第77話 父の退院
浩司の入院については、健斗も桜子から聞かされていた。
もっとも桜子自身も病名を含めた詳しい病状を知らされていなかったため、母親の説明をそのまま伝えるにとどまっていたが。それには健斗も思うところがあったらしい。けれど、敢えて何も訊かずに桜子を慰めようとした。
「そうか、それは大変だったな。でも、手術は成功したんだろう? それなら大丈夫。すぐ元気になって、もとの生活へ戻れるよ」
「うん、そうだね、ありがとう。そう言ってもらえると安心するよ。それでね、これまで想像したこともなかったけど、お父さんのいない生活がこんなに寂しいなんて思わなかったんだ……」
そこまで言った桜子は、自身の失言に気付いて慌てて口に手を当てた。しかし時すでに遅く、それは健斗に聞かれた後だった。
健斗には父親がいない。それは彼が生まれる前に両親が離婚していたからだが、当然それは桜子も知っていた。なぜなら、二人は互いに1歳の頃からの幼馴染だからだ。
それにもかかわらず、たったの5日で「寂しい」とか「大変だ」などと愚痴をこぼしてしまった自分の無神経さに気付いた桜子は、健斗に対して心から申し訳なく思った。
「ご、ごめん健斗……こんなこと言っちゃって……本当にごめんなさい」
桜子は謝ったが、言われるまで健斗はまったく気にしていなかった。涙目になりながら頭を下げる桜子を見て、健斗は逆にすまなそうな顔をしてしまった。
「あ、いや、そんな顔をするなよ。別にぜんぜん何とも思ってないから。それに、俺だっておじさんがいないと寂しいからさ。『健斗、わかってるよなぁ?』って、毎朝のように頭をぐりぐりされてたし」
健斗は浩司の口真似をして桜子の気持ちを和らげようとしたが、あまりに似ていなかったため、逆に気まずい雰囲気になる。
暫し無言になる二人。不意に桜子が笑みをこぼした。
「ぜんぜん似てないね。健斗はモノマネが下手すぎるよ。あはは……」
健斗にしては珍しく、おどけた様子が面白かったらしい。思わず桜子が笑ってしまう。その顔を眺めながら、こんな時こそ自分が彼女を支えなければならないのだと、改めて思う健斗だった。
4月中旬。
浩司が退院した。
「今は開腹手術をしても5日間しか入院させてくれないのね」と、楓子は病院の対応にぶつぶつ文句を言う。それに対して浩司は、「これでやっと退屈な入院生活からおさらばできる」と喜んだ。
退院したとはいえ未だ傷口は塞がっておらず、仕事どころか歩くのさえ儘ならない。それでもやはり我が家に帰ってきたからか、浩司の表情は明るくなり、よく喋るようになった。
なによりも、娘の桜子が嬉しそうにしているのが浩司にとって一番の滋養だった。
浩司には隠していたが、実を言うと桜子はしばらく部活動を休んでいる。それは放課後に家業の酒屋を手伝うためである。
楓子は「気にせず部活動を優先しなさい」と言うが、桜子は頑なに聞き入れようとせず、「家族の危機は皆で乗り切るものだ」と逆に訴えかけるほどだった。
家にはいるが、しばらく浩司は仕事に復帰できそうにない。仮に復帰しても当分は力仕事をさせられないため、桜子はもう少し部活動を休むことになりそうだ。
◆◆◆◆
剛史が東出真由美の告白を断ってから3日。相変わらず「パンツ丸出し女」から鋭い目つきで威嚇され続けていた。
その状況にうんざりし始めた剛史は、偶然廊下で会った際に彼女の名前を尋ねてみた。
「おい、お前。名前を言え」
唐突に指差して剛史が言う。けれど相手はただ睨みつけてくるだけで何も言おうとしない。痺れを切らした剛史がさらに言葉を続けた。
「睨んでばかりいないで、名前ぐらい言えっての。このままじゃ文句も言えないだろ」
「……」
「わかった。それじゃあ、たった今からお前は『パンツ女』だ。そう呼ばせてもらう。異論は認めない、いいな?」
「な、なによそれ! それじゃあ、まるであたしが変態みたいじゃないの!」
「いや、変態だろ。そもそもお前さ、初対面の男へいきなりパンツ丸出しにしたのは誰なんだよ。お前だろ」
数多の生徒たちが通り過ぎる学校の廊下。そんな衆人環視のもと、「パンツ」と連呼する男女に幾つもの視線が投げかけられる。それに気付いた「パンツ女」は顔を真っ赤に染めて叫び出した。
「だ、誰が変態よ! あたしだって見せたくて見せたわけじゃないんだからね! さっさと忘れなさいよ!」
恥ずかしいのか、不意に視線を外す「パンツ女」。剛史がニヤリと笑う。
「お断りだ。なにせ貴重な女子のパンツだからな。未来永劫、記憶に刻み込んでやるから覚悟しろ」
「あ、あんたの方が変態じゃないの! なによ、パンツ、パンツって!」
「なら、名前を教えろよ。教えないならずっと『パンツ女』のままだぞ。いいのか?」
「うっ……あ、あたしは佐野琴音よ! ほら、これでいいんでしょ! 教えたわよ!」
「おう。それで佐野、なんで会う度に睨んでくるんだよ。いくらそんなことしたって、お前の友達とは付き合わないからな」
「呼び方! 佐野さんって言いなさいよ! いきなり呼び捨てなんて失礼でしょ!」
「それじゃあ、琴音。お前――」
「な、馴れ馴れしいわね! やめてよ、気持ち悪い!」
「いいじゃないか琴音。可愛い名前だぞ。お前によく似合ってる」
「なっ! そ、そんなこと言っても誤魔化されないんだから……」
そこまで言った琴音が急に黙り込む。その彼女へ剛史が余裕の笑みとともに尋ねた。
「で? なんだってんだよ。なんで睨んでくるのか理由を説明してもらうか」
「それは……」
琴音によれば、きちんと話もしないうちから告白を断るのはおかしい。そもそも「魅力を感じない」という理由には納得がいかないとのこと。
確かにそれは理解できる。誰から見ても東出真由美は可愛らしい少女だ。少々大人しすぎるきらいはあるが、それだって控えめで奥ゆかしい性格として好ましく思う者だっているだろう。
どうやら琴音はそれらを剛史に伝えたかったらしい。しかし周りに人が多くてチャンスを掴めなかった。
だからと言って、付け回した挙句に無言で睨みつけるのもどうかと思うが、不器用な性格の彼女にとってはそれが精一杯だったのだろう。
その彼女が言う。
「女のあたしから見ても真由美は可愛いと思うもの。なのにあんた、なんで振ったのよ?」
「わかってねぇなお前。可愛いとか可愛くないとか、そういうことじゃねぇんだよ。そもそも男ってのは――」
そこまで言った剛史は、突然したり顔になって琴音に指を突き付けた。
「まぁいい。それはそうと、お前、男と付き合ったことないだろ?」
その言葉を聞いた途端に、琴音が両手を握り締め、顔を赤くしながらぷるぷる小刻みに震え始めた。そしてやっとのことで口を開いた。
「い、いまそれは関係ないでしょ! あたしが話してるのは――」
「琴音。お前、可愛いな」
「な、な、な、なに言ってんのよ! ば、ば、ば、馬鹿じゃないの!?」
「俺さ、お前みたいなタイプのヤツと付き合ったことがないんだよ」
「だ、だからなによ!?」
「俺と付き合わないか? いまちょうどフリーなんだ」
「な、な、な、なによ! 真由美がいるのに、そんなこと出来るわけないでしょ!?」
「じゃあ、あの子がいいって言ったらいいのか?」
「いや、だから、そういうことじゃなくて……」
自分が何を言われているのか。途中で気付いた琴音が両目を大きく見開いて剛史を見つめる。それまで睨みつけるような表情しか見せていなかった琴音だが、改めて見るとその顔は可愛らしかった。
「じ、冗談でしょ!? そうよね!? そうだと言いなさいよ!」
「馬鹿を言うな。こんなことで冗談なんて言うかよ。俺はお前に興味を持った。だから俺と付き合えと言っている」
絶えず浮かべていた薄笑いを消し去り、剛史が真面目な顔で琴音に歩み寄る。怖気づき、後ずさりしながら琴音は逃げ道を確保しようと躍起になった。
剛史が言う。
「はっきり言わないとわからんか? なら言ってやる。――俺はお前が好きになった。いますぐに返事をしてくれとは言わない。友達からでもいいから俺と付き合ってほしい」
ここ最近、それも数日前に聞いたばかりの告白文句。しかしそれどころではない琴音は気付かずに、ひたすら逃げようと必死になる。
剛史がさらに踏み出そうとした一瞬、その隙をついて琴音は走り出した。
「お、憶えてなさいよ!」
定番過ぎて手垢のついた捨て台詞。それを吐きながら琴音が走り去って行く。
慌てた走り方のせいでスカートの裾からチラチラと下着が見え、見送った剛史の口から言葉が漏れた。
「今日も白か……」




