第68話 一触即発
8月中旬。
ある日の朝。立花友里は家で暇を持て余していた。
長いようで短い夏休み。その前半は桜子が部活動で忙しく、ほとんど一緒に遊ぶことが出来なかった。
残念ながら桜子は水泳の県大会へ出場できなくなったため、幸か不幸か後半は暇になるはずだ。今日は健斗の応援に行っているはずだから、明日にでも連絡してみようと思っていた。
「あぁぁぁぁ、あついぃぃぃぃ、ひまぁぁぁぁ、甘いもの食べたいぃぃぃぃ」
腑抜けた友里がリビングでグダグダしていると、玄関チャイムが鳴って母親が出ていく。次いで玄関から声が聞こえてきた。
「ゆりー、お友達が来てるわよー」
はて? 今日は誰とも約束していなかったはずだが?
友里の頭の中が「?」マークで一杯になる。廊下ですれ違った母親が意味有り気な流し目を残していった。
あれは一体どういう意味だろう。
友里が怪訝に思っていると、玄関に立つ一人の少年が目に入る。
それは迫田耕史郎だった。
友里と同じクラスの男子で、剣道部に所属する地味で目立たない人物。ひょろりと背は高いものの、今どき流行らない坊主頭とニキビ面はお世辞にもイケているとは言い難い。
バレンタインデーに話しかけてきたのを切っ掛けに、その後も度々話すようになった。友里としては特段仲良くしているつもりもないが、最近は休み時間にくだらない会話をすることも多い。
もちろんクラスに仲の良い友人は幾人かいる。けれど一年生の時から同じクラスの迫田とは何となく話が合った。
その迫田が、なぜいきなり尋ねてきたのか。家に来るほど親しくなかったはずだが。
剣道の防具袋を持っているのを見ると、恐らくこれから部活なのだろう。しかしそれとここへ来る理由が結びつかない。
友里が怪訝な顔をする。迫田が少し慌てたように口を開いた。
「と、突然ごめん。俺さ、立花の携帯番号知らなかったから……とにかく家にいてくれて助かったよ。あぁ、住所は石井に教えてもらったんだ。驚かせたなら謝る」
石井とは友里と同じクラスの女子である。友里とそこそこ仲は良いが、迫田ともSNSで繋がる程度の仲らしい。
だからといって、断りもなく男子に住所を教えるのは如何なものか。もしや面白がっているのではあるまいな。
などと思った友里は、玄関先で所在なさげに立ち尽くす迫田へ糾弾する視線を向けた。
「で? なんであんたがいきなり家にくるわけ? なんか用でもあんの?」
「そ、そう邪険にするなよ。得になる話を持ってきたんだからさ。あ、あのさ、再来週なんだけど暇な日あるか?」
「は? ……何もないわよ。どうせわたしはいつも予定がない女ですよーだ! 悪かったわね!」
「そ、そうか、よかった。あ、あのさ、よければ遊びに行かないか?」
「……あんたとわたしで? なんで? どういうつもり?」
「い、いや、他に誰か誘っても構わない。隣町に新しく出来たテーマパークは知ってるよな? その半額券を親が会社から貰って来たんだ。10人まで一緒に使えるからさ」
友里が身を乗り出した。もちろんテーマパークの話は知っている。それどころか、夏休みの後半に桜子を誘って行こうと計画していたくらいだ。
まさに好都合。決して安くはない入場料が半額になるチャンス。これを逃す手はあるまい。
「いくいく! 再来週ね。何人か友達に声かけてみるよ」
「あ、あぁよかった。それじゃあ日時は後で相談しよう」
想像以上の食い付きに驚きながらも、迫田の顔に笑みが広がる。それから互いのSNSを交換して、部活動のために学校へ向かった。
「よしっ!」
友里の家から少し離れた路地裏。そこで迫田は小さくガッツポーズをするのだった。
◆◆◆◆
柔道の試合会場に隣接する階段の踊り場。そこで桜子は松原剛史に『壁ドン』されていた。
一般的に『壁ドン』は、した方がされた方を見下ろす形になるのだが、もともと高い上背と厚底サンダルのせいで、桜子の方が見下ろすという滑稽な状況に陥っていた。
唇が触れそうなほど顔を寄せ、剛史が指で桜子の顎を優しく押さえる。あまりに突然の出来事に反応できない桜子は、そのまま全身を硬直させた。
耳もとで剛史が囁く。
「なぁ桜子ちゃん。木村より俺の方が君を大切にできる。さっきだってあいつに酷いことを言われたんだろう?」
どうやら試合場での一幕を言っているらしい。剛史の整った顔に魅了的な笑みが浮かぶ。
「とても可愛いよ。君より綺麗な子は見たことがない。木村なんかやめて俺と付き合おうぜ」
よほど自信があるのだろう、自信満々の表情と態度で剛史が迫る。しかし桜子はそれどころではない。
「や、やめて下さい……離れて……」
「なんだよ、つれないなぁ。助けてあげたじゃない。少しは労わって欲しいもんだ」
言いながら剛史がウィンクする。大抵の女子はこれで落ちるが、桜子に限ってそうではないらしい。
見ればその顔は恐怖に彩られ、目には涙が溜まり、全身を小刻みに震えさせていた。その姿は追い詰められた子猫さながらである。
しかし剛史はむしろその姿に嗜虐心を刺激される。
思い通りにならないのなら、せめて虐めてやろうか……。
「あぁ、ごめんごめん。怖かったかい?」
剛史は勘違いしているようだが、実のところ桜子は、彼を怖がっているのではない。
先程の男といい、ここでのやり取りといい、既往症である男性恐怖症の発作が起こる条件は揃っている。現に彼女はその兆候を自覚していた。
こんなところで気を失えば健斗に迷惑をかけてしまう。これから大事な試合が始まるというのに、それだけは避けなければならない。
桜子が湧き上がる焦りに必死に耐えるが、それを露ほども知らない剛史は彼女が自分を怖がっているのだと思い込んだ。
「君みたいな可愛い子に拒絶されるとね……つい、虐めたくなっちゃうんだよ。ふふふ……」
もとより唇が触れそうなほどの距離である。剛史が桜子の顎を指んで、そのまま自身のそれに近づけた。
「おい、おまえ! なにしてやがる! 桜子から離れろ!」
突如、大きな怒鳴り声が聞こえてくる。
剛史がはっと振り向くと、階段の踊り場に健斗が立っていた。顔に憤怒の表情を浮かべ、手を小刻みに震えさせるその様は怒りの凄まじさが現れている。
「このやろう、 桜子から離れろって言ってんだよ!」
叫びざまに階段を駆け上がり、健斗が剛史の胸倉を掴み上げて左右に揺さぶる。しかし剛史は柔道の組手切りで払い除けて距離を置いた。
「なんだ、騎士様のお出ましかよ。まったく空気の読めない奴だな。ちょっと早すぎだろ。もう少しで唇を奪えたのに」
剛史が「ふふんっ」と顎をしゃくり、小馬鹿にしたような態度で健斗を見る。対して健斗はさらなる憤怒に身を震わせた。
「く、唇……だとぉ!? てめぇ……」
危うく健斗は「俺だってまだなのに」と言いそうになったが、既のところでとどまった。そして壁にもたれる桜子をしっかり受け止める。
「桜子、大丈夫か? 俺だ、健斗だよ。もう大丈夫、俺が守ってやるからな」
健斗が桜子の肩を抱きしめる。直後に身体から力が抜けて、桜子は地面に倒れそうになった。それを健斗が全力で抱き留め、ゆっくりと座らせると桜子が口を開いた。
「あぁ、健斗……。来てくれたのね、ありがとう……。ごめんね、あたしが無神経だったばかりに……」
「桜子は悪くない。悪いのは俺なんだ。恥ずかしいけど、俺は川村に嫉妬したんだよ……本当に悪かった」
再会に安堵し、次いで二人が謝罪を始める。罪悪感か安心感か、はたまた恋慕の情か。定かなことは不明だが、健斗と桜子がともにウルウルとした瞳で見つめ合う。小馬鹿にしたように剛史が吐き捨てた。
「ちっ、くだらねぇ。飯事かよ! ――もう俺は行くぜ。見てらんねぇよ、ったく!」
実際に吐きはしないが、唾を吐きそうな勢いで言い捨てた剛史が踵を返そうとしていると、その襟を健斗が掴んで叫んだ。
「謝れ! 桜子に謝罪しろ! あいつを怖がらせたことを詫びるんだ!」
「なんだ、このやろう! やんのか!? 俺に喧嘩売るってか! おう、上等だ! 買ってやろうじゃねぇか!」
売り言葉に買い言葉。剛史も健斗の襟袖を掴んで、まさに一触即発の状態になる。するとその間に割り込んでくる者がいた。それは金色の髪を振り乱した桜子だった。
どこにそんな力が残っていたのか。掴み合う二人の間に無理やり体を割り込ませて叫んだ。
「二人ともやめて! これから大事な試合があるんでしょう!? 喧嘩なんてしたら試合に出られなくなる! それだけじゃない、下手したら二度と柔道が出来なくなっちゃうのよ!」
「どけてくれ!」
「引っ込んでろ!」
「きゃあ!」
どんなに身体を張ろうが叫ぼうが、今や二人のつかみ合いは収まらない。まるで親を殺された敵のように互いの感情が先走る。
そしてついに拳がぶつかり合うかと思われたその時、突然ドスの利いた声が掛けられた。
「おい! てめぇらいい加減にしろ! 言うこと聞かねぇと、ぶち殺すぞ!」
容姿と人柄を表すような少々高めの可愛らしい声。しかしそこに言いようのない凄みが含まれる。
手を止め、驚愕の表情で固まる健斗と剛史。二人が同時に振り返ると、そこには変わらず桜子が佇んでいた。
しかしそれは本当に彼女かと疑わざるを得ない。なぜならその顔に、1歳からの付き合いである健斗さえも見たことがないほどの憤怒が浮かんでいたからだ。
彼女が叫ぶ。
「揃いも揃って、馬鹿ばっかだな! どうしてこいつの想いがわかんねぇんだよ! やめろっつってんだろ、このクソガキどもがっ!」
健斗と剛史が動きを止める。続けて目の前の状況を正確に把握しようと何度も目を瞬かせた。けれどどうしても理解できない。その現実に揃って二人が口をポカンと開けていると、さらに桜子が告げた。
「お前らの争いなんざ望んじゃいねぇ。こいつもこいつなりに思うところはあるが、事情はさっき言ったとおりだ。とにかく今は会場へ戻れ。そろそろ試合が始まる時間だろ? 違うか!?」
桜子――いや秀人は、最後に唾をペッと床へ吐き捨てた。
「そもそもお前らは柔道の試合をしにここへ来たんだろう? それなら喧嘩は畳の上でやれ! そこなら誰も文句は言わねぇし、邪魔だってしねぇだろうよ!」
この世ならぬ美貌の天使が、床に唾を吐いて汚く罵る。その光景が剛史には信じられなかった。
とはいえ単なる思い込みもある。自分が知らなかっただけで、そもそも桜子はこれが本来の姿かもしれない。
もしそうだとしたら、自分はとんでもない相手に手を出すところだった。驚きのあまり剛史は今や働きが鈍った頭で考えざるを得ない。
とはいえ、桜子の発言ももっともである。部活動中に暴力事件なんて起こせば間違いなく先はない。思うところはあるが、やはりここは大人しく引き下がるべきだろう。
「わ、わかった。ここは桜子ちゃんに免じて収めてやる。――おい木村、試合会場で待ってるからな。そこで決着をつけてやる。いいか、それまで絶対に負けんじゃねぇぞ」
驚愕のあまり未だ瞳は見開かれたままだが、桜子、いや秀人に諭された剛史は、勢いよく踵を返して走り去った。
その背を無言のまま見送る桜子と健斗。
健斗の驚きは如何ばかりか。これまでの13年間。ともに育ってきた中で一度たりとも桜子が汚い言葉を吐いているのは見たことがない。とても目の前の光景が信じられなかった。
もはや怒りさえも忘れ果て、ただ口をポカンと開けたまま恋人を見つめることしかできない。その健斗に桜子が怒鳴る。
「おい健斗、なにをぼさっとしてやがる! おめぇもだよ! そろそろ試合の時間だろぉが! 不戦敗になんかなってみろ、お前となんか別れてやるからな」
桜子に捨てられる。
その言葉が健斗を現実に引き戻す。再び秀人が怒鳴りつけた。
「早くしろ! 試合会場まで一緒に行ってやる! マジで時間がヤバい、このままだと失格だぞ!」
言い終わる前にぐいっと健斗の手を掴んで桜子が走り出す。まるで男のような大胆な走り方。そのせいで水泳で鍛えられた健康的な太ももがスカートの裾から垣間見え、その上の白い布地も見えたような気がした。
その光景を後ろから眺めながら、健斗は絶対に負けられないと誓うのだった。




