第76話 天使の頬ずり
浩司の入院と手術については、その日のうちに楓子から桜子へ伝えられた。
お腹の中に腫瘍が見つかったこと。
悪くなる前に念のため手術で取ってしまうこと。
取ってしまえばすぐに治ること。
手術は簡単なもので、入院期間は5日ほどであること。
もとより心配性の桜子である。楓子は努めて平静を装ったものの、説明を聞いた途端に桜子は不安と戸惑いを顔に浮かべた。
明日には入院するというのに、浩司がいつもと変わらず仕事を続ける。桜子はその背へ突然抱き着き、「早く帰って来てね」と泣きべそをかいた。
娘の頬を伝う涙を浩司が指で拭って優しく語り掛ける。その様子を見ていた楓子は、目の前の景色が涙で崩れていくのを必死に堪えるしかできなかった。
その日の夜、桜子は夢を見ていた。
目の前には秀人がいる。何か思うところがあるのか、見れば顔には苦渋の表情が浮かび、眉間の皺はいつもの5割増しだった。
「よう、元気そう……でもないか」
なにやら歯切れの悪い話し方。桜子の境遇を察しているらしく、果たしてどう切り出したものかと迷っているらしい。その彼へ桜子が答える。
「うん……お父さんが病気でね……明日手術なんだ」
「そうか……それは心配だな。それで、どんな病気なんだ?」
「なんかね、腎臓に腫瘍ができたんだって。悪くなる前に手術して取るって言ってた」
「腎臓に腫瘍……だと? あのやろう……ふざけやがって!」
聞いた途端に秀人は、口汚く誰かを罵り始めた。まるで親の仇でも見るような憤怒の表情を浮かべ、口からはギリギリと音が聞こえてくる。
「桜子に罪はねぇ! なのに、そこまでするのか、あのクソジジイ!」
「えっ? なに? なんの話?」
一体何を言っているのか。誰を罵っているのか。何一つ理解できずに、桜子がきょとんとしてしまう。気付いた秀人は取り繕うように表情を和らげた。
「あ、いや……なんでもない。――いいか桜子、何を言っているかわからないかもしれねぇが黙って聞け。これだけは言っておく」
「なに?」
「これから何が起きようと、決して自分や家族を責めるな。いいか、まったくお前のせいなんかじゃないんだからな」
「えっ……? ごめん、鈴木さん。何を言ってるのかわからないよ」
「まだわからなくていい、これからの話だからな。そうなった時に今の言葉を思い出せ。いいな」
それだけを告げると、返事も待たずに秀人が消えていく。その空間を見つめたまま、桜子は言葉の意味を考えていた。
再検査の結果を聞くために楓子は病院を訪れていた。前回同様に浩司には席を外してもらい、先に楓子だけが医師から説明を受ける。しかしその内容は容易に受け入れられるものではなかった。
腎細胞がん。その病名が物々しく医師の口から告げられる。
実際に患部を開いてみなければ断言できないが、恐らくはステージ3だろう。腎臓の全摘出が必要なほどで、場合によっては付近のリンパ節にも転移している可能性がある。
可能な限り手術を急がなければならない。急き立てるような医師の物言いは、それだけ事態の切迫を端的に表していた。その事実に楓子は思わず取り乱しそうになる。
一体どうすればいいのか。予想を超えた病の重篤性と家族への説明。そして家業である酒屋の経営。そもそも本人へは何と告げればいいのか。
思わず楓子が頭を抱えそうになっていると、医師がさらなる追い打ちをかけた。
「ご主人へ病名を告知しますか?」
いま、この場でその選択を迫るのか。
思わず医師を引っ叩きたくなる楓子だが、ふと隣を見ると女性看護師と目が合う。彼女がゆっくり首を振るのを見ていると、少しずつ楓子は頭が冷えていった。
熟慮と呼ぶにはいささか短すぎる時間の後に楓子は決心した。
手術でがん細胞を全摘出できるかもしれないのだから、今はまだ病名を告げるべきではない。
仮にがんが転移していれば隠せはしないが、今まだ病名を告げても告げなくても腎臓を摘出する事実は変わらない。
なにより、たったいま自分が味わったばかりの衝撃を夫には味わわせたくなかった。それに、嘘をつけない彼の性格では桜子に悟られてしまうのも時間の問題だろう。
そう思った楓子だが、絹江だけには病名を打ち明けた。浩司の実母である彼女には、真実を知る権利があると思ったからだ。
絹江は強い人だ。病名を聞いてもまったく狼狽えず、終始落ち着いて楓子の話を聞いてくれた。逆に楓子に対して気遣いを見せるほどである。
教えてくれてありがとう。そう礼を言い、一人で抱え込んではいけないと楓子を慰める。その姿には底知れない母親という存在を見せられた気がした。
◆◆◆◆
手術は成功した。
医師の診立てによれば、がん細胞は腎臓だけに留まっていたらしい。他の臓器、血管、リンパ節などへの転移は見られなかったので、予定通りにいけば5日後には退院できるだろうとのことだ。
楓子は二重の意味で胸を撫でおろした。それは浩司の病状がそれほど重くなかったのがひとつと、本当の病名を告げなくて済んだのがひとつである。
浩司の入院中は楓子と絹江の二人で酒屋の営業を続けていたが、さすがに腕力が必要な配達は無理がある。けれど「母一人には任せられない」と桜子がうんうん唸りながら重い酒瓶を運んでいると、行く先々で取引先の者たちが手伝ってくれた。
狭い商店街では瞬く間に噂が広まる。浩司の入院はとっくに皆の耳へ入っていたのだった。
娘の見舞いを楽しみにしている。そう浩司に聞かされていた同室の入院患者たちは、半ば彼を生暖かい目で見守っていた。
自分の娘が可愛いのは親の贔屓目を抜きにしては語れない。だから皆はその話を話半分に聞いており、それほどの美少女だというならば一度は会ってみたいものだと冗談半分にからかった。
そんなある日のこと。入院患者の一人が入り口から病室内の様子を窺う金髪の少女に気付いた。少女が会釈をしながら部屋の中へと入って来る。
「失礼しまぁーす……」
ふと患者は思い出す。娘は中学三年生だと聞かされていた。けれど目の前の少女はあまりに想像から逸脱している。
確かによく見れば未だ顔には幼さが残っているものの、すらりと高い長身とメリハリのある肢体は、およそ中学生には見えなかった。
今の桜子の身長は165センチである。色が白くて顔が小さい頭身の高いスタイルは、まるでおとぎ話の妖精のようで、存在感を主張するその胸の膨らみは、すでに中学生の範疇を超えていた。
大きく垂れ目がちな青い瞳は絶妙なバランスで幼さを演出し、滲み出る透明感と清楚さは直視するのをためらうほどの輝きを放つ。
部屋中の患者たちが桜子を凝視する。一瞬たじろいだものの、桜子は浩司を見つけた途端に満面の笑みを顔に浮かべて小走りに近付いて行った。
「お父さん、元気そうで良かったよ。手術の跡は痛くない?」
まだ起き上がれない浩司に優しく寄り添い、その頬に自身の頬でそっと触れる。浩司はそんな娘が愛おしくてたまらず、術後の痛みに耐えつつ笑みを漏らした。
「あぁ桜子、ぜんぜん痛くないから大丈夫だ。それより、わざわざ見舞いをすまないな」
「ううん、あたしにできるのはこのくらいだからね。お見舞いくらいなら毎日来るよ」
「いや、べつに毎日来なくてもいい。お前は学校も部活もあるんだしな」
「大丈夫だよ、このくらい。えへへ……お髭がちょっとチクチクする。でもあたし、これが好きなんだよね……なんか安心するんだ」
「そうかそうか。小さい頃のお前はこの髭を嫌がったもんだけどなぁ。いつも暴れて逃げていったっけ」
「そんなこともあったよねぇ。……あれはね、きっと照れていたんだよ。べつに嫌だったわけじゃないから安心して」
「ははは。そうか、そうだな。ありがとう桜子」
「えへへ……」
桜子がはにかむ様な笑みをこぼす。そうしながらも父に頬ずりを続けて「どういたしまして」と呟いた。
いつまでその姿勢のままなのか。さすがの浩司も遠慮がちに問いかけた。
「あのな、桜子。気持ちは嬉しいのだが……」
頬にチクチクと髭の感触を確かめながら、父の声を心地よく聞いていた桜子だが、その言葉を聞いてやっと顔を上げた。その彼女に浩司が続けて言う。
「悪いが、そういうことはカーテンを閉めてからにしてくれないか……」
桜子が慌てて周囲を見渡す。すると部屋中の視線が父親に頬ずりする自分に注がれていることに気付いた。




