第86話 賢者とダムの決壊
健斗の柔道の試合が始まった。
1回戦でいきなり去年4位だった相手と当たって、初戦から苦戦を強いられたのだが、時間一杯まで粘って何とか優勢勝ちに持ち込むことが出来た。
相手の選手も健斗と同じ3年生なので、これが最後の試合という事で相当気合が入っているようだったが、この一年間で磨いて来た健斗のスタミナと馬鹿力に抗う事が出来ずに敗れて行った。
後で聞いた話では、彼はどこかの高校の柔道推薦が決まっていたらしいのだが、健斗にいきなり一回戦で負けてしまったので、その話の行方が気になるところだ。
2回、3回戦も時間一杯まで粘っての優勢勝ちだった。
健斗としても相当頑張って技の練習をしているのだが、自分と同レベルまでならいざ知らず、さすがに県大会に出場するような上位者に対しては、やはり技術で劣る部分が多くて中々一本勝ちを収めることができないのだ。
そのため、豊富なスタミナと馬鹿力に頼って終始相手を責め立てて、時間一杯使って勝つという地味な試合展開になりがちだ。
それはある意味堅実な健斗のイメージに合ってはいるのだが、彼としても桜子の前で派手な一本勝ちをして見せたいという思いは正直あるのだ。それでも、どんな勝ち方をしても勝つだけで桜子は喜んでくれるので、無理に自分らしくない事はしない方がいいだろうと思っている。
健斗の後輩の川村は、相変わらずの桜子の美少女っぷりにやられている。
久しぶりに近くで見る桜子は、以前よりだいぶ大人びているのだが、相変わらず少し大きめの垂れ目がちな青い瞳は、桜子の顔全体を少し幼げに見せている。
頭身が高くすらりと背の高いスタイルと、少し幼げに見える目鼻立ちの顔の対比がまた絶妙なバランスを保っていて、その細身の身体に似合わないほどの大きな胸の膨らみは、全身からあふれ出る透明感と清楚さにまるで反抗しているようだ。
そんな桜子と川村が一緒に健斗の試合を観戦していると、試合の内容に合わせて桜子がとても感情豊かに様々な表情を見せてくれるのだが、そのどれもが美しいと川村は思うのだ。
一度健斗が勝った時には、突然桜子が隣にいる川村の両手を握って飛び跳ねて喜んだのだが、その子供のように顔を輝かせてはしゃぐ様子を見て、川村は本気で見惚れていた。
「川村先輩、自分初めて小林先輩を近くで見ましたが…… まじ半端ないですね!! 自分はあんなに綺麗な女性を見た事がないですよ!!」
今年入部してきた1年生が、川村に正直な感想を述べていたのだが、その感想には川村も全力で同意している。それほどに桜子は川村にとって女神のような存在なのだ。
健斗はなんとかベスト8まで勝ち上がって来た。
時間一杯まで粘る健斗の戦い方では、さすがに体力の消耗が激しくて、毎試合ごとに両肩を激しく上下するほどに息も上がっている。
ここで一旦昼休みになったので、健斗は桜子の作って来た弁当を食べに2階の観覧席に向かった。
二人が仲睦まじく一緒に弁当を食べていると、それを遠目で見ている健斗の同期部員達が羨ましそうに話をしていた。
「だけどさぁ、結局、小林って木村のどこが良いんだろうな」
「さぁな、男の俺から見ても、木村は背も高くないし顔だってイケてないしなぁ……」
「でも、あいつ意外と女子にモテるんだよなぁ…… なんでだろ?」
「あぁ、それは俺も気になってるんだよ。地味にあいつ女子受け良いんだよな。あんなに無口で不愛想なのに」
「うーん、男の俺にはその理由が良くわからん……」
「ところでさ、あの二人ってどこまで進んでると思う? もうしたのかなぁ……」
「したって、随分生々しいな…… でもたぶんそれはないだろ。木村の様子を見てたらわかるよ、さっきも小林に近付かれただけで固まってたしな」
「あはは、それもそうか。それにしても、相変わらず小林って自覚ないよな。あんなに可愛いのに」
「まぁ、それがあいつの良いところなんだろうけどな……」
対面の観覧席から仲良く食事をする健斗と桜子の様子を窺いながら、剛史は琴音が張り切って作って来た弁当を食べているのだが、剛史は今まさにそれに苦しめられていた。
琴音は料理が下手だ。
下手は下手なりに努力すれば何とかなるものなのだが、琴音の場合はそれ以前の問題で、わかりやすく言うと「味音痴」なのだ。
ネットで調べたり、母親に聞いたりしながら料理をしてきたようなのだが、よせばいいのに勝手にレシピをアレンジするので、出来上がりが非常に残念なことになっている。
「なぜ焼き魚にチーズがかかっている……」
「いや、弁当に納豆はだめだろ……」
「このヨーグルト入りの卵焼きは…… うぷっ」
思わず剛史は何度も不味いと言いそうになったのだが、その度に目の前で剛史が弁当を食べる姿をニコニコと嬉しそうに眺めている琴音を見ると、中々そうは言えなかった。それに琴音も自分の作って来た弁当を普通に食べているので、もしかして自分の味覚の方がおかしいのかと思ったりもした。
今まで柔道の辛い練習に耐えてきたのと同じ程度の忍耐力を注ぎ込んで何とか弁当を完食した剛史だったが、直後から急に腹痛と吐き気と眩暈に襲われて最悪の体調になっている。
本来であれば英気を養うはずの恋人との昼食時間が、気付けば逆に体調を悪くする結果になり、もしかしたら琴音は健斗からの刺客なのではないかと本気で思う剛史だった。
午後になり準々決勝が始まると、そこでも健斗は時間一杯まで粘って優勢勝ちとなった。
ついに優勝まであと2戦となり、期待に湧きかえる部員達を尻目に健斗自身はとても落ち着いているようで、目を瞑り背筋を伸ばして正座をする健斗の姿は、これからの2戦に向けて精神統一をしているように見える。
そんな健斗には横から話しかけるのを躊躇うような雰囲気が漂っていて、誰もが遠巻きに見ていたが、実際には、さっきからずっと頭から離れない桜子の胸の谷間と彼女の匂いに悶々とした健斗が、一生懸命にそれを頭から追い出そうとしているだけだった。
準決勝が始まった。
相手は強豪校でも有名な選手で、昨年も健斗と準決勝で戦った相手だ。これは相手も十分に分かっているらしく、初めから健斗の異常なスタミナと馬鹿力を警戒して、一気に勝負をつけに来ると思われる。前回は健斗のスタミナと馬鹿力に阻まれて攻めきれず、指導を3回取られて反則負けを喫していたのだが、今回は同じ轍は踏まないと鼻息を荒くしていた。
試合が始まると、健斗は重量級の如くどっしりと構えて相手を待ち構えている。
相手は自分の方が健斗よりも技術は上だと確信しているので、一気に技を掛けようとして健斗の隙を伺って一気に懐に入り込んで来たのだが、それを待ち構えていた健斗は相手の足払いを避けると同時に相手の襟を自分に引き寄せて、一気に相手に寄っていった。
足払いをすかされた相手はバランスを崩したまま健斗の足技をまともに受ける形となり、そのまま背中から地面に叩き付けられていた。
「一本!! それまで!!」
瞬時に周囲から割れんばかりの歓声が飛び交い、まるでこれが決勝戦のような雰囲気になっている。それもそのはず、健斗が公式戦で一本勝ちを収めたのはこれが初めてだったのだ。
それを知っている他部員達は、皆口々によくやったと言って健斗の健闘を称えているのだが、当の健斗が一番最初に見たのは、2階の観覧席から身を乗り出すように両手を振っている桜子だった。彼女が満面の笑みで両手をぶんぶんと激しく振り回す姿を一目見て、健斗には珍しく小さなガッツポーズをしていた。
「きゃー、健斗!! 凄くかっこよかったよ!!」
次の試合を待つために廊下を歩いている健斗に、桜子が突然抱き着いて来た。健斗はそのあまりの勢いに思わずよろけそうになったのだが、全身の力で桜子の身体を受け止めた。
「健斗すごい、すごい!! きゃー!!」
健斗に抱き付いて、ぴょんぴょんと地面を跳ねるようにはしゃぎ回る桜子の喜びようを見ていると、健斗はとても自分が誇らしい気持ちになったのと同時に、興奮のあまり我を忘れて健斗に体をギュウギュウと押し付けて来る桜子に対してかなり困惑していた。
今までも何度か桜子に抱き付かれたりしたことはあったのだが、これほどまでに力を込めて抱きしめられた経験は初めてで、柔道着を通して彼女の温もりと体の柔らかさがとても良く伝わって来るのだ。特に右腕に感じるこの「むにゅん」と柔らかい感触は彼女の豊満な胸に違いなく、その感触と温かさと、鼻をくすぐる良い香りにまたも健斗は気を失いそうになっている。
「あぁ、いいなぁ、俺も小林に抱き付かれてー」
「おい、木村ヤバいんじゃないのか? あれはもう収拾つかないだろ」
「そうだな…… もう生殺しだな、あれじゃ……」
「小林桜子、恐るべし……」
それを遠巻きに見ていた部員達は、羨ましそうにすると同時になんだか気の毒な顔をしている。
最早桜子は、健斗の応援に来ているのか邪魔しに来ているのかわからない状態になってしまっているのだが、それに気付いていないのは当の桜子本人だけだった。
予想通り、決勝まで駒を進めてきたのは松原剛史だった。
しかし、男子55キロ級最強の名が高い剛史に異変が起きていた。準々決勝も準決勝も、剛史の動きは精彩を欠いていて、いつもは試合開始早々に一本勝ちをするのが当たり前のような彼にしては、珍しく時間一杯までかかっての優勢勝ちなのだ。
それも常に歯を食いしばって何かに耐えているように見えて、準決勝を時間ぎりぎりで勝ち上がった剛史の顔に笑顔は無かった。
決勝が始まるまで15分間の小休止が挟まれたので、剛史はトイレに駆け込んでいた。
昼に琴音の作って来た弁当を食べてからどうも腹の調子が良くなくて、それ以降頻繁に腹に痛みが訪れるのだ。我慢が出来なくなってトイレに駆け込むと、案の定腹を下していた。
「くっそう…… よりによってこんな時に……」
剛史がげっそりとした顔をしながらトイレの個室から出て来ると、ちょうど健斗も隣から出て来るところだった。トイレの個室のドアノブに手を掛けたまま思わず互いに睨み合う二人だが、これからすぐに試合で決着をつけることが出来る事を考えると、今ここで言い合うのも無駄だと思った。
しかし、剛史の姿を見た途端、健斗は何かに気が付いた。
「松原、お前、なんだか調子が悪そうだな、どうした?」
腹を押さえて本当に調子が悪そうな剛史も、健斗のちょっとした様子に気付いていた。
「……そういうお前は、なんだかスッキリした顔をしているな……」
「……」
剛史の何気ない問いかけに、健斗は妙にぎくりとした顔をしている。
「ふ、ふん、まぁいい。どちらにせよ俺の勝利に間違いはないしな。次の決勝戦、覚悟しておけよ、また腕が折れるかもしれないぞ。ははははは……」
目の下に隈を作って、腹を押さえて中腰の姿勢で言うと何とも格好がつかないのだが、剛史はひとしきり健斗を煽るとそのままノソノソと去って行った。
決勝戦が始まったのだが、試合会場に登場した二人の様子は対照的だった。
目の下に隈を作った青い顔をして、常に中腰の姿勢で腹を押さえている剛史と、真っすぐに背筋を伸ばして、先ほどまでの狼狽えた様子が全く見られない、まるで賢者のように落ち着きを取り戻した健斗は、互いに睨み合いながら審判の掛け声を待っている。
「はじめ!!」
健斗は前回の反省を生かして、剛史のカウンターを取られないようにじっくりと時間を掛けて攻めるつもりなのだが、残念ながら剛史に残された時間は少なかった。こうしてジリジリと睨み合っている間にも、自分の腹部からグルグルと嫌な音を立てて降りて来るものがあるのだ。
それはまるで人知の及ばない災害のようなもので、最早剛史の鉄のように固い意志でもどうにかなるのものではなかった。まるでダムの決壊を思わせる絶望的な状況を予感しながら、剛史は脂汗を流している。
健斗はそんな剛史の様子からさすがに彼の異常を察したのだが、本人が試合をやめようとしない以上、健斗には何も出来る事は無かった。しかし、いつまでも攻めてこない剛史に付き合っていても、お互いに指導を取られるだけだと思った健斗は、様子を見る為に軽くけん制の足払いを支掛けてみた。
普段の剛史であれば難なく避けていたであろう技なのだが、今の彼にはそれすら避ける余裕はなく、まともに食らってよろけている。これは本格的におかしいと思った健斗は、思い切って剛史の懐に飛び込むと同時に右腕を掴んで思いきり背負い上げた。
剛史にはわかっている。
この技を堪えるには、痛む腹に力を籠めて踏ん張らなければいけないのだが、いまのこの状況でそうすることがどんな結果に繋がるかは火を見るよりも明らかだ。だからと言って、このまま地面に叩き付けられても同じ結果になるだろう。
堪えて立ち続けて笑われるか、負けて笑われるか、どちらも究極の選択と言える状況なのだが、剛史にはとても今この瞬間に決めることが出来なかった。
そしてその一瞬の迷いが命取りになったのだ。
健斗に背負い上げられるのに耐えることが出来ないまま、剛史は背中から地面に叩き付けられた。
そしてダムは決壊した。
どうやら、大惨事になったようです。




