第47話 乙女と胸の話
9月。
夏休みが終わり、2学期が始まった。
年度途中にもかかわらず、なぜか校長と桜子のクラス担任が変わっていたが、いわゆる「大人の事情」を察した生徒たちは何も尋ねることなく粛々と現実を受け入れていた。
桜子は1学期の後半に1ヵ月弱ほど学校を休んでいた。しかし病室へ教科書を持ち込み、独学でその遅れを取り戻そうとした。
入院中の病室で桜子がひたすら問題集を解いていると、見舞いに来た健斗が信じられないものを見るような目で見てくる。どうやら彼には、学校以外で勉強をする習慣がないらしい。
ちなみに健斗の成績は、昔から学年の真ん中辺りをうろうろするばかりでいまいちぱっとしなかった。
前に一度、桜子が冗談めかして言ったことがある。
「ねぇ健斗。このままだと、きっと高校は別々の学校になるね」
それを聞いた健斗は、今まで見たことがないほどの絶望的な表情をしたのだった。
人目を引く外見も含めて桜子はなにかと話題の多い生徒ではあるが、授業態度は真面目だし生活態度も問題ないうえに、部活も頑張っているため教師受けは非常に良い。
実際に学校の成績はとても良く、1学期の中間テストでは学年5位だったし、夏休み明けの実力テストでも6位だった。
水泳部の練習も再開した。
スイミングキャップを被るとどうしても額の傷跡が目立ってしまうが、こればかりはどうしようもない。もっとも事件のことは皆知っているので、あえてそれに触れる者もいなかったのだが。
たかが1ヶ月半、されど1ヶ月半。入院中の運動不足によりかなりタイムが落ちてしまった桜子は、入部当初のように再びリハビリからスタートせざるを得なくなる。それでも彼女は、ただ泳げるだけで満足していた。
桜子が復帰した時、3年生の先輩たちはすでに引退した後だった。それでも彼らは何かと理由を付けて会いに来てくれる。桜子が導入した練習メニューのおかげで彼らもタイムを伸ばすことが出来たし、何より単純に桜子のことが好きだったからだ。
そんな彼女に水泳部の未来を託すと言い残した3年生たちだったが、次期部長である2年生の立場を慮るとあまり出しゃばることもできない。仕方なく桜子は、複雑な思いのまま苦笑いを浮かべるばかりだった。
◆◆◆◆
10月下旬。
桜子の中間テストの成績は学年4位だった。
テストも終わり、学校に緩い空気が漂っていたある日の夜。風呂から上がった桜子は、キッチンで洗い物をしていた楓子に向かって、なにやら言い辛そうに告げた。
「お母さん、あのね……」
「ん? どうしたの? 何かあった?」
娘の様子に尋常ではないものを感じた楓子は、思わず洗い物の手を止めて見つめる。すると桜子は自身の胸に手を当てて小声で訴えた。
「あのね……胸が苦しいの……」
楓子は一瞬「えっ?」という顔をした。次いで娘の顔と胸に視線を往復させた。
「どうしたの、胸が苦しいだなんて。ひょっとして具合でも悪いの?」
「うぅん、大丈夫。具合が悪いとか、そういうのじゃないから」
「それじゃあ……あっ、もしかしてあなた……恋でもした?」
ガタン!
ちょうどその時、1階の店舗から階段を上がってきた浩司が、偶然二人の会話を耳にした。思わず階段で蹴躓き、その場に蹲る浩司。彼は声が漏れるのを必死に堪えた。
楓子と桜子は反射的に階段の方を見たが、何も異常がないと判断して会話を続けた。
「あらぁ、やっぱり桜子もお年頃なのねぇ。でもね、誰かを好きになるってとても大切なことなのよ。お母さんも経験があるからわかるわ」
ガタン
階段から再び音がした。桜子と楓子は再度階段の方を向いたが、やはり誰もいないようだ。そこで二人は再び話を続けることにした。
「えっ、あっ、ち、違うよ! そ、そうじゃないし!」
桜子の顔は未だ赤みを帯びていた。それが風呂上がりのせいだけでないことは間違いない。そんな桜子に向かって楓子は優しく微笑みかけた。
「今はまだ理解できないかもしれないけれど、後から気付くこともあるものよ。一体誰のことが気になるのか、胸に手を当ててよく考えてごらんなさい」
楓子が悪戯っぽい顔をしながら掌をひらひらさせる。その様子を見ていた桜子が、さらに顔を赤くして叫んだ。
「ち、違うの! ブ、ブラジャーが小さくなっちゃったから、新しいの買ってほしいの!」
がたたたたっ!
階段から三度大きな音が聞こえて来た。
そんなわけで数日後、桜子は新しいブラジャーを着けて登校した。これまでのジュニア用とは異なり、新しいブラジャーは少し大人びたデザインだ。朝に鏡で自分を見た時、少し大人になった気分になって、少し気恥ずかしさを覚えた。
隣を歩く健斗が、今朝の桜子がいつもと違うことに気付く。けれど桜子は健斗の問いに顔を赤くして「なんでもないよ。見ないで、恥ずかしいから」とただ繰り返すばかり。
健斗は「?」で頭をいっぱいにしながら、彼女の横を歩き続けた。
桜子が教室に入っていくと舞と光が寄ってくる。
「おはよう、桜子。あなたは今日も可憐ねぇ、ふふふ」
「桜子ちゃん、おはよう!」
「お、おはよう……」
舞は相変わらずの不思議なテンションで桜子の頭を撫でまわす。それはまるで、お気入りのぬいぐるみを愛でる幼女のような仕草だった。
そして光も、いつもと同じ子犬のような笑顔を振りまきつつ話を始めた。
しばらく雑談をしていた光は、ふと桜子に違和感を感じてそれを口にした。
「あのね、桜子ちゃん。もしかして……胸……大きくなってない?」
ぎくぅ!
桜子が思わず動きを止めてしまう。実は、新しいブラジャーを装着してからずっと気恥ずかしさが消えずにいたのだ。それを隠して平静を保とうとしていたが、光にあっさりと見破られてしまった。
あぁ、なんというエスパー!
「な、なぜわかる? お、お主、さてはただ者ではないな……」
桜子は照れ隠しに誤魔化そうとしたが、その言葉に舞の瞳がきらりと輝いた。
「あら、ついに桜子も成長期に入ったのね。これで男子のエロ視線が分散されると思うと、少しホッとするわね」
「い、いや、そういうのいらないし……」
ただでさえ人目を惹く桜子である。もうこれ以上は本当に勘弁してほしかった。
うふふ、と意味ありげな笑みを浮かべる舞と、本気で嫌そうにする桜子。そんな二人のやり取りを見ながら、光が小さな声で呟いた。
「桜子ちゃんってさぁ、大人になったらハリウッドセレブみたいになるのかなぁ。背は高いし顔は小さいしスラっとしてるし。いいなぁ、羨ましいなぁ……わたしなんか背は低いし、寸胴だし……」
自分の胸に手を当てて光が俯く。それを慰めようと桜子が彼女の背を擦った。
「光ちゃんだって成長期なんだから、すぐに大きくなるって!」
「ありがとう。確かに背は少し伸びると思うけど、胸は……うちのお母さん見てるとね、ちょっと望み薄かなぁって」
「いいわよ、光はそのままで。だってその顔で胸だけ大きくなったら、ロリ巨乳になっちゃうでしょう?」
何気なく舞が言うと、それに光が顔を真っ赤にして反論した。
「ロリ巨乳言うな! ってか、そもそもロリじゃないし!」
などと、朝から凄くどうでもいい会話をする3人だった。




