第74話 父の腰痛
9月。
あっという間に夏休みも終わり、気付けば2学期が始まっていた。
休み明けに各教科の実力テストが実施されたが、桜子は当然のことながら、健斗もそこそこの成績を収めることができた。これはひとえに桜子のおかげである。怪我のせいで休み中はどこへも行けなかった健斗を、自宅デートと称して勉強漬けにしたのだから。
そのおかげもあって健斗は自己最高得点を叩き出すことができた。けれど桜子との隔たりは未だ大きく、このままでは同じ高校へ行けなくなるのも現実味を帯びつつある。
テーマパークへ遊びに行ってから、友里は二度ほど迫田と会っていた。二人は付き合っている。そう勘違いしている迫田を思い知らせてやろうと息巻いたものの、いざ陽気な笑顔を前にして友里は何も言えなくなる。
決して男前とは言い難いニキビ面。その顔が涙に濡れるのはあまりに忍びなく、結局友里は最後まで真相を告げられずにただただデートをしただけとなった。
休み明けに会った迫田はとても楽しそうだ。それを見た友里は、もうしばらく勘違いさせたままでもいいかと思い始めた。
10月。
桜子が背泳ぎへ転向してから初めての水泳記録会が開かれた。指導してくれた3年生はすでに引退していたが、可愛い後輩のためにわざわざ駆けつけてくれた。
春の大会への選抜も兼ねる、熱気に満ちた記録会。そこへ桜子が登場すると一斉に会場がどよめいた。
成長期真っ只中の桜子の身長は現在163センチである。これは中2女子の平均よりも6センチ高く、クラスの中でも2番目に背が高い。すらりと高い体躯は選手の中でも特に目立っていたが、注目の的はそこだけではなかった。
桜子はまた胸が大きくなった。春に健斗へカミングアウトしてからさらに一回り胸囲は増し、もはやその膨らみは見ただけで水の抵抗になるのが明らかなほどに顕著だ。
それが背泳ぎの際には二つの島のように水面に浮かぶのである。これは見るなと言う方が無理な話だった。男子にとっては。
このように容姿の話題が先行する桜子ではあるが、水泳のタイム自体も決して悪くない。いや、むしろ以前の自由形では、未だ2年生にして3年生さえ圧倒するほどのタイムを叩き出していた。もっとも成長著しい胸のせいで途中からタイムが伸び悩んでしまったが。
転向後の実力は如何なものか。同じ背泳ぎの選手たちが桜子の実力を見極めようとするのは当然のこと。特にライバルと目される者たちはその一挙一動から目が離せない。
中学2年生とは思えないほどの高身長と長い手足は、水泳競技に大きなアドバンテージがあるのは誰の目にも明らかだ。さらに今後の伸びしろも考慮するなら、桜子が今期の注目選手なのは間違いなかった。
そんなわけで、転向後初の記録会は滞りなく終了したものの、成績自体は可もなく不可もなく、平均的といったところ。もっとも背泳ぎへ転向して未だ2ヵ月である事情を鑑みれば、その成績は十分すぎるほどのものではあった。
ここ数ヶ月、秀人は一度も現れていない。
特に意識せずにいると次第にその存在を忘れがちになるが、そもそも出てこないということはそれだけ桜子の周囲が平和である証拠だった。
11月。
健斗の骨折が完治した。すっかり筋力の衰えた右腕を回復させるためには、まず筋トレから始めなければならない。右腕以外は普段から鍛えていたのでむしろ強化されていたが、やはり利き腕の弱体化は如何ともしがたく、柔道の組み手ではバランスが崩れて苦労した。
とはいえ春までは試合もないので、ここはじっくり時間をかけてもとへ戻そうと気合を入れ直す健斗だった。
気付けば友里と迫田の呼び名が変わっていた。
今では「友里」「耕史郎」と互いの名で呼ぶようになり、くわえて休みの日にも度々会うようになった。そろそろ友里は真実を告げようと思っているが、迫田の顔を見る度に言いそびれてしまい、結局はただのデートを繰り返していた。
12月。
クリスマスに皆でパーティーを開いた。メンバーは桜子、健斗、友里、耕史郎、光、舞、真雪の7名で、桜子の家に集まって簡単な食事とプレゼント交換をした。
パーティーと言っても大げさなものではなく、会費500円とプレゼントを持ち寄って、楓子が焼いたスポンジケーキを皆で飾り付けて食べただけ。それでも十分に賑やかで楽しい時間を過ごすことができた。
食事の後はお楽しみのプレゼント交換会。桜子は舞お手製の人形をゲットしたが、それはお世辞にも可愛いと言いがたい、どこかの民族の呪いの人形のような代物で、袋を開けた瞬間にギョッとしてしまった。
舞の得意げなドヤ顔を見ていると、どうやらそれはネタや冗談ではなく、間違いなく彼女渾身の力作に違いなかった。
プレゼントにはお金をかけない。そう事前に約束してあったので、代わりに皆は手間と知恵を絞って持ち寄った。
ちなみに桜子は手作りの巾着袋とサシェ(匂い袋)のセット、健斗は過去に貰ったものの使っていなかったハンカチ。などなど、ささやかではあるけれど、それらは皆の心がこもったものとなった。
1月。
元日に桜子と健斗が近所の神社へ初詣に出掛けたところ、偶然にも友里と耕史郎に出会った。
「明けましておめでとう、友里ちゃん、迫田くん。今年もよろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げて桜子が挨拶する。友里が慌てふためき、両手を振り回しながら「これは違う、断じてデートなんかではない」と勝手に言い訳を始めたが、桜子にはその真意がわからない。
狼狽する友里を宥めて束の間の立ち話をし、その後に健斗と桜子が立ち去ると、残された友里がぶつぶつと呟いた。
「絶対に誤解されてる……。これはデートじゃない。真実を伝えてないだけで、付き合っているわけじゃないんだから……」
などと言いながら、友里は雅やかな着物に身を包んでいる。美しくも愛らしいその姿は、どこから見ても恋人のために着飾っているようにしか見えなかった。
2月。
バレンタインデー。
今年のXデーは特に大きな混乱もなく粛々と過ぎていった。桜子と健斗が付き合っていることは今や周知の事実であるため、義理も含めて誰も桜子からチョコを貰えるとは思っていなかった。
もちろん健斗には桜子渾身の手作りチョコレートを渡した。
事前に何度も母親と練習し、父親にも毒見をさせたので自他ともに認める百点満点の出来である。自信満々に「むふぅー」と鼻息も荒く差し出したチョコレートは、食べるのがもったいないほどに素晴らしい出来栄えで、その味は甘味に疎い健斗にして感動のあまり涙にむせぶほどだった。
その日の夜。久しぶりに桜子は夢の中で秀人に会っていた。
とはいえ桜子が願ったわけではない。今回は秀人に用事があったらしい。
「よう、元気そうだな」
「お久しぶりです。鈴木さんも元気でしたか?」
「元気というか……俺はもともと死んでるけどな。平和すぎてしばらく出番がなかっただけだ。ともあれ、出番がないことは良いことだ。平和な証拠だな」
以前にも思ったことだが、最近の秀人は粗野さが影を潜めて、そこはかとない大人の落ち着きが感じられる。
最初は勘違いかと思ったが、こうして再会しても変わらないところを見ると決して気のせいではないのだろう。
その秀人に桜子が答えた。
「そうだね、最近はとっても平和だよ。事件なんてぜんぜん起きないし。こんな生活がずっと続けばいいね。――ところで鈴木さん、どうしたの? あなたの方から出てくるなんて珍しいよね」
「いや別に……しばらく話もしていなかったから、久しぶりにと思ってな。健斗とはどうだ? 上手くいっているのか?」
桜子の頬が薄紅色に染まる。そして小さく頷いた。
「う、うん……おかげさまで順調だよ」
「そうか、それは良かったな。ところでお前、これからどうするつもりなんだ? このままじゃ、あいつと同じ高校へは行けないだろう?」
「そうだね。正直、このままだと難しいかも……」
「しっかし、あいつも不甲斐ねぇなぁ。一体誰に似たんだ?」
「……ふふ、きっと鈴木さんなんじゃない? だって健斗の叔父さんなんでしょう?」
「あぁん?」
「じょ、冗談だよ! そんな怖い顔しないで!」
「ふふふ、冗談だ。そんなに怖がるなよ。にしても、お前はビビりだなぁ」
「ビ、ビビりで悪かったですね! 本当に怖かったんだから!」
「すまん、すまん」
それからしばらく二人が取り留めのない会話を楽しんでいる最中に、ふと桜子があることに気付いた。
「ん? そういえば今日はどうしたの? まさか世間話をするためだけに出て来たのではないでしょう?」
初めこそ躊躇したものの、問われた秀人は促されるままに話し出した。
「実はお前に頼みがあってな……。まったく急がないんだが、そのうち俺の母親に会ってほしいんだ。まぁ、無理にとは言わんが」
秀人が言いづらそうにポツリポツリと話し出す。それを見ていると彼が乗り気でないことがありありと分かるが、敢えて何も訊かずに桜子は承諾した。
「うん、わかったよ。鈴木さんのお母さんってことは健斗のお祖母ちゃんだね。でも最近は調子が良くないみたいだけれど……大丈夫かなぁ」
「あぁ知ってる。どうやら生い先はそう長くなさそうだ。だから今のうちにと思ってな」
目的を果たして満足したのだろう。それからほどなくして再び秀人は夢の中へと消えていった。
3月。
雪も解け、暖かい日差しが溢れてすっかり春らしくなったある日。小林酒店では浩司が酒瓶の入ったコンテナを運んでいた。
浩司は今年で58歳になる。そろそろ無理の利かない年齢になってきたが、健斗の顔を見る度に「まだまだお前には負けない。この先も桜子と仲良くしたければ、俺の屍を乗り越えて行け」と言う。
ここ最近は身体の節々が痛くなってきたし、筋肉痛の治りが遅かったりと何かと衰えを感じていたが、己のプライドに賭けて噯にも出そうとしない。
その日も楓子がレジで計算をしている時だった。店の倉庫から突然大きな音がしたので慌てて行くとそこに浩司がいた。在庫の棚に手をついて、顔を顰めながらもたれている。恐らく落としたのだろう、床には幾つかの商品が散らばっていた。
「ねぇ大丈夫? どこか痛くしたんじゃないの?」
初め楓子は浩司が棚の下敷きにでもなったのかと慌てていたが、現場を見て不謹慎ながらも胸を撫で下ろした。しかし当の浩司は腰に手を当て、顰め面のまま。その彼が言う。
「あぁすまん、驚かせたな。ちょっとよろけただけだ。大丈夫、何ともないから」
何ともないというわりには随分と渋い顔をする。そんな浩司が気になった楓子が注意深く観察していると、浩司が仕方ないとばかりに話し出した。
「最近ちょっと腰が痛くなることがあってな。今も急に痛みが走ってよろけてしまったんだ。だがもう大丈夫。このとおり平気だ」
楓子を安心させるためなのだろう。口では何ともないと繰り返しながらも、浩司の手は無意識に腰を擦っていた。




