第183話 天国へ行く資格
「……どちらがあの世に行きたい?」
その意味がよくわからずにポカンとした顔をする二人を見渡しながら、尚も神は口を開く。
その話しぶりは優しく丁寧で、まるで意味がわからないといった顔をする二人に根気強く説明を続けた。
「ふむ、意味がよくわからんか? 今回人間として死んだのはそこの桜子一人じゃろ? そもそも肉体の無い秀人は、人として死んだとは言えないからの」
「はぁ…… あまり死んだ、死んだって言わないで…… なんかへこむから……」
神の言葉を聞いていた桜子は、改めて自分が死んでしまった事実を思い出して泣きそうになっている。その横では秀人が何やら考えながら神の言葉に耳を傾けていた。
「あぁ、すまんのぉ…… 人間一人の死に対してあの世に連れていける魂の数も一つなのじゃ。それがお前たちの場合は一つの肉体に二つの魂が同居した形になっているので、滅多にないその例外をどうするかで少々揉めていての。本当にめんどくさい奴らじゃ……」
「……奴らって誰?」
「い、いや、こっちの話じゃ。それでお前たちのうち、どっちがあの世に行きたいかと訊いておるわけじゃな」
その言葉を聞いた秀人が、眉を顰めながら口を開いた。
「いや、お前はさっきからあの世あの世と言っているが、それは天国の事なのか? 違うのか?」
「一つ言っておくが、『あの世』と言うのは総称であって、そこには天国もあれば地獄もあるのじゃぞ。桜子は間違いなく天国行きだろうが、天国に行く資格のないお前は魂を消滅させられるか、さもなくば地獄行きかもしれんぞ」
神の説明では、もともと肉体を持たない秀人の魂は、あの世には行けても天国には行く資格がないそうだ。
彼の場合は何度か人として生まれ変わった後に、その生き方に対して評価が下されるらしい。そしてその結果によって天国へ行く資格が貰えるのであって、今の彼にはこのままあの世に行くと魂を消滅させられるか地獄に行くかしかないらしい。
そのどちらも嫌であるなら、この場で別の人間に生まれ変わるしかないそうだ。
「しかし知らぬであろうが、お前はすでに二回も人の命を救っておるのじゃぞ。一回目は信号無視のトラックから女の子を助けた時、そして二回目は桜子が箱根に誘拐された時じゃ。ちなみに例外として、人の命を三回救った者は前世での行いにかかわらず天国へ行く資格が貰えることになっておる」
「えっ? 誘拐された時?」
桜子がとても嫌な顔をしている。
あの箱根に誘拐された事件は、彼女の中ではとても大きなトラウマになっていて、今でも思い出したくない記憶の一つとなっていた。それでもあの時は初めて覚醒した秀人によって助けられたのだが、もしも神の言うことが本当であるのなら、桜子はあそこで殺されていたということらしい。
確かに彼女は箱根の顔も名前も知っていたので、彼にしても自分の事を知っている桜子を無事に解放するとは考え難く、確かに神の言う通りあそこで殺されていたとしてもおかしくはなかったのだ。
もっともそれほど切迫した命の危機を察知したからこそ、長い間桜子の心の奥底で眠っていた秀人の人格が覚醒したのだろうし、後先を考えずに桜子の身を守ってくれたのだろう。
「うむ、桜子よ、本来であればお前は箱根に誘拐された時に殺されてしまうはずだったのじゃ。お前の運命としてな。それがこの秀人のおかげで命を拾ったと言っても過言ではない。それほどに此奴の存在は予定外だったんじゃ。お前の運命を変えてしまうほどにな」
「そ、そうだったんだ…… もしかしたら、あたしはあの時に死んでいたのかもしれないんだ…… やっぱり鈴木さんはあたしの命の恩人というのは本当だったんだね……」
当時の事を思い出した桜子は、ぶるりと小さく身震いをしながら秀人の顔を見つめている。その顔には抑えきれない恐怖が垣間見えて、未だに思い出す度に身体に震えが走るほどに彼女の心に傷を残していることがわかるものだった。
「いや、あの時は俺も目が覚めたばかりだったから、少しやりすぎたかもしれん。もっとも今思えばあんな真正ロリコン変態野郎なんてぶっ殺しても全然かまわなかったけどな」
「ふむ。あの男はどのみち地獄送りじゃわい。他にも余罪があるからのぉ…… っと、そんな話をしているところではなかったな。ところで……」
「ちょ、ちょっと待て。いまお前は俺が二回人の命を助けたと言ったな? それじゃあ俺は手遅れじゃねぇか。だって全部で三回助けないと俺は天国には行けないんだろう?」
そこで一旦話を仕切り直す様子を見せた神の言葉を遮るように秀人が口を挟むと、神は何処かほくそ笑むような笑いを浮かべ始める。それはまるで人に誘導尋問を仕掛ける様に見えて、わざと秀人がそう言うように仕向けているように見えた。
「やっぱりそこが気になるか? まぁ、これ以上のお節介は儂には出来んがな」
「はぁ? ……なんかムカつくな。お前、何を考えてる? なにか良からぬことを考えてるんじゃないだろうな?」
細い目をさらに細めて秀人がギロリと睨みつけても、そんな事には全くお構いなしに神は話を続ける。それでもその顔には何処か含み笑いのような表情が見えて、余計に秀人を苛つかせていた。
「ふふん、べつに何も考えておらんぞ。まぁよい、自分の胸に手を当ててよく考えてみよ。お前が最期に命を救える人間がまだいるではないかと儂は言っておるのだ」
「はぁ? これから? お前は頭が膿んでいるのか? 俺が誰の命を救うってんだよ、もう死んでるっていうのによ!!」
神の言う意味がさっぱりわからない秀人は、そのイラついた感情を隠すことなく、まるで八つ当たりをするように神に食って掛かっている。そんな姿を半ば全てを諦めたような顔をした桜子がぼんやりと見ていた。
神の言うことが本当であれば、自分はこのまま天国へ行けるらしい。
その資格を既に持っていると神は言っていたし、自分としても本物の天国とやらを一度見てみたいとも思い始めていたのだ。
どのみちもう死んでしまったのだ。
だからこのまま楽園と言われる天国でのんびりと暮らすのも悪くないかもしれない。
そこには現世のように嫌なこと、辛いこと、苦しいことも無いだろうし、皆が美男美女になれる天国では自分の容姿が注目を浴びることもないだろう。
それに美味しい物もいっぱいあると言っていたし、体重を気にせずにお腹いっぱいスイーツを食べまくるのも楽しそうだ。
そしてそれに飽きたら、また別の人間に生まれ変わって新しい人生を始めるのだ。
あぁ、辛いことばかりの人生だった。
しかもまだ十七歳だと言うのに、最愛の恋人に別れも言えずに死んでしまった。
こんなことなら、無理をしてでも健斗に胸を触らせてあげればよかった。
健斗……
けんと……
あぁ、一目でいいからまた会いたいよ…… 健斗……
「ぐすっ、ぐすっ…… 健斗…… うぇーん、けんとぉ…… 会いたいよぉ、ぐすっ…… うぇーん」
秀人が神に向かって食って掛かっていると、その横で桜子が急に泣き始めた。
せっかく自分の境遇を受け入れて落ち着き始めていたのに、急に恋人のことを思い出した桜子は堪えきれずにまた泣き出してしまう。思わず憐れみを誘うその姿を見ていると、粗野で短気な秀人の瞳にも涙が滲んできそうになった。
「おいお前、もしも桜子があの世に行ったら俺はどうなるんだ?」
思わず流れ出そうになった涙を誤魔化すよう話題を変えると、秀人は神に問いかけた。
「ふむ、お前はここで別の人間に生まれ変わるか、このまま消滅するしかないのぉ」
「……それじゃあ、俺があの世に行ったとしたら桜子はどうなるんだ? 消滅するのか?」
「いや、消滅はせん。さっきも言ったが、あの世に行けるのは一人だけじゃ。だからお前が行けば、桜子はこのまま別の人間に生まれ変わるか、元の身体に戻るしかないじゃろうな」
何気なく言った神の言葉を聞き逃さずに、秀人の眉が上がる。
その言葉の意味を瞬時に理解した彼は、まるで掴みかかるかのように勢いよく神ににじり寄った。
「……なに? こいつは元に戻ることが出来るのか? どうやってだ?」
「……お前があの世に行くと言えば良い、それだけじゃ」
その言葉を聞いた秀人は、怪訝な表情を崩さないままさらに神ににじり寄る。その勢いに押された神は、思わずその上体を反らす勢いだ。
「でも、俺はあの世には行けても天国に行く資格は無いんだろう? さっきお前は、三回人を助けないと資格は貰えないと言っただろ!? どのみち助けられる人間なんてもういないんだから、手遅れとしか言えんがな」
「……まだわからんのか、ほれ、最期にまだ助けられる人間がおるじゃろ、目の前に…… 儂にみなまで言わせるな」
そう言って神が指さした先を見ようと秀人が顔を上げると、そこには涙をぽろぽろと零しながらべそをかいている桜子がいた。彼女は健斗と母親の名前を口にしながら周りの目も憚らずに大きな口を開けて泣いている。もっとも周りの目と言っても、神と秀人しかいないのだが。
そんな彼女の泣き顔を見つめながら、神は尚も話し続ける。
「桜子のこの姿を見て、お前はなんと思う? よく考えてみよ」
まるで謎かけのようなその言葉に戸惑いながらも、思い切ったように秀人は口を開いた。
「……俺をあの世に連れて行け。俺には天国に行く資格がないのはわかっている。だからあの世で地獄に落とされても、魂を消滅させられても構わない。俺が行けば桜子は元に戻れるんだろ? 生き返られるんだろ? そうなんだろ?」
「あの世ではお前は恐らく消滅させられるぞ。それでも良いのか? それならば桜子をあの世に行かせて、お前はここで別の人間に生まれ変わった方が良いのではないか?」
「うるせぇ!! たとえ地獄に落ちようが、魂ごと消されようが、そんなの関係ねぇ!! いいから俺をあの世に行かせろ!! そしてこいつを生き返らせろ!! 何度も同じことを言わせるんじゃねぇよ、このクソ爺!!」
秀人のその啖呵を聞いた途端、神の表情が変わった。
それまでの憮然とした表情は消え失せて、急に嬉しそうな表情を浮かべると彼は秀人の肩をポンと叩いた。
「よくぞ言った!! お前は己の悲惨な未来を顧みず、桜子の命を救ったのじゃ。これでお前が人の命を救ったのは合計三回となった。よかったのぉ」
「な、なに? 意味がわからんが……」
「お前があの世に行けば、行き場を失った桜子の魂は元の身体に戻される、つまりはそういう事じゃ。要するにお前は桜子を生き返らせたということじゃよ。そして三回人の命を救った者の魂は天国へ行く資格が貰えるのじゃから、これで大手を振ってあの世に行けるぞ、秀人よ」
「えっ?」
なにやら真面目な話をしているらしい秀人と神を横目に見ながら、めそめそとべそをかいていた桜子が素っ頓狂な声をあげた。
彼らの話を聞いている限りでは、どうやら自分が生き返る方法があるらしいのだ。しかし泣きながら物思いに耽っていた彼女はその詳しい話を聞いていなかった。
そんな桜子の正面に秀人がやって来ると、なにやらバツの悪そうな顔をしながら後頭部を掻いている。
「そ、そういうことだから、俺は天国に行けることになったしお前は生き返る事が出来るらしい……」
「……そういうことってどういうこと?」
それから二人に詳しい事情を説明された桜子は、文字通り飛び上がって喜んだ。
自分はもう死んだのだからと現実を受け入れて諦めていた彼女は、まさかここで自分が生き返られると思ってもみなかったので、その喜ぶ様は見ている方まで嬉しくなるほどのものだった。
喜びのあまり一頻りはしゃぎ回っていた桜子は、ふと正気に戻るとおずおずと口を開いた。
「……いまさらだけど、それじゃあ鈴木さんとはここでお別れなの? このままあたしが生き返っても鈴木さんはもうあたしの中にはいないの?」
「そうだな。俺は神に連れられて天国へ行くことになったから、もうお前の面倒は見られない。すまないが、今後は何かあっても自分で何とかしてもらうしかないだろうな。ちょっと頼りないが、お前には健斗もいるだろう。もっとも今回はあいつを守るためにお前が身代わりになったんだが……」
「そうだね…… あたしには健斗もいるし、お母さんも、友達もいっぱいいるから、きっと大丈夫だよ。あたしの事は心配しないで、鈴木さんは憧れの天国生活をエンジョイしてよ」
まだ見ぬ天国に想いを馳せた桜子は一瞬だけ羨ましそうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻ると快く秀人を送り出そうとする。満面の笑みが溢れる彼女の顔は、秀人が今まで見てきた中でこれが一番かもしれないと思うほどの笑顔だった。
「まぁ、心配するな、しばらく秀人は楽園生活を楽しむことになるのじゃよ。そしていつになるかはわからぬが、いずれ別の人間として生まれ変わるのじゃ。もしかすると、お前もいずれ此奴と再び相まみえる時が来るかもしれんぞ。ほっほっほ」
「そっかぁ…… でもこれで鈴木さんは天国に行けるし、あたしは生き返れるし、これで二人ともウィンウィンなんだね。神様、本当にありがとう。このご恩は一生忘れません。また会う日を楽しみにしていますので、それまで一旦お別れですね」
「まぁな。次に儂と会う時はお前が本当に死んでしまった時じゃろうから、それはしばらくは先じゃろうの。それでは一時の別れじゃ、桜子よ」
「桜子、それじゃあこれでお別れだな。元気に暮らせよ。健斗と仲良くしてやってくれよ。体には気を付けるんだぞ。それじゃあな。あばよ」
「……うん、鈴木さんもお元気で…… ぐすっ、ぐすっ……」
まるで自分の半身のような存在との別れを迎えた桜子は、その寂しさと切なさで思わず大粒の涙を流してその別れを惜しんだのだが、やがて落ち着いて来ると秀人とガッチリ握手を交わした。
それから徐に彼の身体に抱き付くと、目をつぶってしばらくそのまま佇んでいた。その姿はまるで秀人の感触を確かめているように見えた。
しばらくすると、秀人は神に連れられてこの場を去って行った。
神の後ろをついて遠ざかっていく秀人の背中を見つめながら、桜子はこれから生き返る嬉しさとともに、言いようのないとても大きな喪失感を味わっていたのだった。