第80話 彼女の父親の頼み
6月下旬。
2週間前、楓子は桜子が彼女の胸の中で泣いた後に父親の病状を詳しく説明したのだが、桜子は特別取り乱したりはしなかったし、余命があと6ヵ月だと聞いた時もそのまま黙って聞いていた。
もちろん内心では当然のように様々な感情が渦巻いていたのだろうが、それらを表立って表現することも無く、淡々と楓子の話を聞いていた。しかしさすがに溢れる涙を止めることは出来なかったようで、無言で頷きながらもその青い瞳からはポロポロと大粒の涙が零れていた。
そんな桜子の様子を見つめていると、もしかしたら桜子には何か予感めいたものがあったのかもしれないし、そのための覚悟も既にしていたのかもしれない、そう楓子は思わずにはいられなかった。
浩司が抗がん剤治療を始めて一ヵ月が経過した。
浩司は相変わらず激しい嘔吐と食欲不振、下がる事の無い発熱に悩まされている。
今回の入院では病室は個室を選んでいた。日夜を問わず襲い掛かる吐き気と嘔吐は、相部屋だと他の患者に気を遣う事になるので、個室を選ぶことを医師が勧めたのだ。実際に治療が始まると、その選択が間違っていなかったことを痛感していた。
浩司は昔からかなり我慢強い性格をしているのだが、昼夜を問わず襲い掛かる副作用の辛さに、楓子と二人きりの時には、泣き言を漏らすようになっている。
「なぁ、もうこんな事、やめにしないか…… 薬が俺には合わないようで、ちっとも良くなっていないようだし……」
今日の午前中に、一ヵ月間の抗がん剤の効果を医師から知らされたのだが、がんは小さくなるどころか大きくなっていて、さらに転移も進んでいた。身体の至る所に腫瘍マーカーが見られたし、今では両脇の下と耳の下にしこりも出来ている。
医師の勧めでは、別の抗がん剤に切り替えてまた一ヵ月間効果を見ようという事なのだが、またこの先一ヵ月も入院してあの苦しみを味わう事を考えると、浩司は及び腰になっていた。
「どうせ助からないのなら、治療をやめてまだ身体が動くうちに好きな事がしたいよ……」
今は延命するために抗がん剤に頼っているのだが、その副作用で具合が悪くて寝たきりになり、何一つ好きな事もやりたい事も出来ないのは本末転倒なのではないか。6か月の命が1年に延びたところで、ただ寝たきりの期間が長くなるだけならば全く意味が無いのではないか。
「そんな事を言わないで…… 私たちはあなたに生きていて欲しいの。私もあの子も、お義母さんもみんなそう思っているのよ……」
ベッドの横に置いた椅子に座って夫の痩せて頬骨の目立つ顔を見つめながら、楓子も迷っている。
確かに浩司の言う通り、今なら治療をやめても体は動くので浩司の自由に出来る時間はまだ多く残っているだろう。しかし、治療をやめた先に待つのは確実な「死」なのだ。
しかし、残り少ない本人の自由な時間を奪ってまで延命させることは、生きて欲しいと願う家族のエゴなのではないか。ただベッドに縛り付けて生かすだけの行為に本人の幸せはあるのだろうか。
医師も言っていたのだが、抗がん剤が合うかどうかは試してみないと分からないので、時間をかけて試しても全く効果が無い場合もあるそうだ。現にこの一ヵ月間の治療の効果は全く無くただ無駄に副作用で苦しんだだけだった。
「ねぇ、お父さん、もしも治療をやめたとして、何をして過ごしたいの?」
楓子は最近少し顔色が良くなった浩司に訊いてみた。
次の治療プランが決まるまでの間一時的に抗がん剤の使用をやめたので、浩司は少し元気になっている。吐き気が治まって食事もできるようになったおかげで顔色は良くなったし、熱も引いたので立って歩けるようにもなった。
「そうだなぁ…… 今まで通りに仕事をして、家族と一緒にご飯を食べて、夜になったら酒を飲んで…… 普通に暮らしたいよ、いまはそれだけだな」
「旅行とかは? もし行きたければ付き合うわよ。私も行きたいし、桜子もお義母さんも喜ぶわ」
「あぁ、そうだな…… それもいいな……」
それにしても皮肉なものだ。治療をすれば副作用で具合が悪くなり、しなければ元気になる。こんなことがこの先も続くのであれば、本当に治療をやめて元気なうちに好きな事をさせてあげたいとも思うのだ。
しかし治療を諦めるのはまだ早いとも思う楓子は、何か楽しい事を思い浮かべて微笑んでいる夫の顔をただ見つめていた。
医師の勧め通り、浩司は別の抗がん剤による治療を開始することを決めたのだが、これは彼自身が決めた事で、家族の為に少しでも長く生きたいという決意の表れでもあった。
今回も4週ワンクールで様子を見ながらの治療になるのだが、前回同様終わってみるまで効果があるかどうかわからないので、本当にこんなことを続けていていいのだろうかと、楓子の気持ちは焦るばかりだ。こうしている間にも浩司の残された時間は擦り減っていくばかりだし、もしかすると副作用でただ苦しむだけの無駄な一ヵ月になる可能性もある。
それでも素人には判断できないので、こればかりは医師に任せるしかないのだ。
2回目の抗がん剤治療が始まるまでの4日間、浩司は一度退院して久しぶりに我が家へ戻っていた。
浩司は元々がっしりとした筋肉質の体をしているのだが、ここ2か月以上に及ぶ入院、手術、抗がん剤の治療により体重が激減していて、頬骨の目立つ顔は、すでに元の面影はなくなっている。
また、薬の副作用で髪が抜けてしまったので、いまは桜子が編んでくれたニットの帽子を一日中被っているので、久しぶりに会った酒店の常連客は、最初は浩司の事が誰だかわからなかったようだ。
「お父さん、何か食べたいものはない? あたしが作ってあげるよ」
桜子はすっかり痩せて骨ばった浩司を見ていると、さかんに何かを食べさせようとしてくる。いまは薬の副作用も治まっていて調子が良いとは言え、この数か月ですっかり胃が小さくなってしまったようで、食欲自体あまり湧かないのだ。
「それじゃあ…… カレーライスが食べたいな。桜子お手製のな。あの「鳴門巻き」の入ったやつ」
「うん!! わかった、なるとカレーだね!! 頑張ってとっても美味しいのを作るから、楽しみにしててね!!」
浩司は自分のリクエストを嬉々として聞く桜子を眺めながら、この先もずっとこのままでいられればどんなに幸せなんだろうかと、しみじみと思った。
夕食に食べた桜子お手製のカレーライスはとても美味しかった。その味は浩司の心の奥まで染みわたるようで、憶えていた味の10倍は美味しく感じた。
「あぁ、やっぱり桜子のカレーは絶品だな。凄く美味いよ、ありがとう……」
薬の副作用が治まってからも食欲が戻っていなかった浩司にはあまり多くは食べられなかったが、一口食べただけでも本当に美味しいと思ったし、この先も桜子の作る料理を色々と食べたかった。
しかしそれも、もしかするとこれが最後かと思うと思わず涙が零れてしまった。
「す、すまん、カレーを食べながら泣くおっさんなんて、キモイよな…… 」
思わず涙を零した浩司と、あんなに大食漢だった浩司が、今ではこんなに少ない量しか食べられない姿を見て、桜子も楓子も、そして絹江も目を赤くしている。そんな家族の様子を見ていた浩司は、突然大きな声で宣言した。それはまるで自分に言い聞かせているようにも見えた。
「大丈夫だ、俺は必ず病気を治して帰ってくるからな。いままで通り、みんなで酒屋を切り盛りして楽しく暮らそうや」
「そ、そうだね。お父さんは必ず元気になるよ、絶対だよ!! あたしがそう言うんだから、間違いないよ!!」
「そうね、お父さんも桜子も本当の事しか言わないからね。必ず元気になるわよね」
「そうだ、浩司は必ず元気になって帰って来るさ」
皆涙を堪えながら懸命に明るく振舞っているのを見ていると、浩司はそんな家族の温かさ、優しさが身に染みて、余計に涙が止まらなくなるのだった。
夜になって皆が寝静まると、浩司はリビングで酒を飲み始めた。
久しぶりに飲む酒を味わいながら、浩司は一人で考えていた。
数日前に、元気なうちに何かしたい事は無いのかと楓子に訊かれたが、今の浩司には特にしたい事は無い。敢えてしたい事といえば、今まで通りの普通の生活だろう。
久しぶりに我が家に帰って来ると、今までの平凡な日常こそが自分の宝だったのだと気付かされたのだが、その日常もあと数日でまた手の届かない所へ行ってしまう。
自分が入院する間は、仕事を全て家族に任せる事をとても心苦しく思うのだが、特に不平も不満も何一つ言わずに仕事をこなして、家事もして、さらに入院する自分の世話までしてくれる楓子には、この先一生頭が上がらないなと考えていた。
もっともこの先一生と言っても、最早そう長くはないかも知れないが。
「こらっ、あまり飲んではだめですよ、病み上がりなんだから」
ウィスキーのグラスを手の中で回しながら物思いに浸っていた浩司は、背後に近付いて来ていた楓子には気付かなかった。浩司が振り向くと、寝間着姿で空のグラスを持った楓子が立っている。
「私もご一緒して、いいかしら?」
悪戯っぽい笑顔を浮かべた楓子が、浩司の返事を待たずに隣に座ると、浩司は差し出されたグラスにウィスキーを注ぎながら呟いた。
「一緒に酒を飲むなんて、久しぶりだな。なぁ、奥さん」
「そうね。私は酒屋の妻なのに、お酒は弱いから……」
楓子は浩司の肩に体重を預けると、チビリと飲み始めた。
朝に健斗が桜子を迎えに来ると、店の前で浩司が掃除をしていた。
「おはよう…… おじさん、もう退院したのか?」
健斗が不思議そうな顔をしながら浩司に問いかけたのだが、浩司は物静かに答えただけだった。いつもならここで頭をぐりぐりされるのだが、今朝は妙に神妙な顔をしている。
「あぁ、おはよう。またすぐに入院するんだけどな、数日だけ退院できたんだよ」
「そうなんだ…… また入院するのか……」
健斗にはそれに対してどう言ったらいいのかわからなかった。
「それでな、健斗、お前に頼みがある」
「あ、はい」
いつもの浩司らしくない神妙な顔つきと物言いは、それを真面目に聞かなければいけないと思わせるには十分だった。思わず健斗は背筋を伸ばしている。
「これから桜子は、時々泣いたり、塞ぎ込んだりするかもしれない。まぁ、原因は俺なんだけどな」
「うん……」
「そんな時は、あいつの隣でしっかりと支えてやってほしい」
「……」
「どうした? 返事は?」
「……うん、わかったよ」
健斗の顔に困惑と戸惑いの表情を見て取ると、浩司は健斗の背中を思いきり叩いて、朝の商店街に威勢のいい音を響かせた。
「しっかりしろ!! お前は桜子の彼氏なんだろう!? お前の彼女の父親からの頼みだ、あの子をしっかり支えてやってくれ、頼む!!」
浩司の気迫のこもった言葉と表情、それと背中の痛みに健斗は思わず叫んでいた。
「はい、わかりました!! まかせてください!!」
思わず大声を出した健斗を見つめながら浩司はニヤリと笑ったのだが、その表情には確かに昔の力強かった頃の浩司の面影が残っていた。
「だからと言って、まだ認めた訳じゃないからな!! これからのお前の頑張りに期待しているだけだ」
浩司と入れ違いに桜子が鞄を持って家から出てきたのだが、その表情は沈んでいて、なんだか元気も無さそうだ。
「おはよう…… どうした、何かあったのか? おじさんの事か?」
「えっ、あ、お、おはよう…… べつに何もないよ、いつものあたしだよ」
健斗には桜子が無理に平静を装っているのがすぐにわかったのだが、桜子が誤魔化そうとしているので、それ以上何も言わずにそのままにしておいた。健斗には恐らく浩司の入院のことで何かあったのだろうと予想はついていたし、今の彼女にはそれ以上の事はないと思っていたからだ。
「なぁ、桜子、さっきおじさんに聞いたよ。また入院するんだってな。大変だと思うけど一人で悩むなよ、俺に出来ることがあればなんでもするから……」
自分は健斗に何も言っていないはずなのに、どうしてこんな事をいうのだろう、と桜子はぼんやりと思いながら健斗の自分を気遣うような顔を見ていると、自然と涙が零れてしまった。
健斗はポケットからハンカチを取り出すと、桜子に手渡した。
「ほら、涙拭けよ…… おじさん、大変なんだろ? 話せるようになったら言ってくれよ、聞くからさ……」
「…… うん、ありがとう…… でも、もう少し時間をくれる?」
桜子の返答が、健斗の予想がそう外れていないことを証明していた。
彼女の様子を見ていると、浩司の状態があまり良くないであろうことは察しがつくのだが、健斗は桜子自身が話してくれるまでいつまでも待とうと思った。




