第87話 パーティーと父の心残り
ズダン!!
剛史は勢いよく背中から地面に叩き付けられた。
その瞬間、否応なしに腹に力が入ってしまった剛史は、迫り来る絶望の中で全身の力が抜けていく。
「一本!! それまで!!」
うおー!!
会場内にどよめく歓声が彼の下腹部から発する音をかき消しているのだが、白い道着に広がる絶望的に目立つ染みと漂う臭いに、審判をはじめ周りの人間はすぐに彼の異常に気付いた。
もちろん健斗にも何が起こったのかすぐにわかったのだが、彼にはどうしてやることも出来ずに、その顔には勝った喜びと憐れみの表情が混じっている。
畳の上に大の字に寝転がった剛史は、試合会場の高い天井を見上げながら、いまこの瞬間に全てが終わったことを悟ったのだ。
今日、彼は伝説になった。
健斗の快挙に桜子は飛び跳ねて喜んで、その勢いのまま1階の試合会場まで走って下りて行くと、試合場から下がって来た健斗にまたしても抱き付いている。興奮し切った桜子には、健斗の腕に自分の豊満な胸が当たって潰れている事などお構いなしだ。
「すごい、すごいよ!! 健斗、ほんとにすごいよ!! 優勝おめでとう!!」
「キャー」と黄色い可愛らしい声で叫びながら全力で抱き着く桜子に、健斗はやっと嬉しそうな顔をして微笑んでいた。それまでは、試合会場から運ばれて行った剛史の事を思うと、なんだか素直に喜べなかったのだ。
確かに今回は優勝という最高の結果を出すことが出来た。しかし、もしも剛史の体調が普段通りだったなら、結果はどうなっていただろう。もちろん、そう易々と負けるとも思わないが、果たしてどんな結果になっていたかはわからない。
それに今回の勝利は、体調不良でまともに戦う事の出来ない相手から無理やりもぎ取ったものだ。これは決して自慢にできることではないし、誇れることでもない。結果的に勝ったとはいえ、今回は去年のリベンジと言うには少し納得のいかない終わり方をしたので、なんとも消化不良のようでモヤモヤしている。
自分は三年生なのでこの大会で引退なのだが、このまま高校に行っても柔道を続けていれば、いずれまた彼と戦える日が来るだろう。だからその時のために今以上に練習に精を出そう。
などと少し感傷的になっている健斗なのだが、とりあえず今のところは、自分の腕に当たって潰れている桜子の柔らかい胸の感触を、優勝のご褒美としてしばらくの間楽しんでいようと思っていた。
最後の表彰式に、剛史の姿は無かった。
あの出来事の後に皆の前に姿を現せと言うのは、さすがに酷と言うものだろう。
確かに観衆は彼の事を笑っているが、あの体調でも試合を捨てる事無く、あの場に立ち続けた事は称えられるべきだし、それを笑う人間を自分は許さないと健斗は思うのだ。
確かに彼とは桜子との一件で浅からぬ因縁はあるのだが、いまでは可愛い彼女もいるようだし、もう桜子には手を出してはこないだろう。
様々な思いを胸に秘めながら、健斗は表彰台の真ん中で嬉しそうに両手を挙げている。
優勝の打ち上げは後日行う事になったので、その日は健斗と桜子は二人で仲良く手を繋いで家路に着いたのだった。
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「すまん…… 俺の事なんて幻滅しただろ? もうこんな男に構わなくてもいいんだぞ……」
準優勝の栄誉を捨てて、表彰式にも出ずに逃げるように会場を後にした剛史の後ろを、泣きそうな顔をしながら琴音が付いて来る。その姿を振り返って見つめながら、剛史は琴音に大きな声で話し掛けた。
「俺は『うんこマン』になってしまったからな。俺と一緒にいたら恥ずかしいだろ? もう離れて行ってもいいんだぞ?」
剛史はいつも通りの元気の良い声で話しているのだが、その言葉の端々にはカラ元気を絞り出しているような雰囲気が感じられる。そんな剛史の声を聞きながら、琴音はべそをかいていた。
「ごめんなさい…… あたしがあんな物を食べさせたばかりに…… あれは剛史のせいじゃないよ、あたしが悪いんだよ」
「いや、お前のせいなんかじゃないさ。だって、お前も同じ物を食べたのに何ともないだろう? 体調管理も選手の仕事だ、俺はそれが出来なかっただけなんだよ」
優しくそう言うと、剛史は琴音の頭を掌でわしゃわしゃと撫でまわした。
「とにかく元気出せよ!! お前の弁当は美味かった、ただそれだけの事だろ?」
「…… うん、ありがと。あんたって優しいんだね…… 知ってたけど」
「それじゃあ、そんな優しい俺にご褒美ちょうだい、んーーー」
そう言うと剛史は琴音に向かって唇を尖らせて近付いて行く。
剛史が目を瞑って琴音に殴られるのを予測して待っていると、急に間近に人の気配を感じたので目を開いた。
予想に反して、剛史の目の前には小さくて可愛らしい琴音の顔があって、少し釣り上がった瞳はうるうると濡れている。
その瞳を見つめながら剛史が驚いた顔をしていると、柔らかくて優しい声で琴音が囁いた
「うん、いいよ、ご褒美だよ……」
琴音の柔らかい唇が、剛史のそれに重なった。
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「よぉし、健斗、お前よくやった!! 優勝なんてそうそうできるもんじゃないぞ!!」
ここは小林家。
柔道の大会から五日後の日曜日の夕方。
健斗が柔道の県大会で優勝した知らせを、桜子からその日のうちに伝えられると、浩司はまるで自分の事のように喜んで、優勝記念パーティーをすると言い出して聞かなかった。
それで五日後の日曜日の夕方に、小林家でパーティーをすることになったのだ。
パーティーと言っても皆で料理を囲んでの単なる食事会なのだが、それでも健斗にはあまりそういう機会がないので、嬉しそうにしている。もちろん桜子も、健斗と一緒にいられる事も、皆で食事が出来る事も嬉しくて、率先して料理の手伝いを買って出ていた。
パーティーが始まって一時間ほどで、健斗の母の幸は昌枝が一人で留守番しているからと言って先に帰り、酒に酔った浩司の正面に座らされた健斗は、完全にアウェーのようになっている。
「おぉ、健斗、お前は凄いよ。中学に入ってから柔道を始めたのに、たった二年半で優勝するなんて大したもんだ!!」
浩司は抗がん剤治療で体力が落ちてから、少しの酒で酔うようになった。本人は、経済的でいいだろう、などと呑気に言っているのだが、その様子を見る楓子には、昔の酒に強かった頃の浩司を思い出してなんとも居た堪れない気持ちになるのだ。
しかし病気になってから以前に比べると出来ないことが増えた浩司に、いまさら酒もやめろとは言えなかった。
「うん、本当に健斗は強かったよ!! 前回の優勝者を瞬殺だったもんね」
「い、いや、あれは……」
桜子の言葉に健斗は渋い顔をしている。人から聞かれても、健斗は決勝戦の事はあまり語りたがらなかった。
「そうか、瞬殺か。それは凄いな。…… それで、高校でも柔道は続けるのか?」
「あ、うん、そのつもりだよ」
「それはいいな。それで高校なんだが、お前はどうするつもりなんだ?」
それまで笑っていた浩司の顔が急に真面目になって、健斗の目を真っすぐに見つめている。
「お父さん、そんな話、今ここでしなくても……」
桜子が横から口を挟んだのだが、浩司はそれでもやめない。
「いいから聞かせてくれ。桜子は公立の北高か東高を受ける予定なんだが、お前はどうするんだ?」
北高校と東高校と言えば、地域の公立高校でも最上位と二番手だ。もちろん健斗がその高校を学力的に受験できない事を知っていて浩司は質問しているのだ。
「……俺は有明高校を受けようと思ってるんだ」
その高校は桜子たちの住むS市の隣にある公立高校で、学力ランクは中の中なのだが柔道部が強いので有名だ。今の健斗の学力や、高校でも柔道を続けたい彼にはぴったりの高校で、桜子も少し前からその話は健斗から聞いて知っていた。
「そうか、わかった。お前もちゃんと考えているんだな…… しかし、桜子の事はどうするんだ?」
「……」
「お父さん、もうやめて。健斗くんだって困っているでしょう?」
見かねた楓子が二人の間に割って入ると浩司の事を窘めたのだが、それでも浩司はやめようとしない。
「俺は桜子が高校に入学する時には、もういないかもしれないんだ」
「お父さん!? やめて!!」
桜子が叫ぶように大きな声で浩司の言葉を遮ったのだが、それでも浩司はやめなかった。
「すまん、健斗。お前を困らせようとしている訳じゃないんだ。これだけはどうしてもお前に言っておかなければならなくてな」
「……うん」
「別の学校に行くのだから、いつもは無理かもしれん。だが、この子の事は気にかけてやって欲しい。俺にはもう無理だから、お前に頼みたいんだ。もしもお前がこの子の彼氏ではなくなったとしてもだ。幼馴染のよしみだ、頼む」
「お父さん、そんな事言わないで!!」
思わず桜子が浩司に詰め寄っている。
「大丈夫だよ。どんな事があっても、俺たちはずっと幼馴染だから。今までも、これからも」
浩司の鬼気迫るような願いに、健斗は力強く頷いて了承した。その瞳は細くてよく見えないが、きっと使命感に燃えているのだろう。
「お願いだからもうやめて…… いまからそんな話しないで……」
桜子が浩司の腕にしがみついて涙を流し始めると、浩司は彼女の肩を引き寄せて頭をわしゃわしゃと撫でまわしている。髪がくしゃくしゃになっても桜子は泣くのをやめなかった。
浩司は桜子の頭を優しく撫でながらしばらく黙っていたのだが、何となく気まずい場の空気に気が付くとゆっくりと立ち上がった。
「……すまなかった。少し酔ったみたいだ、俺は向こうで横にならせてもらうよ……」
そう言うと浩司は襖を開けて隣の和室に入って行った。
「ごめんね、健斗くん。お父さんったら、最近あんな事ばっかり言っててね」
楓子が健斗に気を遣うような視線を送りながら話し掛けた。
「いえ…… おじさん、大丈夫なんですか?」
「えぇ、抗がん剤治療はやめたから、もう具合は悪くないんだけど体力が戻らなくてね。それに最近は妙に感傷的になってきて……」
「お父さん、きっと色々と考えているんだよ」
やっと涙が止まった桜子も話に参加する。
「……」
「あぁ、ごめんね、健斗くん。しんみりしちゃって。ほら、料理がまだ残っているから、遠慮しないで食べて食べて。早く食べないと、全部桜子に食べられちゃうわよ」
「あたしそんなに大食いじゃないもん!! ぶーだっ!!」
パーティが終わって、健斗は家に向かって歩きながら考える。
小林家の家族は皆温かい人たちばかりだ。浩司はまるで本当の父親のように接してくれるとても大きな人だし、楓子も時々厳しいが優しくて愛情に溢れる女性だ。絹江ももちろんいつも良くしてくれる。
桜子はそんな温かい人たちに囲まれたからこそ、ここまでまっすぐに育ったのだろう。
明るく朗らかで、正直で嘘がつけない。お人好しで、ビビりで気が小さい。そして全ての人が羨むような美貌を持っている。
しかし、健斗にはそれが一番心配だった。
桜子は自分の容姿を理解していないし、自分が他人の目にどう映っているのかも正確に把握していない。だから隙が多くてトラブルに発展するのだ。
他人に対する警戒感が足りないので、すぐに人を信用して騙されるし、人の悪意にも鈍感だ。
最近の弱肉強食の世界では、真っ先に淘汰されていく類の人間なのだが、それでも健斗はそんな桜子の事が好きなのだ。
桜子が類まれな美少女だという事実ももちろんあるのだが、それ以前に桜子の人となり、性格が好きだった。彼女を異性として見た時に、その性格はとても愛らしくて健斗には好ましかった。
そしてそんな女性と幼いころから知り合えた事は運命に近いものだし、ましてや、その女性と恋人同士になれた事は奇跡と言っても過言ではないだろう。
だから自分は彼女の事をどんなことがあっても守らなければならないし、彼女のいない生活は考えられないのだ。
さっき浩司に言われたことは、健斗はとっくに覚悟をしていたことだ。
自分が桜子と恋人同士ではなくなる事などもちろん考えたくも無いのだが、もしも万が一そうなったとしても、彼女の事は一生守り続けて行こうと思っている。もちろん、自分の代わりに彼女がその役目を果たす男性を見つけたのであれば自分は潔く身を引くつもりだが、そうなるまでは彼女を守るのは自分の役目なのだ。
もう彼女を失いたくないし、他の誰にも渡したくない。
とにかく健斗には今はそれしか考えられなかった。




