第49話 彼女は誰にもチョコをあげない
2月14日。
バレンタインデー。
この日ばかりは女子生徒だけでなく、男子生徒たちまで落ち着かない様子を見せる。
その中心にいるのは桜子だ。彼女は誰にチョコレートを贈るのか。まさか自分だったりしないだろうか。などと、同じクラスの男子生徒はもちろんのこと、接点のない他のクラスの生徒たちまで希望を込めて桜子の動向を注視する始末。
しかしそれらは無残にも打ち砕かれる。なぜなら、桜子と同じ小学校出身の生徒たちから、「彼女は誰にもチョコレートをあげない」という事前情報が出回っていたからだ。
その情報に愕然とする男子たちだったが、中には情報の真偽を確かめようとする者もいた。
1年1組の教室。給食の時間。
そこに変声期特有のハスキーボイスが響いた。
「おい木村。お前、本当に小林桜子と付き合ってないんだよな?」
同じクラスではあるが、それほど親しくないクラスメイトの男子が健斗へ突然話し掛けてくる。とはいえ、それは初めてのことではない。健斗はこれまで何人もの友人たちから、もう何度目かわからないほど同じ質問をされていた。そして、いつも面倒くさそうに答えていたのだった。
「だから付き合ってねぇって。ただの幼馴染だって言ってるだろ」
「なんだとお前! 幼馴染ってだけでも羨ましいっつーの! だって、あの小林桜子なんだぞ! 話したことさえないヤツだっていっぱいいるのに、それをお前は……簡単にただの幼馴染だとか抜かしやがって!」
「な、なんだよ」
「それにお前さ、毎朝一緒に学校へ来てるんだろ!? 羨ましいな、こんちくしょう!」
「うるせーな! だから今は一緒じゃねぇって! 俺は部活の朝練があるから、あいつとはもう一緒に登校してねぇんだよ」
「なに!? お、おいマジか……お前……朝練と小林とどっちが大事なんだよ? どう考えたって小林一択だろ!?」
驚きのあまり目をむく男子。健斗が疲れたような顔で溜息を吐いた。
「そんなの朝練に決まってるだろ。お前、何言ってんだよ」
言い返された男子が、信じられないという顔をする。そして隣の友人と顔を見合わせて言った。
「なんて贅沢な奴だ……信じられん」
「うるせーよ」
「ちっ……まぁいい。ところでお前さ、小林にチョコとか貰ったことあるのか?」
その質問に健斗が一瞬考えるような素振りを見せる。しかしそれも数舜、すぐに彼は答えた。
「……ねーよ。あいつは誰にもチョコを渡さないんだ。昔からな」
「そ、そうか。やっぱり噂は本当だったのか。――ところで木村さ、今の間は一体なんだったんだ? どうして一瞬考えこんだ? さては、お前――」
「だ、だから、貰ってことねーって言ってるだろ! いい加減、しつけぇよ!」
何を思ったのか、まるで話を打ち切るように健斗が突然立ち上がり、食べ終わった給食の食器を片付け始める。誰も気づいていなかったが、その顔は薄っすら赤みを帯びているように見えた。
一方その頃、1年3組の教室では、立花友里がクラスメイトである迫田耕史郎に掴まっていた。
友里と桜子が幼稚園からの幼馴染であるのは知られている。だから桜子について知りたいことがあると、大抵は友里に尋ねてくるのだ。
訊きたいことがあるなら直接本人に訊けばいいのに、と友里は思うのだが、どうやら男子たちは桜子の容姿と笑顔に圧倒されて上手く話せなくなるらしい。早い話がしどろもどろである。
気持ちはわかる。気持ちはわかるが……
あぁ、面倒くさい。
と思いながらも、仕方なく友里は迫田の相手をすることにした。
「で、なにさ?」
「なぁ立花。お前、小林さんと同じ小学校出身だったよな? ちょっと教えてくれよ」
「はぁ……あんたも桜子のことかい。ちょっと、たまにはわたしのことも訊きなさいよ。なんでも教えてあげるわよ。えっと、好きな食べ物はバナナで――」
などと友里がわざとすっとぼけていると、迫田が微妙に嫌な顔をする。それを見た友里がわざとらしいため息を吐いた。
「ふぅ……そんな顔するんじゃないわよ、腹立つ……。で、訊きたいことってなにさ? 勿体ぶらずにさっさと言いなさいよ」
「あぁすまない。噂で聞いたんだが、小林さんってバレンタインに誰にもチョコをあげないって本当なのか?」
「あぁ、それね。本当だよ。桜子が誰かにチョコを渡してるのって見たことないもん。そもそもなんだけど、桜子ってバレンタインに興味がないんだってさ。だから義理チョコすら配ろうとしないのよ、あの子。――って言うかさ、なんでそれをわたしに尋ねてくるわけ? そんなの本人に直接訊けばいいじゃないのさ。まったく面倒くさい」
「き、訊けるかよ、そんなこと! ……それじゃあ確認だが、1組の木村ってやつも小林さんからチョコを貰ったことがないんだな? ほら、あの、毎朝一緒に登校してくる柔道部員の男だよ」
「あんたもしつこいね。だからそれも本人に訊きなさいよ」
「いや、だから、本人に訊けないからお前に尋ねてんだろ」
「あぁ、面倒くさい! ――まぁ、ないんじゃないの? だってそんな話、一度も聞いたことないし」
「本当か?」
「あんたねぇ……人にものを尋ねておきながら疑ってかかるとか、一体どんな神経してんのよ。ムカつく」
「す、すまん」
「まぁいいけど。それで? 他には?」
「あ、いや大丈夫だ。それだけ聞ければな。立花、サンキューな!」
迫田はそれだけ言うと、走り去って行った。
遠ざかる迫田の背を眺めながら友里は考える。
桜子がバレンタインに興味がないと言ったのは事実である。なにせ、この耳で直接聞いたのだから間違いない。しかし同時に、その真意はまた別のところにあるのだとも思う。
たとえそれが義理であっても、桜子からチョコを貰った、貰えなかったを理由にして男子の間で諍いが起こるのは目に見えている。かといって、全員にチョコを配るのも無駄な出費を強いられることになってしまう。
ならば最初から誰にもあげなければいい。それなら平等で格差もない。
とまぁ、つまりはそういうことなのだろう。
けれど彼女ももう中学生だ。小学生の頃とは考えが変わっているかもしれない。
そこへ思い至った友里は、この際だからと、直接桜子へ尋ねてみることにした。
「桜子ぉー。ちょっといい?」
給食の時間。友里が声をかけると、桜子がエビフライを頬張りながら振り向いた。幸せそうな顔の右頬が大きく膨らんで、まるでハムスターのように見えた。
「えっ、なぁに? もぐもぐ……」
「桜子さぁ、今年のバレンタインも、やっぱり誰にもチョコをあげないの?」
「もぐもぐ……あげないよ、誰にも。そういうの興味ないし。それになんか、喧嘩の原因になりそうだしね。もぐもぐ……」
「やっぱりそうなんだ。それじゃあ確認なんだけど、もちろん健斗にもチョコをあげないんだよね?」
友里が周囲に聞こえないように小さく囁く。それを聞いた桜子が、突然咽て咳き込んだ。
「ごほごほっ! ごほっ!」
「大丈夫?」
「ごほごほっ……だ、大丈夫……。うはぁー、死ぬかと思った。危なくエビフライに殺されるところだったよ」
「しっかりしてよ。それでどうなのさ。もしかして、健斗にだけあげるつもりだったとか?」
言いながら友里が怪訝な顔で見つめてみても、決して桜子は目を合わせようとしない。それどころか、次第にその青い瞳が泳ぎ始めた。
しかしそれも数舜。すぐに彼女は観念したように口を開いた。
「……うん。実は健斗にだけあげようと思ってね。持ってきたんだ」
恥ずかしそうに囁く桜子を見ながら、友里は去年の春に彼女と喧嘩した時のことを思い出していた。
あの時の友里は桜子へ一方的に暴言を吐き、逃げた挙句に思い切って健斗へ告白したのだ。しかし結局は振られてしまった。
いや、正確には振られたというよりも、自ら身を引いたという方が正しい。
その時の二人の会話を桜子は知らないはずである。だから友里は、今は桜子を素直に応援してあげようと思った。
そんな友里の生温かい視線を感じながら、改めて桜子は心を決めた。
部活のある健斗は、今日も最終下校時刻に帰るはずだ。だからその時間に下駄箱の前で待ち構えようと桜子は思うのだった。