第56話 天使の彼氏
あと数話、日常の話が続きます。
4月も半ばを過ぎ、2年生の生活が本格的に始まった。
桜子と健斗の関係は公然の事実となり、もはや直接何かを言ってくる者はいない。桜子のような圧倒的美少女が、どうしてあんな背が低く、柔道部でガニ股で成績だって良くない男と付き合っているのか理解できない者もいたが、二人が幼馴染だと知ると不思議と納得してしまうのだ。
「幼馴染」というのはなんとも不思議な力を持つらしく、トランプに例えるならジョーカーのような存在らしい。そこに新参者が割り込もうとしても、そう簡単にいくものでもなかった。
朝に健斗が迎えに来ると、桜子は満面の笑みで家を出る。以前の健斗なら無表情に迎えていたが、最近は見るからに嬉しそうだ。
その変化を楓子は見逃さなかったが、浩司には何も言わずにいる。しかしやはり何か思うところがあるらしく、ある日桜子へそれとなく質問を投げかけた。
さすがは母親と言うべきか。楓子は桜子とのわずかな会話から健斗との関係を見抜いた。けれど娘も年頃だし、相手が健斗であれば心配もないだろうと二人を暖かく見守ることにしたのだ。ただ、浩司がいつ気が付くか。それだけが心配だった。
進級と同時にクラス替えが行われ、桜子と光と翔が1組で、健斗は2組、友里が3組で、舞と真雪が4組になった。
真雪との約束を果たすため、健斗が間に立って桜子と真雪は友達になれた。バレンタインの出来事があったため、最初は二人の間に緊張があるかと心配したものの、桜子お得意のにこやかな対応によってすぐに二人は打ち解けることができた。
実のところは互いに思うところがあるのかもしれないが、もはや二人の間にバレンタインの話題が上がることはない。
新入生の間でも桜子は話題になっていた。2年生に天使のような超絶美少女がいると噂が立ち、実際に彼女を見に来る者が後を絶たない。そして全員が、「超絶美少女天使」という呼び名が偽りのない真実だと認めると同時に、彼女に恋人がいると知って心から落胆するのだった。
桜子の所属する水泳部に新入部員が入って来た。男子26名、女子7名の総勢33名。
女子はさて置き、男子のほとんどは桜子目当ての冷やかしだろうと思われたが、今年の根竜川は自ら一年生部員を指導するかたわら、桜子にも一部の指導を任せることにした。すると彼らは、もれなく桜子から「無意識のしごき」という名の洗礼を浴びることになる。
初めのうちは桜子の水着姿に浮かれていた男子部員たちだが、容赦ない指導に徐々に脱落者が出始めた。
新入部員たちからは『超絶美少女天使先輩』とあだ名される、ゆるふわな桜子ではあるが、水泳に対する真摯な姿勢は変わらずまったく容赦がない。
決して声を荒らげたり、威圧的ではないが、少し高めの柔らかい声で、
「いいね、もう一本いこうか! ファイトー!」
「大丈夫! まだまだできるよ、がんばって!」
「そこはもう少し腕を伸ばして! いいよぉ、その調子!」
などと励まされると、どうしてもやらざるを得ない状況に陥ってしまう。そうして新入部員たちは、次第に自分で自分を追い詰めていくようなり、一ヶ月が経った頃には男子3名、女子2名の精鋭だけが生き残ったのだった。
一見すると厳しい指導に思えるが、桜子は各人の限界を見極めたうえでの指導を徹底しており、決してできないことをやれと言っているわけではない。もっともそれはいつも限界スレスレを攻めているので、向上心のない者は速攻で脱落していくことになる。
一ヶ月前とはまるで違う精悍な表情の一年生部員たち。彼らを見る根竜川は、満足そうな笑みを浮かべるのだった。
健斗が所属する柔道部にも新入部員が入って来た。
5名全員が柔道の経験者であるうえに、健斗よりも身体が大きい。健斗も最近は背が伸びてやっと160センチに届きそうになっていたが、男子の平均より4センチ低いうえに桜子に2センチ負けていた。
健斗と桜子が並んで歩いていると、初見の者に必ず二度見される。ご存じの通り桜子はすらりとした小顔美少女だが、健斗は背が低く、足は短く、表情の読みにくい細い目をしている。
二人の様子からは彼らが恋人同士なのだろうことはわかるのだが、あまりに対照的すぎて、誰もが二人の接点を想像できなかった。
ある日の柔道部の休憩時間、新入部員たちが桜子の噂をしているのが聞こえて来た。
「2年生の『超絶美少女天使先輩』って、もう見たか?」
「見た見た! まじ可愛かった! 顔なんかこんなに小さくて、手足も長くってさぁ。なんかもう人類を超越してないか、あの人」
「いや本当、同じ人間とは思えんよな。あの可愛さはヤバいって。あれはもう犯罪だろ」
「でもさ、彼氏いるって聞いたぜ」
「そりゃあ彼氏くらいいるだろ。あんなに可愛いんだから。どんな男だって選び放題に決まってる。――しかしよぉ、あの人の彼氏がどんな奴なのか見てみたくね? どうせイケメンに決まってるんだろうけど」
「イケメンかぁ。いいなぁ。力ずくでいいなら奪ってやるんだけどなぁ。柔道勝負なら絶対に負けねぇ。」
「お前なに言ってんだよ。普通の奴が柔道勝負なんてするわけないだろ。それに柔道でいいなら俺にだってチャンスあるって。あははは」
「あははははは」
武道場に響く無邪気な笑い声。それを聞いていた三年生がつかつかと近付いて来る。
「おいお前ら、そんなに『超絶美少女天使先輩』の彼氏と柔道勝負がしたいのか?」
「え……? えぇまぁ。柔道の勝負なら負ける気はしませんからね。それがなにか?」
無知は罪である。その返答を聞いた3年生がニヤリと笑い、全員を見回して言った。
「そうか、よく言った。なら、俺がその希望を叶えてやろうじゃねぇか」
「えっ? あ、あの先輩……どういう意味っすか……?」
一年生たちが訝し気な表情で3年生を見る。すると彼は健斗を指差して言った。
「おい木村! こいつらがお前と勝負したいんだってよ! 容赦はいらねぇ。足腰が立たなくなるまで揉んでやれ!」
「……了解」
健斗が指をポキポキ鳴らしてのっそりと立ち上がる。その顔はいつもと同じ無表情だったが、よく見れば少々機嫌が悪そうだった。
「えっ……? なんで木村先輩が? ……ってことは、『超絶美少女天使先輩』の彼氏って、まさか……」
「木村先輩なんすかぁぁぁぁ!?」
その直後、武道場には一年生たちの悲鳴が響き渡ったのだった。




