそうさま、ごちそうさまっと…… はぁぁ……」
舞がげんなりとした顔で光の惚気に返しているのだが、その顔は羨ましさと妬ましさで何とも言えない表情をしている。
しかしそんな彼女でも、間違いなく友人の幸せを喜んでいるのは確かだった。
「光ちゃん、よかったね。太一君は優しいから、光ちゃんもうんと甘えればいいよ」
桜子も光の話を聞いて、まるで自分の事のように目を輝かせている。
「でもね、ほどほどにしておくのよ。男は急に止まれないって言うでしょう?」
舞は少しだけ心配そうな顔をしていた。




