第58話 天使とお弁当
5月中旬。
楽しかったゴールデンウィークも終わり、気付けば1学期の中間テストが近付いていた。
桜子も連休中は友人と遊びに行ったり、別の中学へ進学した日向奈緒や田中陽菜が家に遊びに来たりと、それなりに休みを満喫した。ちなみに連休中の2日目には健斗と二人でショッピングセンターでデートをしたが、それは両親に内緒だ。
もっとも楓子も幸もとっくに二人の関係はお見通しだったので、見て見ないふりをしていたのだが。
桜子の水泳は自由形のままでタイムを縮める方向に決めた。しかし身に付けたフォームを一朝一夕に変えられるわけもなく、むしろタイムが遅くなったりしている。
8月の全中大会の地区予選がそろそろ始まる。しかし未だフォームの改良が決まらない桜子は気が焦るばかりだ。それがオーバーワークに繋がったのだろう。身体を酷使し過ぎたためにすっかり疲労が溜まっていた。
顧問の根竜川はそんな桜子の助けになりたいと思ったものの、自身に水泳の経験がないため、休んで気分転換を勧めることくらいしかできなかった。
「小林。焦る気持ちはわかるが、最近のお前は練習のし過ぎだ。このままでは良い結果も生まれん。今週末の練習は出て来なくていいから、少し気分転換をしてこい。ゆっくり休むんだぞ、いいな?」
というわけで、半ば強制的に桜子は週末の練習を休まされたのだった。
「気分転換かぁ……いったい何をすればいいんだろう……」
桜子は悩んでいた。
実を言うと桜子に趣味らしい趣味はなく、水泳以外に打ち込んでいることもない。確かに店の手伝いは進んでしているが、それを趣味と呼ぶのは何か違う気がした。
土曜日は昼過ぎまで部活の練習だと健斗が言ってたのをふと思い出す。その時間に合わせて、お弁当を持って行けば喜ぶのではないか。
思い返してみると、健斗の練習風景を一度も見た事がなかった。これはもしや彼の勇姿を拝む千載一遇のチャンスに違いない。
一度そう思うと、桜子は自分の思い付きがまるで名案のような気がしてきたのだった。
思い立ったが吉日。早速健斗へ電話をしてみると、土曜日は昼の12時頃に来てくれれば一緒に弁当を食べられると言う。なので桜子は、それにあわせて行く事にした。
小林家の台所は朝と晩が楓子で昼は絹江が担当しているが、日曜日の朝や昼などは桜子が料理を作ることもある。中学生になってから祖母の絹江に料理を鍛えられている桜子の料理はなかなかのものだ。以前に真っ黒い歪な塊を作ってしまった時からは相当に進化していたのである。
桜子が金曜の夜に弁当の下ごしらえをしていると、浩司がビールグラスを片手に話しかけてきた。
「おう、こんな時間に料理なんかしてどうした? さっき晩飯食ったばかりだろう? 夜食でも食うのか?」
「違うよ、お父さん。さすがのあたしもそこまで大食いじゃないし。これはね、明日のお弁当の準備をしているんだよ」
「明日の? なんだお前、どこか行くのか?」
「うん。明日は部活が休みだからね。せっかくだから、健斗にお弁当を届けてあげようかと思って」
「健斗にか? そんなの、今まで一度もしたことなかっただろう? どうしたんだ急に」
「え、えぇと……その……」
思わず桜子が言葉を濁す。はっきりしないその態度に浩司が訝しげな表情とともに鍋の中を覗き込むと、中で煮込まれているニンジンに目が留まる。それはなぜかハートの形に切り揃えられており、よく見るとその他の具材もほとんどが同じ形をしていた。
浩司が胡乱な顔をする。それに気付いた桜子は慌てて鍋に蓋をしたが、『時すでに遅し』である。
浩司の表情が観察するようなものになる。いつも優しげなその瞳は、今に限って笑っていなかった。
「なぁ、訊いていいか? なんで具が全部ハートの形になっているのかなぁ。桜子ちゃんや、お父さんに教えてくれるかな?」
見れば浩司のこめかみがピクピクと痙攣している。それを見た桜子が慌てて取り繕った。
「や、やだなぁ。べつに意味なんてないよ。こうしたら可愛いかなぁ、なんて思ったから……」
桜子は必死に作った笑みを顔に張り付けてみたものの、浩司の態度に変化はない。それどころか、より一層こめかみがぴくぴくと動き始める。何とか誤魔化さなければならないと思った桜子は、
「お、お父さん大好き! ぎゅーっ!」
っと、必殺技を繰り出してみたが、何の脈絡もないこの状況では不発に終わってしまった。それどころか、浩司が余計に訝しんで言った。
「お、お前……まさかとは思うが……もしや健斗と……」
「はいはいお父さん。それ以上は野暮ってもんよ〜。こっち来てね〜」
突然に母親の援護が入る。楓子に背中を押されてキッチンから追い出されていく浩司。有無を言わさず強制連行されていくその口から力なく声が漏れた。
「ま、待て……まさかお前……健斗と? そんな……俺の天使が……」
土曜日の昼前。桜子は渾身の手作り弁当を手に学校へ向かう。それはまるで三段重ねのお重にしか見えず、さすがにこれはやり過ぎだろうと楓子と絹江に笑われた。
絹江のお墨付きなので味については問題ないが、弁当の大きさは余りにもインパクトが大きすぎる。それでも桜子は終始ご機嫌な様子で鼻歌交じりだった。
武道場の入口から中を覗くと柔道の練習は続いていた。お昼まであと15分。桜子が興味津々に眺めていると、部員の一人が気付いて声を上げた。
「あっ! 超絶美少女天使先輩!」
「えっ!? ほ、ほんとだ……すげぇ、マジだよ……」
1年生が練習の手を止めて桜子に釘付けになる。それを見た健斗が練習中によそ見をするなと注意した。
寡黙な健斗は滅多に大声を出したり怒鳴ったりしない。桜子もそんな彼を見たことがなかったので、実際に後輩を指導する男らしさに胸がキュンとなるのだった。
やっと昼休みになり、桜子が弁当の包みを開ける。健斗はまず、お重のような弁当に圧倒され、次いで軽く5~6人前はあるであろう量に驚いた。
さすがの健斗もこの量は食べ切れないだろう。かといってせっかく作ってきてくれたものを残すのも申し訳ない。
ふと見渡すと、周囲の部員たちが羨ましそうに見ている。気づいた桜子が気前良くおすそ分けをしているうちに、丁度良く食べ切ることが出来た。
実のところ、1年生部員たちは健斗が桜子の彼氏であるという話に半信半疑だった。
桜子はあれほどの超絶美少女なのに、健斗は顔がイケてないうえに背も低くて足が短くガニ股である。そんな男があの美少女の彼氏のはずがない。
それが嘘ではなかった事実に驚いていたが、実はそれ以上に驚くことがあった。
学年も違うし特に親しいわけでもなかったので、一年生たちは桜子をいつも遠巻きに眺めることしかできなかった。今回初めて間近で見る機会を得て、あまりの美少女ぶりに圧倒されていたのだ。
桜子は本当に思い付く限りの美少女だった。そのため彼らは恥ずかしさのあまり目を合わせることができず、声をかけられても緊張して満足に受け答えもできなかった。
まさに近寄り難いほどの美少女であるにもかかわらず、実際に話してみれば、気さくで飾らない人柄はとても話しやすかった。特徴的な外見はともあれ、人柄はいたって普通の少女であることがすぐにわかる。そしてそれは彼らにとって、余計に魅力的に映った。
楽しい昼食も終わり、短い食休みの後に午後の練習が始まる。それを少し見学した桜子は、相変わらずの笑顔のまま帰って行った。
その背中を見送った部員たちが静かに溜息を吐く。
近くで見た桜子は本当に美しく愛らしい天使だった。そして少し天然の入った、ゆるふわな性格もまた魅力的だった。
「あぁ、いいなぁ……あんな彼女がいたら、どんなに幸せなんだろう……」
1年生の一人が小さく呟く。するとそれに釣られたように部員全員が、その幸せを現在進行形で味わっている健斗を嫉妬混じりの視線で見るのだった。
数日後。1年生部員の川村が友人と学校の廊下を歩いていると、その前方を桜子が横切った。自分のことなんて憶えていないだろう。そう思った川村が桜子に声をかけることなくそのまま通り過ぎようとしていると、背後から少し高めの柔らかい声がかけられた。
「やっほー、川村くん、こんにちは! これから部活? がんばってね!」
川村が振り向くと、廊下の先で桜子がぶんぶんと手を振り回しているのが見えた。満面の笑みを浮かべたその顔は、変わらず天使のようだった。
「あ……は、はい、頑張ってきます……」
頬を染め、高まる胸の鼓動を抑えながら川村が答える。すると桜子は、「じゃーねー!」と元気いっぱいに告げながら去って行った。
「お、お前! いつの間に超絶美少女天使先輩と知り合いになってたんだよ! ずるいぞ! 俺にも紹介してくれよ!」
もはや川村の耳には、嫉妬混じりに責める友人の声は届いていなかった。




