第50話 目撃
その日、学校は特別な緊張感に包まれていた。
女子生徒たちは意中の男子へチョコレートをあげるタイミングを見計らい、男子生徒たちはいつ誰からチョコレートを貰えるのかと淡い期待を抱く。それぞれの思いが複雑に交錯し、学校全体に落ち着かない空気を漂わせていた。
友里は明らかに義理とわかる1個10円の小さなチョコレートをクラスの男子全員へ配り、舞はサッカー部の2年生に渡して来ると言って教室を出て行った。
光は自身が所属する吹奏楽部の男子へ渡すつもりらしい。トランペットを担当するその彼のことが以前から気になっていたらしく、今日はその子に勝負を賭けるそうだ。
そんな中、多くの男子たちが桜子の動向を窺っていた。
桜子は誰にもチョコレートを渡さない。その情報はすでに広く知れ渡っていたものの、万に一つの可能性に賭ける者も多かった。
桜子は誰に対してもにこやかで親しげに接するので、彼女に好かれていると勘違いしている男子は案外と多い。しかしそんな思惑など関係ないとばかりに何も起こらないまま放課後となり、失意とともに多くの男子たちは下校していったのだった。
放課後。桜子は部活の休憩時間に、2年生の先輩女子二人から声を掛けられた。
「ねぇねぇ、小林さんは誰かにチョコレートを渡したの?」
今や桜子は学校のアイドルと称されるほどの人気者である。その彼女がチョコレートを渡すのは一体どんな男の子なのだろうか。先輩二人が興味深々に尋ねると、桜子はいつもと変わらぬにこやかな笑顔で答えた。
「いいえ。あたしは誰にも渡しません。昔からそう決めているんです」
「やっぱりそうなんだ。ひょっとしてアレ? チョコを貰えた人と貰えなかった人が喧嘩をしちゃうからとか? だからって全員へチョコを渡してたら破産しちゃうしね。なんかわかる」
「まぁ、それもありますけど……。えぇと、ここだけの話なんですが、実は昔、チョコを渡そうとしたことがあったんです。だけど、色々あって失敗しちゃって」
言いながら桜子は、かつて自身が作り出した真っ黒い歪な塊を思い出していた。それは今でも思い出したくない黒歴史であり、彼女がバレンタインにチョコを渡せなくなった原因でもある。
桜子が苦い過去に思いを馳せて自虐めいた笑みを零していると、ついに先輩が本題を切り出した。
「ふぅん、そうなんだ。――それで小林さん。柔道部の彼にはあげないの? ほら、あのいつも一緒に学校へ来てる彼」
「えっ? あ、あ、あげませんよっ、もちろん! あたしは誰にもあげませんから!」
先輩の問いに対して、何気に慌て始める桜子。その様子を眺めながら、先輩二人がニヤニヤした笑みを零した。そして言う。
「ふぅーん、そう。がんばってね、応援してるから」
「いい返事がもらえるといいね!」
「えっ、いや、あの……」
健斗はその日も部活で遅くまで残っていた。
練習後の片付けも終わり、武道場の片隅で着替えていると同期の仲間たちから尋ねられた。
「なぁ木村。お前さ、誰かからチョコ貰えた?」
「いや、誰からも」
「だよなぁ。俺らみたいな、むさ苦しい柔道部員にチョコをくれる女子なんているわけないよなぁ」
溜息を吐きながら同期部員の男子が愚痴をこぼす。そこへもう一人の男子が口を挟んでくる。
「なに言ってんだよ。お前の場合は柔道部とか関係ないだろ。元々むさ苦しいんだから」
「うるせぇわ!」
「木村さ。お前って小林から貰えるんじゃねぇの? だって、あいつと仲いいんだろ?」
またこの話か。健斗はいい加減うんざりしながら、適当に返事を返して着替えを済ませた。
日も陰り、すっかり薄暗くなった中学校の玄関。その下駄箱の前で健斗が靴を履き替えていると、突如後ろから声を掛けられる。
こんな時間に声を掛けて来る女子なんて一人しかいない。てっきり桜子だと思った健斗が振り返ると、そこには園芸部の樋口真雪が立っていた。
ここ最近の健斗は真雪と一緒に登校していたし、美化委員会でも会話を交わしていた。しかし、こんな遅い時間に学校で会うのは初めてだった。
園芸部も帰りが遅いことがあるのだろうか。
疑問を抱きつつ、健斗が真雪に答えた。
「あぁ、樋口さんか。誰かと思ったよ。――こんな遅い時間にどうしたんだ? 部活か?」
「うん、ちょっとね……。それより、木村君はもう帰るところ?」
「あぁ、部活も終わったしな」
「ねぇ、もう暗いから……途中まで一緒に帰っていい?」
上目遣いに真雪が見つめてくる。
小動物を思わせる表情と、遠慮がちでありつつもどこか強い意志を感じさせる彼女の言葉に思わず健斗は躊躇してしまう。
今日はバレンタインデーだ。もしかしたら桜子がどこかで待っているのかもしれない。
そんな淡い期待を抱いていた健斗は、ここで真雪と帰ることによる桜子との行き違いを恐れた。しかし見たところ桜子はいないようだし、そもそも彼女がこんな時間まで残っていることは考えにくい。
やはり今年はチョコを貰えないのだろう。
そう結論付けた健斗は、深い落胆を押し殺しながら真雪に告げた。
「あぁ、そうだな。もう暗いから家まで送って行くよ」
そんな時だった。突然健斗の目の前に何かが差し出される。
見ればそれは小さな箱のようなもので、いかにも少女らしい可愛い包装紙に包まれていた。
思わず見つめる健斗。彼に真雪が声をかけた。
「あ、あのっ、木村君! これっ、受け取ってください! わたしの気持ち……です」
見れば真雪は顔を伏せたまま両手を突き出していた。その手には赤いリボンのついた青い袋が乗せられている。
これはチョコレートだろう。
健斗にはすぐにわかったのだが、受け取るべきか否かを数舜迷った。
バレンタインデーに女子が男子へチョコレートを渡す意味も、それを受け取る意味も健斗は理解していた。
恐らく真雪は、この薄暗い玄関でずっと自分を待っていたのだろう。
それを思うと、健斗はどうしても差し出されたチョコレートを断ることが出来なかった。
「あ、ありがとう……」
健斗が戸惑いながら差し出された袋を受け取る。真雪が伏せていた顔を上げると、そこには安堵と羞恥が入り混じった表情が浮かんでいた。その彼女が言う。
「あ、あの……返事……とかは、そのうちでいいから。急がないから」
「わ、わかった……もう遅いし、今日は帰ろう」
「うん、ありがとう……」
会話はそこで途切れてしまい、健斗と真雪は無言のまま肩を並べて歩き出した。
その姿を下駄箱の陰から見送る一人の影。
ここまで走ってきたのだろうか。はぁはぁと激しく上下する肩の上に乱れた金色の髪がかかっている。
その少女の手には、黄色いリボンのついた小さな紙袋が握られていた。




