第82話 父親と娘の笑顔
ある日の夜、桜子は夢の中で秀人に会っていた。
前回彼に会ってから既に3ヵ月、前回木村家で交代してから既に2か月以上経過していて、秀人はやはり本当に用事のある時にしか出てくるつもりは無いようだ。
桜子は久しぶりに会った秀人に沢山聞きたい事、言いたい事があったのだが、いざ本人を前にすると、何から言えばいいのかわからなくなっていた。そんな彼女が頭を悩ませていると、先に秀人の方が口を開いた。
「よう、元気そう…… でもないな」
「うん、元気じゃない…… と思うよ……」
「そうか、親父の事は気の毒だとは思うがな、お前が塞ぎ込んでも何の解決にもならんと思うぞ」
「…… うん、それは分かってるけど、でも……」
秀人に対しては全く気を遣うこと無く素顔をさらけ出す桜子なので、いまのこの状態が素の彼女なのだろう。全く生気が無い常に伏し目がちな青い瞳と、一文字に閉じられた小さな唇。以前の彼女からは考えられないほどに明るさが消え去っている。
そんな彼女の様子は小学6年生の時の誘拐事件直後に似ているが、今回はまた少し違うようだ。人には自分ではどうしようもない事があるとなにか諦めたような表情をすることがあるが、今の彼女の表情はそれによく似ていた。
まるで今では桜子の保護者のようになってしまっている秀人は、彼女の暗く沈んだ顔を黙って見ている事ができずに思わず口に出してしまう。
「おい、そんな顔をするな。お前は親父の前でもそんな顔をしているのか?」
そう言われた桜子は、最近の自分を思い返したのだが、確かに父親の前でもこんな顔をしているかもしれななかった。
「お前の親父はお前の笑顔が見たいんだぞ。そんな時にお前がそんな顔をしていてどうする? 親父に心配をかけたいのか? そうじゃないだろ、親父を安心させてやれよ」
「……」
秀人は桜子の事を矢継ぎ早に責め立ててくる。
浩司は桜子に無償の愛情を注いでくれる。
いつも彼女の事を一番に考えてくれて、自分の事は二の次だ。だから桜子もそんな父親の事は大好きだし、愛している。
そんな父親が一番喜んでいる場面を思い返してみると、そこには常に笑顔の自分がいた。父親に満面の笑みで笑いかけている自分がいるのだ。
桜子が秀人の言葉にハッと何かを思い出したような顔をしていると、それを見て満足そうな顔すると秀人は続けた。
「わかったら笑っていろ。親父の前では笑顔でいろ、いいな」
「うん、わかったよ、鈴木さん。ありがとう」
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「小林さん、自由診療と言う言葉を聞いたことがありますか?」
浩司の担当医師が唐突に質問を投げかけてきた。
「自由……診療ですか? それはなんですか?」
「では保険診療は聞いたことがありますね?」
「はい、それは知っています。健康保険が使える診療ですよね? 3割負担とかの」
「そうです。今の医療制度では健康保険にさえ加入していれば、どんなに高価な薬を使用しても患者さんはその一部の負担で済みます。それが国内で承認されている薬なら」
「承認、ですか?」
「はい、承認です。実は小林さんのリンパ腫に適合する抗がん剤が海外にはあるんです。でもそれはまだ日本国内で承認されていません」
「…… それはつまり?」
「はい、費用を全額自己負担できるのであれば、海外からその薬を購入することはできるのです」
「それなら、そうすればいいのでは……」
そこまで言うと、医師はとても渋い顔をして一旦言葉を切った。
「しかし実際にできるかどうかは小林さん次第です」
海外から国内未承認の薬剤を購入して使用することは出来る。しかしそれをしてしまうと、現在病院で行っている医療行為全てが自由診療扱いとなってしまい、健康保険が使えずに全額患者の自己負担となってしまう。
診療の一部を自由診療とすることを混合診療と言って、現在の日本では一部を除いて認められていない。つまり、未承認薬の価格に関係なく、ただそれを使用するだけで全ての医療行為が全額自己負担になってしまうのだ。
ちなみに今回の未承認薬自体の価格は約100万円ほどだが、その他に一ヵ月間の入院や治療、検査費用なども全て自己負担となった場合、薬の購入費用を含めると、1ヵ月約250万円かかる計算になる。
もしもこれが数ヵ月続くとなると、到底普通の患者に支払える金額ではないだろう。
つまり、完治まで何年かかるかわからないのに毎月250万円負担できるかという話であると同時に、それが延命目的だとしても、6ヵ月延命するために1,500万円支払うのは妥当なのかという事にもなる。
もしそれを保険診療だけで済ますことが出来れば、健康保険の高額療養費制度を利用すると一ヵ月約10万円で済んでしまう。ちなみに浩司の場合は個室の使用料が別に約15万円かかるのだが。
「……つまり、治す方法はある、しかし金が払えるか、ということですか?」
「そうですね、非常に言い難いのですが……」
説明を終えた医師の顔には苦い表情が浮かんでいて、もしかすると本当は話したくなかったのかもしれない。しかし自らの判断で患者の生きる道を閉ざしてしまう訳にいかなかったのだろう。
「わかりました…… 少し考えさせてください」
浩司はぼんやりとした顔をして、それだけを言うと病室に戻って行った。
当然のように楓子は未承認薬の使用を訴えた。
小林家にだってそれなりの蓄えはあるのだし、数か月の使用であれば払うことだってできる。もしも途中で貯えが尽きたとしても他に借金をする方法だってあるし、仮に途中でやめたとしても、それだけ浩司が延命できるのであればやる価値はあると言ってきかなかった。
桜子も楓子同様に治療することを選択した。
今回は桜子を相談の場から遠ざけるような事はせずに、浩司の容態や治療方法、お金の話まで全て包み隠さずに話していたので、楓子と同じ立場で話し合いをした。
桜子には一昨年のいじめ事件での加害者からの損害賠償金が、約500万円支払われていたのだが、それは今後桜子が自分のために使うようにと両親が桜子名義で貯金していた。彼女はそれを使って欲しいと訴えたのだ。
しかしそれに関しては、浩司も楓子も首を縦に振らなかった。
浩司は二人とは全く逆の考えだ。
小林家は自営業なので、将来の年金は国民年金しかない。そのために老後の貯えとしてある程度の現金は持っているのだが、それをいま自分の治療のために使う訳にはいかないと思った。ましてや死んでいく自分の代わりに、残された家族に借金を背負わせるなんてとんでもないことだ。
今ある貯えは、浩司と楓子の老後資金であり、桜子の結婚式費用でもあり、もしもの時の当座の生活資金でもある。それは自分が唯一家族に残してやれるものだから、自分のために今使う訳にはいかない。
しかし、もしもいま自分がその一部を使っていいのなら、がんの薬なんかではなく、皆で旅行に行きたいと浩司は思っている。
そういえば、もう少しで学校の夏休みが始まる。残念ながら桜子は今年の夏の水泳部の大会には出られないと聞いていたので、きっと部活の練習もないだろう。それなら夏休み中に皆で旅行に行けるではないか。
浩司は自分の考えが名案のような気がしてきて、一度そう思うとそれ以外の事は考えられなくなっていた。
浩司は抗がん剤治療をやめて病院を退院することにした。
残りの余命は約4ヵ月ある。それまでにしたい事、行きたい場所などを色々考える必要もあるし、その準備も必要だ。これから忙しくなると思うと、ここしばらく感じることの無かった充実感が湧いて来て、浩司の顔には明るさが戻って来ていた。
そんな生き生きとし始めた浩司を見ていると、楓子はそれが正解なのかも知れないと思い始めたのだ。
浩司が治療をやめる事を桜子に伝えると、さすがに初めは狼狽えて涙を流したのだが、一晩時間を与えると朝にはすっきりとした表情で浩司に了承の意思を示した。
治療をやめるという事は、父親が近いうちに死んでしまう事を意味するのだが、彼女の中でその事実と折り合いをつけることが出来たようで、浩司の意思を尊重すると言っている。
桜子の顔にも笑顔が戻って来た。
浩司が退院する少し前から桜子は懸命に笑顔を作るように努力している様子が見て取れて、それに気付いた楓子が一度聞いたことがあった。それに対して桜子は、はにかんだような表情で答えていた。
「桜子、あなた最近少し笑うようになったわね、とってもいい事だと思うわ。何かあったの?」
「うん、知り合いに言われたんだ。お前まで暗い顔をしてどうする、父親を安心させたければいつも笑っていろって」
「ふふ…… そうね、その人はとっても良い事を言ってくれたわね。もしかして健斗くん?」
「うーん、内緒」
そう言って桜子は小さな舌をペロっと出した。
さらに浩司が退院してからは、桜子はかなり笑うようになった。それは浩司の入院中に見られた無理な笑顔ではなく、心からの笑顔だ。
浩司が治療をやめて自らの死を受け入れることを宣言すると、桜子はせめて最後の日まではずっと笑顔でいようと心に誓った。
そして最愛の娘の笑顔を毎日見られるようになった浩司も昔のように笑うようになり、小林家は以前のような笑いの絶えない家に戻ってきていた。
あと数日で一学期も終わりというある日の朝、健斗が小林家に迎えに来ていた。
ここ最近は桜子も笑うようになって健斗は少しホッとしているのだが、その変化の原因を桜子の口からまだ聞いていなかった。以前に比べるとだいぶ話しかけやすい雰囲気になってきているので、今朝はそれを聞いてみようと思っているのだ。
「おはよう」
「あっ、健斗、おはよう」
「おう、健斗、おはよう、ちょっとこっち来いや」
何故か今朝の小林家の玄関には、浩司の姿があった。恐らく昨日退院して来たのだろう、久しぶりに見た浩司はさらに痩せていて歩き方も頼りなかったが、顔色は良く調子がよさそうに見える。
その浩司に腕を引かれて店の横に連れて行かれると、健斗は浩司に徐に両肩に手を置いて正面から目を見つめられた。
「俺の留守中、ありがとうな。お前があの子に笑顔を取り戻させてくれたって聞いたぞ。本当に感謝している」
そう言われた健斗には全く身に覚えは無かったのだが、ここで否定してもしょうがないので、とりあえず頷いておいた。
「それから、お前にも俺の事を話すように桜子には伝えた。あとであの子から聞いてくれ。これからも頼むぞ。よろしくな」
今はやせ細っていて全く面影は無いのにも関わらず、そう言ってニカっと笑った浩司の顔には昔見た力強い笑顔の面影が残っていた。
それから健斗は桜子から浩司の話を聞いた。
病名、余命、もう治療はしない事、これからの予定やしたい事など、桜子は途中で何度も涙を零しそうになりながらも、健気に耐えて健斗にすべて教えた。
それを聞いた健斗は、桜子が一時期笑わなくなった理由、また最近笑うようになった理由を理解した。そして、それを知った時に桜子の強さを思い知って、自分ならどうだろうかと考えていた。




