第84話 つらいと思わない事が幸せ
夜になると、浩司は昼間に買ったこの土地の地酒を飲み始めた。
家ではいつも美味しそうに浩司が酒を飲むので、それを見ている桜子が興味を持って時々一口飲ませてもらうのだが、いつも「うひゃぁ」と小さな舌を出して渋い顔をする。それを見ながら浩司が笑うというのがいつもの光景だ。
今日も見た事の無い酒を浩司が飲んでいるので、桜子が興味津々で近付いてきたのだが、酒瓶の中に入っている物体を見た途端、悲鳴を上げて逃げて行った。
その様子を見ていた楓子が不審に思って酒瓶を見ると、その中には一匹の蛇が入っていて、さすがの楓子もこれは無いと言って渋い顔をしている。そんな他愛のない事が、今の浩司にはこの上ない幸せを感じる瞬間だった。
浩司の担当医師によると、抗がん剤の治療をやめた浩司は、しばらくの間はこれまで通りの普通の生活ができるだろうとの事で、この先身体に痛みを感じたり、熱が出るようになったりしたら、再度病院を受診するように言われている。
その頃になると、最早治療行為ではなく、痛みの緩和などの終末期医療の世話になることになり、在宅で最後の日を迎えるための準備をすることになるのだ。
幸いにも、浩司の体にはまだ痛みなどの症状は出ていないので、もうしばらくは好きなことが出来そうだ。
翌日、小林家は全員でホテルのすぐ近くのビーチに来ていた。
そこでは強い日差しを避けられる庇の影で浩司と絹江が昼寝をしているのを眺めながら、楓子ものんびりと海を眺めている。
その横で、さすがに桜子が時間を持て余し始めたのを気にした楓子が、近場であれば自由に行動しても良いと声を掛けてくれたので、桜子は早速昨日出会った土屋のアルバイト先に出掛けてみることにした。
土屋の職場は、大きな手書きの看板が目印になっていてすぐに分かった。
桜子たちがいたビーチから歩いて3分ほどの所にあって、小さな木造の小屋にウェットスーツが干してあったりシュノーケリング用品が並べてある、ショップとスクールを兼ねたような小さなダイビングショップだ。
桜子が歩きながら近づいて行くと、店の前で動き回っている真っ黒に日焼けした背の高い青年を見つけて早速声を掛けてみた。
「こんにちはー。お言葉に甘えて、早速遊びに来ちゃいましたー」
突然声を掛けられた土屋は、一瞬きょろきょろと周りを見回していたが、すぐに前方から見た事のある金髪の少女が歩いて来ているのに気が付いて、大きな口を開けて笑いかけてくる。
桜子には真っ黒に日に焼けた顔に浮かび上がる真っ白な歯のコントラストがとても眩しく映った。
「やぁ、早速来てくれたんだね、嬉しいよ。今ここを片付けたら時間がとれるから、ちょっと待っててね」
桜子はテキパキと働く土屋の様子を横目に見ながら、暑い日差しを避けようとショップの中に入って行くと、中には浩司と同じくらいの年齢の顎髭が素敵な男性と、もう少し下の年齢の女性がいて、入って来た桜子に声を掛けてきた。
「いらっしゃい。何かお探しですか?」
「いえ、ちょっと外の土屋さんに用事があって…… 少し日陰を貸してください」
桜子の少しはにかんだような笑顔を見た女性は、「ははぁ」と何かに気付いたような顔をして、外の方に視線を走らせながら続けて話しかけてくる。
「あぁ、あなたね、昨日拓海が知り合ったっていう美人さんは」
「あっ、いいえ、美人だなんて、そんな……」
「あら、あなたかなりの美人さんよ。少なくとも私はあなた以上に可愛いらしい娘を見た事ないわ。これで中学3年生だなんて信じられないわよ」
初対面の人間相手に随分と明け透けに物をいう女性だなと思いながら、若干引きつった笑いを浮かべている桜子を、その女性は興味深そうに眺めている。
「あ、ごめんなさいね。私は森本敬子よ。こっちは泰治、私の夫ね。そして外にいるのが私の甥っ子よ。あなたの事は昨日拓海から聞いていたから初対面なのにずけずけと言ってしまって、気分を悪くしないでね」
敬子が悪びれもせずにカラカラと笑いながら言う姿を見ていると、桜子も釣られて笑い始めた。それにしても、久しぶりに何のしがらみも無く笑う事が出来た桜子だった。
拓海は元々親の影響でダイビングが好きで、将来はインストラクターの資格も取ろうと思っている。その為の勉強も兼ねて、大学の夏休み約二ヵ月間を利用して、夏の一番忙しい時期だけ叔母のダイビングショップ兼スクールの手伝いに来ていた。
たまたま今日の午後はスクールの予約が入っていなかったので、拓海は桜子にダイビングを体験してみないかと提案してきた。
桜子が携帯電話で浩司に許可を貰うと、拓海はすぐに準備を始めたのだが、料金を払うと浩司が電話口で言い張っている事を桜子が伝えると、拓海が逆に余計な事をしたと恐縮してしまった。しかし、桜子が昨日助けてもらったお礼だと言うと無理やり納得したようだった。
桜子は水着を持って来ていなかったのでレンタル品を借りることにしたのだが、なんとレンタルの水着で桜子の体形に合うものが、黒色セパレートのタンキニタイプしかなかったのだ。
それを見た桜子は当然のように難色を示したのだが、それしか選択肢が無かったことと、敬子の「良く似合っている」の言葉に誤魔化されて渋々それを着用した。
その姿はお約束のように胸の膨らみがバインバインに強調されていて、白い肌と黒い水着のコントラストが何とも大人のセクシーさを前面に押し出している。そしてちらりと覗く小さな白いおへそがキュートだった。
桜子が更衣室から出て来ると、まるで信じられないものを見たかのように拓海の目が大きく見開かれて、顔を赤くしたまま目が離せなくなっていた。
「いやぁ、最近の若い娘は発育がいいわねぇ、びっくりしちゃったわ。やっぱり絶対に中学生には見えないわね」
そう言って敬子が恥ずかしがる桜子の胸を触ってたゆんたゆんと揺らし始めたのだが、それを見ていた拓海が急にそっぽを向いたのを泰治がニヤニヤしながら眺めていた。
水着は何とかサイズが見つかったのだが、ウェットスーツが大変だ。
レンタル品も大小数多く取り揃えているのだが、桜子の胸が入るサイズが無いのだ。それでも一番大きなサイズを無理やり着たのだが、チャックを首元まで上げるのに敬子と二人がかりでとても苦労した。
ちょうどウェットスーツに着替え終わった頃に、浩司と楓子が桜子の様子を見るためと、料金を支払うためにショップまで歩いて来ていた。浩司達が休んでいたビーチからはほんの200メートル程しか離れていないのだが、その距離を歩いただけでも浩司は既に息を切らしている。
「お父さん、大丈夫? 病み上がりなんだから無理しないでね」
「大丈夫だ、リハビリだと思えばどうって事ないだろ」
二人が話していると、タイミングを見て横から拓海が声を掛けてきた。
「本当にすいません、俺が勝手に勧めた事なのに、料金まで払わせてしまって……」
「いやぁ、いいんです。あなたの事はこの子から聞いていますので。昨日は娘を助けて頂いて、ありがとうございました。これは感謝の気持ちなんです、どうぞ受け取ってください」
浩司がそう言って拓海にダイビングの体験料金を手渡した。それを恐縮しながら拓海が受け取るのを確認して、楓子が森本夫妻に頭を下げている。
「では、娘をお預けしますので、よろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそ申し訳ありません。料金まで頂いてしまって…… それでは責任を持ってお嬢さんをお預かり致します。体験レッスンが終わりましたらご連絡しますので、それまでどうぞお休みになって下さい」
小林夫妻は丁重に頭を下げると、もとのビーチへと戻って行った。少し息が上がっている浩司の背中を心配そうに眺めている桜子に拓海が声を掛けた。
「そろそろ行こうか」
拓海と一緒に海へ出ると、さすがは水泳部と言ったところか、桜子はすぐにコツを掴んで一人で泳げるようになっていた。その飲み込みの速さに拓海は驚きながらも、どこまでも透き通る美しい水中を金色の髪を靡かせて泳ぐ桜子の姿は、まるでおとぎ話の人魚のように見えた。
海からあがってショップに戻ると、すでに夕方になっていた。
敬子に手伝ってもらいながら苦労してウェットスーツを脱いだ桜子が、携帯電話で楓子に連絡しようとしていると拓海が話しかけてきた。
「もう少しだけ、時間大丈夫かな?」
「え? はい、大丈夫ですけど……」
「ありがとう。時間もちょうど良いし、少し見せたいものがあってね。少し歩くけど大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
拓海の後を5分ほどついて行くと、少し小高い丘の上から海を見下ろせる場所へ案内された。
「うわぁ、きれい……」
そこから眺める夕日は、桜子が今まで見た中で一番綺麗だった。
ほぼ180度の広さに広がる水平線の向こうに沈んでいく夕日の色が、辺り一面をオレンジ色に染め上げて、まるで夢の中の世界のように幻想的だ。
それを無言で見つめながら夕日の色に染められた桜子は、横に並んだ拓海にポツリと話しかけられた。
「訊き難い事を訊くけど…… お父さん病気なのかい?」
突然思ってもみなかった事を尋ねられた桜子は、つい拓海の顔を見上げてしまったのだが、拓海の顔は沈んでゆく夕日に向けられたままで、桜子の事は見ていなかった。
どうしてこの人はそんな事を訊くのだろう……
そう桜子はぼんやりと考えたのだが、オレンジ色に染まる拓海の横顔を見上げていると、何となく話してもいいような気がした。
「……うん、そうなの…… お父さんはがんで、あと4ヵ月しか生きられないんだ……」
桜子も拓海と一緒に、正面を向いたまま話し続けた。
「でも、残りの4ヵ月、あたしは何をすればいいのかわからなくて……」
「そうか…… つらいかい?」
「うん、つらいよ……」
「そうだね、つらいよね。でも、そう思わないことがお父さんの幸せだとは思わないかい?」
「えっ…… つらいと思わないことが?」
「そう、きっとね、君のお父さんは君がつらいと思っている事が一番つらいと思うんだ」
それから拓海はぽつりぽつりと自分の事を話し始めた。
拓海は3年前の高校1年生の時に、父親を交通事故で亡くしている。
父親は単身赴任で地方に住んでいたので、一ヵ月ほど会っていなかった。一ヵ月前に「それじゃ、行ってくる。母さんをよろしくな」と言った言葉が父親と直接交わした最後の言葉だった。
拓海は父親との関係は普通で、特に仲が良かったり嫌いだったわけでもないのだが、亡くなる半年前から始まった単身赴任を切っ掛けに、父親との距離が開いてしまっていて、滅多に自分から連絡を取ることは無かった。
それでもたまに父親が帰って来る時には必ず土産を持って来てくれたし、自分の事を気遣う様子も見て取れたので、自分も父親の事をもっと気にしてあげようと思った矢先の出来事だった。
親と言うものは遅かれ早かれ、子供よりも先に死ぬものだ。だから親孝行は出来る時にするものだ、と誰かが言っていた事は本当で、自分にはそれをする間も与えられなかった。
「君は、お父さんに残された時間を知っているだろう? だからそれまで全力でお父さんのために何かをすることが出来るし、それを探すことも出来るじゃないか」
「お父さんのために出来る事を探せる……」
「そう、それはとても幸せな事なんだよ。愛する人の事を考えて、そのために何かができる、こんな幸せな事はないんだ」
「あたしが幸せ……?」
「そう、君は幸せなんだよ。だからそう思っていつも笑っていなければいけないと思うんだ」
桜子は沈みかけた夕日に目を細めながら、いま言われたことを何度も何度も繰り返し呟いていた。




