第66話 やきもちと八つ当たり
新キャラ出ました。
7月下旬。
一学期の期末試験も終わり、中学校は夏休みに入った。
健斗は桜子に勉強を教えてもらったおかげで、試験の手ごたえは悪くなかったらしい。結果は夏休み明けに判明するが、せめてそれまでは勉強から遠ざかろうと思う健斗だった。
もっとも桜子の「このままだと、一緒の高校に行けなくなるよ」との口癖には思うところもあるらしく、しっかり勉強しなければと自覚はしている。しかしどうしても柔道ばかりに力が入り、肝心の勉強は疎かになりがちだった。
もっとも今は8月の大会へ向けての稽古に取り組んでいる最中なので、せっかくの夏休みも勉強時間はおろか遊ぶ時間さえない状態だ。
対して桜子は、去年の夏休みは額の傷の手術と入院のせいで何も出来なかったので、今年こそは部活と遊びを目一杯楽しもうと期待に胸を躍らせていた。
8月上旬。
桜子は水泳の地区予選に出場したが、残念ながら上位に食い込めずに敗退した。
自由形でのタイムの伸びはこれ以上期待できない。わかっていたこととはいえ、ついにその結論に達した桜子は本格的に背泳ぎへ転向することを決めた。
そこで先輩に指導を受けるようになったのだが、見立てによれば、桜子は背泳ぎでも十分にやっていけるだろうとのことだ。ただし大会で予選を突破できるようになるまでは少なくとも半年はかかる。
たかが半年、されど半年。一年後には引退しなければならない桜子にとって、その時間は決して潤沢ではない。それでも閉塞感に苛まれていたこれまでに比べると表情は明るくなった。
健斗は柔道の県大会の個人戦への出場が決まった。中学に入ってから柔道を始めた初心者組にもかかわらず、2年生で県大会に出場を果たしたのは快挙と言っていい。これはまさに日頃の努力が報われた形だ。
水泳の県大会に出られなくなったので、代わりに健斗の応援に行けるようになった。そう桜子が伝えると、いつも仏頂面の健斗も顔に笑みを浮かべて喜びを露わにする。恋人が応援に来てくれるのがよほど嬉しいのだろう。
その様子を笑顔で眺めながら、桜子は手作りの弁当を差し入れしてあげようと思うのだった。
8月中旬。柔道の全県大会当日。
桜子はパンフレット片手に会場を目指して家を出た。試合会場までは電車で5駅。途中の移動を含めても1時間で少し余る程度である。
その日、桜子は一人だった。生憎と土曜日は家業である酒屋は営業日だが、心配した浩司が店を閉めてまで一緒について行こうとして桜子に断られてしまった。
自分はもう中学2年生なのだから、出掛ける度に親が同行するのはさすがに過保護が過ぎる。
そう諭された浩司は、渋々ながらも引き下がらざるを得なかった。
とはいえ、実のところ桜子は、いささかデリカシーに欠ける父親に健斗との時間を邪魔されたくなかっただけだったのだが。
本日の桜子の装いは、ひざ丈の薄い黄色のワンピースに踵のある茶色のサンダル。緩く三つ編みにした金色の髪を背に下ろし、手には日傘を持っていた。
白人種の常で桜子の肌は直射日光に弱く、夏は日傘を手放せない。小顔でスラリと背が高く、胸の大きい桜子が日傘で顔を隠していると、遠目には妙齢の清楚系美人に見えるらしい。
そんな彼女なものだから、電車の中はもとより会場までの道すがら、常に人々の注目を集めていた。
今日も今日とて、すでに二人から声を掛けられた。仕方なく日傘の影から顔を覗かせると、相手はまず桜子が白人であることにたじろぎ、次に幼気な少女である事実に驚き、最後に口から聞き慣れない言語が語られるに至ると誰もがすごすごと退散していった。
桜子は路上で見知らぬ者から声をかけられることが多い。いきなり英語で話し掛けられて答えに窮することも少なくなかった。
白人種だからといって、必ずしも英語圏の人間とは限らない。そもそも初対面の相手にいきなり英語で話しかけるのもどうかと思うが、いざ桜子が日本語以外を話せないのがわかると勝手にがっかりする。密かにそれが彼女にとって面白くなかったりした。
中でも困るのがナンパ目的の男達である。さすがに通報案件なので、桜子が中学生だとわかると退散していくが、なによりそこへ至るまでが面倒くさい。
だから見知らぬ相手にはウクライナ語で返すようにしている。もちろん桜子はウクライナ語なんて知らないし話せない。だから幾つかの短文を丸暗記しただけなのだが。
なぜウクライナ語なのか。それは以前に英語で返答したら相手から嬉しそうに英語でベラベラと返されてしまったことがあるからだ。あの時は本当に困った。
ウクライナ語ならば珍しいのでまず返されることはないだろう。という、東海林舞により発案された極めて適当かついい加減なアイデアなのだが、意外とそれが効果的だった。
会場についた桜子がキョロキョロと周囲を見渡す。すると背後から早速声をかけられた。
「はい彼女、どうしたの? 何か探してる? 俺たちが手伝ってあげようか?」
またか、と思ったものの、仕方なく桜子が振り向くと、いかにも軽薄そうな男二人がいやらしい笑みを浮かべて立っていた。
チラチラと胸を盗み見る淫猥な視線。溜息とともに桜子が日傘の下から顔を覗かせると、そのあまりの美少女ぶりに男たちがたじろぐ。次いで上物だと判断して、鼻を膨らませながら話を続けた。
「おおぅ、外人さんだったか。これはびっくり。それにしても君ってすっごい可愛いね。どこから来たの?」
「Ви любите макарони?」
もちろん桜子の返答はウクライナ語だ。
聞いただけで英語ではないことはわかるが、かといってどこの国の言葉かわからない。
意思疎通は難しい。自信満々だった男の顔に困惑が広がっていく。
「うっ……えぇと……に、にほーんごは、わかーりますかー?」
「Я хочу з'їсти щось солодке……Мені подобається гостра їжа?」
相手が何を言おうと、桜子はにっこり笑って会話を続ける。その天使の如き笑顔に絆されつつも、男たちの顔から困惑が消えない。
「えぇと……」
「Я голодний. Що вам подобається, рис чи локшина?」
やっぱりなに言ってるのかわからない。
話しぶりと表情を見る限り友好的なのは間違いないが、ここまで意思疎通できなければナンパどころではないだろう。
桜子を諦めきれない男たちだが、さすがに言葉が通じない相手にどうすることもできずに、顔を引きつらせながら逃げて行った。
「ふう……緊張したなぁ、もう……」
すごすごと退散していく男たちの背を見送りながら、桜子が安堵の溜息を吐く。
確かに相手を速攻で退散させるのにいい方法なのは認めるが、なんとなく嘘を吐いているような罪悪感に苛まれるのが玉に瑕だった。
桜子が試合会場に現れると周囲がざわついた。正直な話、そんな雰囲気にはもう慣れているが、居心地が悪いのは変わらない。毎度のことだと諦めつつも人知れず小さな溜息を吐く。
会場を見渡せる2階席に座ってパンフレットを読み始めると、背後から声をかけてくる者がいた。聞いたことのある声だ。桜子が振り向くと、そこに健斗の後輩である川村祐樹が立っていた。
その彼が、何気に頬を染めながら話しかけてくる。
「あ、あの……小林先輩を見かけたので寄らせてもらいました。木村先輩の応援に来たんですよね? 先輩なら会場にいるので僕が案内しますよ」
特に深く考えずに、桜子は差し出された川村の手を取った。この混雑である。単純に川村と逸れるのが嫌なだけだったのだが、当の川村は驚いた。
まさか、いきなり手を握られるとは思っていなかった。その彼へ桜子が天使のスマイルを向けた。
「どうもありがとう、本当に助かったよ。健斗を探してたんだけど、どこにいるのかわからなくて困ってたんだ」
この世のものならぬ天使に触れてしまった。川村はもう限界寸前である。桜子の言葉など耳に入らず、顔を真っ赤にして倒れそうになるばかりだった。
手を引かれたまま1階まで行くと、床に座って体を解している健斗がいた。桜子に気付いた彼は顔を綻ばせたが、川村と繋がれた桜子の手を見て細い瞳を見開いた。
桜子が声をかける。
「やっほー、健斗! 約束通り応援に来たよ! しっかり応援するから、頑張ってね! 目指せ優勝! おー!」
「あぁ……頑張るよ……」
「お弁当も作ってきたんだ! あとで一緒に食べようね!」
「そうか。ありがとう」
屈託のない明るい笑顔の桜子。その天使のような姿を前にして、なぜか健斗はいつも以上に不愛想かつ口数も少なかった。
試合前だし、きっと緊張しているのだろう。
そう思った桜子が意識してさらなる激励の言葉をかけたものの、変わらず健斗はむっつりと口を引き結んだまま。
その様子に不安を駆られた桜子が、一転しておどおどと健斗へ尋ねてみても、
「いや、べつに……なんでもないよ」
としか答えなかった。
滅多にないことだが、こうした健斗の反応は怒っているときである。
知らずに何かやらかしたのだろうか。そこはかとない不安に駆られた桜子が思わず涙目になる。
せっかく頑張ってもらおうと応援しに来たのに、かえって険悪な雰囲気にしてしまった。自分はなんて気の利かない女なのだろう。
自分を責めながら、桜子は最後に「がんばってね……」と小さく呟くと、一目でわかるほどにしょんぼりと肩を落として2階席へ戻って行った。
健斗は自己嫌悪に陥っていた。
桜子が異性と距離が近いのは昔からである。決してそこに他意はない。川村と手を繋いでいたのも、この人だかりで逸れないようにしただけなのだろう。
しかしそれを見たとき、嫉妬心を抑えることが出来なかった。それどころか、桜子に当たってしまったのだ。
なんて狭量で自己中心的な男なのだろう。くわえて独占欲も強すぎる。
思わず健斗は自分で自分を殴りたくなった。
ようやく正気に戻り、慌てて桜子へ声をかけようとしたものの、すでに彼女は2階席に戻った後だった。
これから大事な試合が始まるタイミングで、図らずも恋人のしょんぼりとした顔を思い出してしまう。がっくりと項垂れる健斗だった。
そんな姿を試合会場の対面から見ている者がいた。
「ほぅ。あれが噂に聞くS中の木村か。急にのし上がってきたからどんな奴かと思っていたら女連れかよ。随分と余裕だな、恐れ入ったぜ」
松原剛史は、面白くなさそうに呟いた。
剛史はM中学校の2年生である。小学生の時分から柔道を続ける経験者であり、自身の強さには絶対的な自信を持っていた。
残念ながら春の大会は怪我で欠場したが、代わりに出場した仲間を打ち負かしたのが健斗だった。
中学生の試合で上位に上がってくるのは、小学生から柔道を続ける経験者が多く、その逆はほとんど初戦で消えていた。しかしその中で、経験者でないにもかかわらず、健斗は春の県大会で個人の部ベスト8にまで勝ち上がっていたのだ。
彼は自分が思っていた以上に周囲からは注目されていた。
未だ技術は粗削りだが、健斗はそれを補う膂力と根性を持ち合わせている。特に鍛え抜かれた体幹には定評があり、どんな姿勢からでも攻撃と防御ができる。
技術を補完するために筋力とスタミナを鍛え、どんなに危機的な状況でも決して諦めずに最後まで戦う。それ健斗の戦い方だった。
同期を下した木村健斗とやらは、果たしてどんな男なのか。剛史は興味津々に探していた。するとその時、健斗と桜子の一幕を見てしまった。
剛史の全身に衝撃が襲い掛かる。
桜子は完璧だった。未だかつて見たことがないほどの美しい少女だったのだ。
剛史は健斗と同じ55キロ級の優勝候補である。それほど背は高くないものの、柔道部員にしてはスラリと引き締まった体躯をしており、端正かつ愛嬌のある顔と巧みな話術は女子からの人気も高い。
オレって柔道つえーし、顔もかっこいいから女子にモテるし。と、かなり自惚れの強い性格なので男子の受けはあまり良くない。しかし柔道の実力は本物である。未だ二年生ながら、柔道の強豪高校から推薦の話も来るほどだった。
そんな彼が目を奪われる。
それはまさに一目惚れだった。
今の剛史の頭の中には桜子しかなかった。
今日の試合なんて、どうせ自分が優勝するに決まっている。
それよりも、さっき見た女の子を探さなければ。
今や試合のことなどすっかり頭の中から消え去ってしまった剛史は、後先考えずにその場から走り出していた。
まだ中学二年生なのに……




