第81話 引退勧告
7月上旬。
桜子は水泳部の顧問、根竜川に呼び出されていた。
現在3年生の桜子は、8月の大会を最後に引退することになるのだが、桜子は春からほとんど水泳部の練習に参加できていないので、このままでは最後の大会にも参加できそうにない。
平日の放課後は家業の手伝いのためにすぐに家に帰る生活が続いている。それでも店が休みの日曜日に一人でプールに行って練習しているのだが、やはり練習不足なのは如何ともしがたく、最近は全くと言って良い程タイムは伸びていないので、このままでは予選にすら出場できないのは目に見えていた。
今日、根竜川とはこれからどうするのかを話し合っていた。
根竜川には桜子の担任を通して父親の病気の事や家業の手伝いの事が伝わっているのだが、それでも彼女は桜子の事を勿体無いと思っていた。昨年に自由形から背泳ぎに転向した後も順調にタイムを伸ばしていた桜子は、このままいけば県大会も夢ではないと言われていたのだが、今の時期でこの成績では、恐らくもう挽回は出来ないだろう。
「なぁ、小林、お父さんの具合はどうだ?」
「はい、いまは入院して治療していますが、まだどうなるか……」
「…… そうか、すまん、答え辛い事を訊いてしまったな…… それで、今日はお前に少し話がしたくてな、夏の大会の事だ」
「はい、わかっています……」
根竜川が久しぶりに会った桜子は、以前とは様子が違っていた。
以前は何もなくても常に微笑んだような表情をしていたのだが、いまの彼女にはその面影は全く無く、いつも暗く沈んでいるように見える。もっとも、父親が病気で大変なのだから、平気でへらへらしている方がおかしいのだが、それにしても彼女の顔には悲壮感が溢れていて、見ている方が心配になるほどだ。
そんな彼女を見ているととても気の毒に思うのだが、それでも今日は根竜川にはどうしても言わなければいけないことがあった。
「なぁ、小林、お前が家庭の事情で部活に参加できないことは良くわかっているし、お父さんの事も気の毒に思う。それでも、これは伝えなければいけない事なんだ。聞いてくれるか?」
「……はい。どうぞ」
「2年の坂田も背泳ぎ専門なのは知っているな?」
「はい、知ってます。坂田さんとはよく一緒に練習していましたから」
桜子にそう言われた根竜川は、少し大きく息を吸うと思い切るように一気に言い切った。
「すまんが、来月の大会の背泳ぎは坂田でエントリーさせてもらう。小林、お前には悪いが、今のお前よりも坂田の方がタイムが上なんだよ。わかるな?」
「……はい、わかりました……」
それは事実上の桜子への引退勧告だった。
桜子は根竜川に呼び出された時から、来月の大会の話をされることはわかっていた。
桜子はここ3か月間ほとんど部活に出ていないので、そんな幽霊部員のような自分が真面目に練習している他の部員を差し置いて大会にエントリーできるとは元から思っていなかったし、実際のタイムも今ではもう後輩の坂田の方がずっと上なのだろう。
根竜川の辛そうな顔を見て、桜子は彼女の気持ちを察してすぐに了承したのだった。
今ではすっかり水泳部の幽霊部員と化していたので、普通であればとっくにクビになっていてもおかしく無かったのだが、根竜川の計らいで部員のままでいさせてくれた。そして時間のある時に自由に練習に参加していいとも、8月以降も泳ぎたければ自由に来ていいとも言ってくれた。
「おまえの気持ちはよくわかるのだが…… すまんな……」
桜子には根竜川の優しさが伝わってきた。
しかし、3年間頑張って来た桜子の水泳部生活は、事実上これで終わりになったのだった。
教室に戻ると、舞と光が駆け寄って来た。
今は舞とは別のクラスなのに、どうしてここにいるのだろうと、ぼんやりと桜子が考えていると、舞と光がいつもの調子で話しかけてくる。
「ほらっ、元気出しなさいよ!! そんな暗い顔はあなたには似合わないわよ」
「そうだよ、ほら、笑って笑って!!」
舞と光にも父親の病気の事は話してある。もちろん、がんの事や詳しい事までは話していないが、放課後はすぐに家に帰らなければいけない事や、休みの日も見舞いに行っていて家にはいない事などだ。
「二人とも、ありがとう。部活はクビにはならなかったけど、夏の大会には出られなくなっちゃったよ」
「そうかぁ、残念だね…… でもこれで中学校生活最後の夏休みが自由になったと思えばいいんじゃない? そうだ、夏休みに一緒に海に行きましょうよ。私とあなた二人なら男どもを悩殺できるわよ」
「マイマイ…… 悩殺って…… それはちょっと」
光が舞の突っ込みどころを探しているのだが上手くいかないようだ。桜子を無理に励まそうとしている舞のボケには、いつもの冴えはなかった。
「あら、こうちゃんのロリボディも一部のマニアには堪らないと思うけど?」
「ロリって言うな!! 太一くんは可愛いって言ってくれるからいいんだもん!!」
「あんたの体が可愛いって? うわっ、いやらしっ!!」
「ち、違うって!!」
「へぇ、宮沢くんってマニアだったんだ」
「マニアじゃないし!!」
「あははは……」
あまりにもくだらない漫才のような二人のやり取りを見ていた桜子が思わず笑い出すと、二人の顔に嬉しそうな笑みが広がった。舞も光も、最近笑わなくなった桜子の事が心配で堪らないのだが、彼女の父親の病気の事は二人にはどうにもならなくて、せめて笑わせることぐらいしか出来ないと思っていたからだ。
「やっぱり、桜子はそうやって笑っているのが一番可愛いよ。憂いがある顔もいいけどさ」
「そうそう、笑った顔が一番だよ。ねぇ、翔くん?」
近くで何の気なしに三人の会話を聞いていた富樫翔は、光にいきなり話を振られて挙動不審になっている。
「ねぇ、なんか言いなさいよ、富樫くん」
舞に急かされた翔は、いきなり何を言えばいいのかわからなくなって、目の前の三人の顔に目を泳がせた。それでも、何か言わなければいけないと思った翔は、とりあえず言ってみた。
「そ、そうだな、桜子はいつも可愛いと思うぞ」
「…… そういう事じゃなくて……」
相変わらずの富樫翔だった。
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桜子、いや秀人が母親の昌枝に会ってから二か月が過ぎていた。
その間、幸はずっとあの時の桜子の様子が気になっていたのだが、桜子の患う二重人格の病気の事もあって、なかなか自分の気になっている事を桜子に訊くことが出来ないでいる。
あの一件以来、幸はもう既に忘れていた過去の事を頻繁に思い出すようになっていた。
いや、それは忘れていたのではなく、思い出さないようにしていただけなのかもしれない。
幸には三歳下の弟と五歳下の妹がいる。弟とはもちろん秀人の事なのだが、妹は神保咲という名前で、現在は遠くに嫁いでいて会うのは年に一回程度だ。
幸は小さい頃、弟の秀人と仲が良くて、よく一緒に遊んでいた。しかし秀人が小学校に上がったころから、躾と称する父親の暴力が目立つようになってきて、よく秀人が父親に掴まっているのを見ていた。
その頃の幸はまだ小さくて、自分以外の事を考える事ができなかった。
弟が父親に掴まっている間は自分にその矛先が向くことが無かったので、弟には悪いと思いながらも自分の防波堤のように思っていた。時々母親が弟の事で父親に盾突くことがあったが、その度に母親も自分も殴られた。だから母親には弟を庇うなと言った。
父親は外面は良かったが、家の中では傲慢で陰湿な人間だった。
母親が弟の事で父親に意見すると、必ず自分達娘二人を人質にとった。弟の躾をさせないのなら、代わりに娘二人に同じことをするぞと母親を脅すのだ。
弟は家の中ではいつも一人だった。
初めの頃は父親に殴られる度に泣いて母親に助けを求めていたが、その内に何も言わなくなった。まるで人が変わったように目付きが鋭くなり、話しかけても無言で睨みつけて来るようになった。その姿が恐ろしくて自分も妹も弟に話しかけることが出来なくなっていた。
そんなことが、自分が短大に入ってすぐに父親が死ぬまで続いた。
父親の葬式は、参列者は皆悲しんでいたが、長男は最後まで姿を現さないし、遺族は全員能面のように無表情で涙の一つも流さない、そんな奇妙な葬式だった。
きっと自分は弟に恨まれているだろうなと思っていたのだが、それを確かめることがないまま、弟は突然この世を去った。
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浩司の2回目の抗がん剤治療が始まって2週間が過ぎた。
前回とは違う薬剤の効果はまだ不明なのだが、相変わらずの副作用に浩司は苦しんでいる。それでも家族の為に少しの可能性に賭けようと思う浩司の思いは強く、今回は泣き言も言わずにジッと無言で耐えていた。
絶えず襲い掛かる吐き気と嘔吐、口の中に多数出来た口内炎の痛みでろくに食事もできない日々が続いて、さらに体重は落ちている。このままではがんよりも先に餓死するのではないかと、浩司が洒落にならない冗談を言いたくなる気持ちも十分理解できるほどやつれていた。
だるさに支配されて酷くむくんだ全身は、毎日1時間かけて桜子がマッサージを施してくれるのだが、浩司はそんな事より学校や部活を優先しろといつも言っている。
しかしそんな浩司の言葉にも桜子は優しく微笑むだけで、一向に浩司の言う事を聞こうとはせずに、毎日通って来ては父親の世話を焼き続けている。そんな娘の献身的な様子を見ていると、この子を残してこのまま死ねないと、浩司は心の底から思うのだ。
7月下旬。
浩司の2回目の抗がん剤治療が終わった。
薬剤の投与を終えて数日経っていたので浩司の調子も少し良くなっていて、熱は引いて、吐き気も治まり顔色も良くなった。
そんなある日の午後、浩司と楓子は担当医師から検査の結果を聞いていた。
「はっきりと申し上げますが、今回の抗がん剤も効果が見られませんでした。」
「……そうですか……」
医師のその言葉は、この一ヵ月の苦労が無駄に終わった事を意味していたのだが、浩司も楓子もそれに関しては何も言わなかった。もともと治療開始前にそれは言われていた事だし、この医師だって好きでこの薬剤を勧めた訳でもないだろう。
いまの浩司の状況は決して良いものではなかった。
一ヵ月前に比べてリンパ腫の全身への転移がさらに進んでいて、言わば全身が病巣になっている状態と言っても過言ではない。そして当初の余命6ヵ月は今では残り4か月までになっている。
医師の説明の内容は悪い事ばかりしかなかったのだが、中にたった一つだけ良い知らせがあった。
「これは希望というか、小林さん次第の話になるのですが……」
「な、なんですか、なにか希望のある話があるんですか!?」
躊躇いがちに言った医師の言葉に、楓子が即座に反応して食いついた。その迫力に医師の顔には一瞬戸惑いの表情が生まれたのだが、楓子は構うことなしに続けている。
「お願いです、何でもいいんです、なにか出来ることがあるのなら教えてください。お願いします!!」
「わ、わかりました。これはあくまでも、こういう方法もある、という前提で聞いて下さい。いいですか?」
医師は楓子の迫力に若干仰け反っていたのだが、改めて姿勢を正すと神妙な顔つきで話し始めた。
「小林さん、自由診療と言う言葉を聞いたことがありますか?」




