第79話 残酷な真実
5月中旬。
浩司は退院後の一ヵ月検診の為に病院を訪れていた。
最近の浩司は手術の傷も癒えて、まだ以前同様とはいかないが、今では普通の生活を送っていて以前と同じように一人で酒屋の配達にも出掛けていた。
まだ重い物を持たないように楓子に強く言われているのだが、「酒屋が重い物を持てなくてどうする」と言って全く聞こうとしない。しかし同じことを桜子に言われると「そうだな」と大人しく答える夫の姿を見ていると、楓子はこれから何かある時には桜子に言わせようと思っていた。
検査を終えると、浩司は一週間後に検査結果を聞くためにまた病院を予約した。
木村家で健斗の祖母に会ってから、桜子は寝る前に何度も秀人に会おうと思ったのだが、まだ一度も会えずにいる。
木村家での一幕は桜子も自分の視界で見ていたのだが、今回は何故か音も聞くことができた。低くてこもったような小さな音でとても聞き取りにくいのだが、確かに会話も聞くことができたのだ。
これはとても大きな進歩で、これからは桜子も秀人もお互いの身に起きている事を音声でも理解できるようになっていたのだった。
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5月下旬。
学校で進路相談があった。
桜子の定期テストの成績は学年で常に上から5番前後をキープしていて、もう少し頑張れば地域の公立高校のトップ校も合格できると言われている。安全を取れば2番目の高校も有りなのだが、はたしてどうするか、なんとも贅沢な悩みだと言えた。
それに対して健斗は相変わらず中の中~下辺りの順位をうろうろしていて、いまさらどう頑張っても桜子と同じ高校に行けるような成績では無いようだ。また、部活でも柔道推薦を狙えるような成績も残せていないので、このまま実力に合った公立校を目指すことになりそうだった。
「桜子、ごめん…… 俺、お前と同じ高校は無理っぽいよ」
「大丈夫だよ。もちろん同じ学校に行きたいと思っているけど、もしも学校が違っていても家は近所だから会おうと思えばいつでも会えるし。今とそんなに変わらないでしょ?」
確かに朝は毎日二人で一緒に学校へ行っているが、クラスが違うので学校ではあまり話す機会も無いし、放課後もそれぞれが部活の練習に参加しているので、いまでは別々に帰ることが多い。
しかし、もしも違う高校に行くことになったとしても互いの家は歩いて10分も離れていないので、平日の夕方や休日に会おうと思えば幾らでも会えるのだ。
そう思えば幾らか気が楽になる健斗なのだが、やはり桜子の近くにいられない時間が増えるのは少し不安だった。
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病院の検査結果を聞きに浩司と楓子が病院を訪れていた。
前回同様、初めに楓子が呼ばれて診察室に入ったのだが、前とは違って10分経っても浩司の名前は呼ばれなかった。気になった浩司が扉の前でうろうろしていると、診察室の中から大きな物音が聞こえてきた。
「小林さん、すぐに中へ入って下さい!! 奥さんが!!」
診察室の扉が勢い良く開いて看護師が慌てて名前を呼びに来たので、浩司が急いで中へ入って行くと、そこでは楓子が背後の書棚に寄り掛かって倒れそうになっていた。それを医師が横から支えているのだが、楓子は今にも崩れ落ちそうになっていて、顔色も真っ青だ。
「ど、どうした、楓子、大丈夫か!?」
その様子に尋常ではない空気を感じながら、浩司が医師から妻を受け取るとゆっくりと背後のベッドに座らせた。浩司は楓子の様子を注意深く観察したのだが、その顔は真っ青になっていて、目が大きく見開かれている。
しばらくすると楓子は浩司に腕を支えられていることに気がついて、慌てたように口を開いた。
「ご、ごめんなさい…… ちょっと眩暈がして……」
そんな二人の様子を気に掛けながら、医師が遠慮がちに楓子に声をかけた。
「奥さん、どうしますか? ご主人と一緒に続きを聞かれますか? なんなら、隣の部屋で休んで頂いても結構ですよ?」
彼女は、一体ここで何を聞いたのだろうか。
楓子の様子を見ていた浩司は、凄まじい不安の渦に巻き込まれそうになりながら医師に向かい合った。いつも冷静な楓子がここまで取り乱したのだ、間違いなく自分の病状は良くないのだろう。
「だ、大丈夫です。私も主人と一緒に聞きます。病名も話してあげてください……」
楓子が息も絶え絶えに伝えると、医師は一つ大きな深呼吸をすると、目の前に座った浩司に告知した。
「…… わかりました。では、これから私が言う事を落ち着いて聞いて下さい。いいですね?」
浩司はこの医師とはだいぶ打ち解けていて、今では冗談混じりに話をする事も多いのだが、いまの妙に改まった医師の様子は、これから告げられる事の重大さを感じさせた。
「あなたはがんです、悪性リンパ腫と言われる種類のがんです」
浩司は一ヵ月前に左の腎臓を摘出した。
すでにステージ3の腎臓がんなので摘出するしかなかったのだが、実際に取り出してみると周りの臓器や血管、リンパ節には目視での浸潤は見られなかったので、概ね大丈夫だろうと言われていた。
楓子はその結果を聞いて、浩司には本当の病名は伏せたままだった。
しかし術後一ヵ月の検診で、実は悪性リンパ腫を併発している事が分かったのだ。リンパ腫はすでに数か所に転移していて、無治療の状態での余命は6ヵ月と言われた。
浩司は楓子の様子からある程度の覚悟をしていたらしく、病名と余命を聞いても取り乱すこともなく表面上は淡々と医師の説明を聞いている。
悪性リンパ腫は血液のがんなので、外科手術で取り除くことはできない。
臓器のがんのように切って終わりという訳にいかず、基本的に抗がん剤治療がメインになり、抗がん剤の投与は4週がワンクールで、それも効き目を確認しながら薬剤の組み合わせを変えていく。
そして抗がん剤には副作用があり、吐き気、嘔吐、下痢 、口内炎 、脱毛、発熱などで多くの患者が苦しむことになる。また、全ての薬剤が必ず効く訳では無く、がん細胞の種類や特徴、患者の体質などによって千差万別で、場合によっては全く効き目が無いのに副作用だけがある場合もあるのだ。
まずは基本的な抗がん剤を使用して様子を見ることになって、初回という事で念のために入院することになった。
浩司が夜に自宅で明日の入院の準備をしていると、桜子が父の背中に抱き付いて来た。
それは桜子がまだ小さかった頃の癖で、父親の背中を見つけるとよくその広い背中にじゃれて抱き付いて来ていたのだが、桜子が中学生になってからはしなくなっていた。
久しぶりに浩司は背中に桜子の温もりを感じると、とても嬉しくて、懐かしい顔をしていたのだが、桜子が何も言わずに背中で嗚咽を漏らし始めると、彼女の手を優しく両手で包み込みながら安心させるように話し掛けた。
「なぁ、別に死ぬ訳じゃないんだし、そんなに大げさにするなよ。ちょっと長い入院になるかもしれないが、大丈夫、必ず元気になって帰って来るから」
「…… ひっく、だって、お父さん、この前も…… ひっく、入院して手術したばかりなのに…… ひっく、また入院だなんて、心配だよ……」
「いいから、お前が余計な心配をしなくても大丈夫だから。すぐに良くなるから」
「…… うん」
浩司も楓子も、桜子には本当の病名も余命の事も伝えていない。
入院と治療プランが決まった後に、桜子に病気の事をどう伝えるかを夫婦二人で話し合ったのだが、結局本当の事を伝えることなく入院の日を明日に迎えてしまった。
桜子はもう中学3年生なのだから、浩司の病気の事を十分に受け止められるはずだと楓子は言ったのだが、浩司がもう少し待って欲しいと頼んだのだ。
医師には無治療の場合の余命は6ヵ月だと言われたが、抗がん剤治療が始まれば余命も伸びるかもしれないし、もしかしたら完治するかもしれない。だから、実際に治療を始めてある程度の見通しが付くまで桜子には伏せておきたい。
「あの子には、父親が死ぬかも知れないなんて思わせたくないんだよ」
浩司はそう言って寂しそうな笑みを浮かべていた。
浩司が入院して治療を始めると、桜子は毎日のように見舞いに訪れていたのだが、早速始まった抗がん剤の副作用に浩司が苦しんでいるのを連日のように見ていた桜子は、彼女なりに何か思うところがあったのだろうか、時々自宅のパソコンで何か調べ物をしているようだった。
6月中旬。
浩司が入院と抗がん剤治療を始めて二週間が経った。
相変わらず薬剤の副作用に苦しんで四六時中吐き気と発熱に苦しむ浩司は、既に体重が10キロも落ちて最近は髪も抜け始めている。しかし、投与中の抗がん剤が浩司には合わなかったらしく、目に見える効果は表れていなかった。
ここまでくると、さすがの桜子も最近疑問に思っている事を口にしてみた。
「ねぇ、お母さん、お父さんの病気の事なんだけど……」
何かを恐れるような上目遣いの表情で楓子に尋ねて来る様子に胸を痛めながら、楓子は彼女に本当の事を話すべきか迷っていた。毎日のように見舞いに行っている桜子には、父親が日々変わっていく様を見ているだろうし、最近は何かおかしいと思っているようだった。
「お父さんの、病気の事? どうしたの? 何か気になるの?」
楓子はもうこれは誤魔化せないと思っていたのだが、それでも何とかできないかと頭を悩ませていると、桜子がずばりと核心を突いてきた。
「ねぇ、もしかしてお父さんって、がん、なんじゃない?」
楓子は、桜子にいずれそう訊かれる事は覚悟していた。
最近彼女が頻繁にネットで調べ物をしていたり、図書館で調べ物をしているのを見ていて、恐らく彼女は気付いているだろうことはわかっていたのだが、それでも何と言って説明すれば良いのか、どこまで話すのか、問題を先延ばしにしていた楓子には、今この場では決められなかった。
「どうして…… そう思うの?」
「だって、おかしいよ、入院してからあんなに痩せて、いつも具合が悪そうだし。吐き気が酷くてご飯だって全然食べられてないし……」
「でも、病院の先生は、あれはお薬の副作用だって……」
「だから、それがおかしいよ、お願いだから誤魔化さないで。あたしだって馬鹿じゃないんだよ、あれって抗がん剤の副作用なんじゃないの? 見ていたらわかるよ!!」
「それは……」
楓子はもう誤魔化すことは諦めて、あとはどう説明すれば一番桜子の心に痛みを与えないかを考えていた。
「…… そうね、そうよね。あなたも知っていないといけないわよね。だから本当の事を話すわね」
楓子は覚悟を決めて、真実を話すことを決めた。桜子の年齢であればそれを受け止められると思ったし、なにより、彼女をこれ以上偽ることは楓子にはできなかった。
「いい? 何を聞いても驚かないで聞いてね。 ……そう、お父さんはがんなの。血液のがんだから手術では治せなくて、いまはお薬で治療をしてるのよ」
恐らく桜子はある程度予想していたようなのだが、こうして改めて楓子から真実を打ち明けられると、やはりその現実を受け止め切れないようだった。
「…… やっぱりそうなんだね…… どうしてあたしにすぐに教えてくれなかったの? どうして本当の事を教えてくれないの? あたしが子供だから?」
「…… あなたに余計な心配をさせたくないからよ……」
「余計ってなに? あたしが心配することは余計な事なの? あたしが心配しちゃいけないの!?」
桜子には珍しく、怒りの感情を表に出して楓子を見つめている。その両手は固く握りしめられ、自分の母親を詰問するかのように激しい言葉をぶつけてくる。
「あたしにも心配させてよ!! なにも教えてくれないから、お父さんが大変なのになにも出来なかったじゃない!! すぐに教えてくれていれば、何かできたかもしれないのに!! あたしだって家族なんだから、心配くらいさせてよ!!」
「桜子……」
楓子は桜子がここまで感情を露にするのを初めて見た。
眉を吊り上げて大きな声で人を糾弾する初めて見る姿が、まさか自分に向けられて来ようとは思ってもみなかった。
「これ、桜子、お母さんを責めてはいかん。お母さんだって辛いんだよ、どれだけ悩んで、どれだけの痛みなのか、お前にもわかるだろう?」
見かねた絹江が桜子と楓子の間に割り込んで穏やかに孫を諭している姿を見ながら、楓子は桜子が最後に叫んだ言葉を思い出していた。
「家族」
そう、私たちは家族なのだ。
嬉しい時、楽しい時、悲しい時、辛い時、全てを分かち合うのが家族なのだ。それを自分は桜子を悲しませないようにと、本人の意思を無視して勝手に真実を伝えなかった。確かに浩司の意向もあったのは確かだが、本人が言うように桜子も家族なのだから本当の事を知る権利があるのだ。
たとえそれが残酷な真実だったとしても。
絹江に諭されて感情の高ぶりが治まった桜子は、悲しそうな顔をして黙っている楓子に近付くと、彼女の胸におずおずと顔を埋めた。
「お母さん、ごめんなさい…… あたし、お母さんの気持ちは分かっているはずなのに、思わず叫んでしまって…… 一番つらいのはお父さんなのに…… でも、でも……」
楓子が優しく頭を撫でていると、桜子の肩が次第に震え出して、しゃくり上げる声が聞こえてくる。
「ごめんなさい、お母さんだって辛いのに、あたしは自分の事ばかり…… ひっく、ううぅぅ……」
桜子は楓子の胸に顔を埋めながら、幼い子供のように泣いていた。
楓子はその背中と頭を優しく撫でながら、桜子が泣き止むまで好きにさせていた。




