第181話 受け止め切れない現実
上も下も前も後ろも横も、全てが真っ白な世界に桜子はいた。
ここは彼女がいつも秀人に会う世界によく似ていたが、それでも何処かが違う気がした。しかし何処がどう違うのかと訊かれると困ってしまうし、それは彼女がなんとなくそう思うだけで特に何か確信があるわけでもなかった。
そんな真っ白い世界の片隅で桜子は怪訝な顔をしながら首を捻っていた。
「……あれ? あたしは……」
自分がここにいるということは、現実の世界の自分はきっと眠っているのだろう。
そう思った彼女が眠る前の記憶を思い出そうとしても、どうしても思い出すことが出来ずに頭を抱えていると、突然背後から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「よう、桜子、元気か……って、元気なわけないよな。だってお前は……」
秀人が言い淀んでいるのを全く気にせずに、彼女は相変わらず天真爛漫な天使スマイルを振りまいている。その様子を見た秀人は彼女が自分の境遇に気がついていないことを確信していた。
「あぁ、鈴木さんじゃない!? 随分と久しぶりだねぇ……前に会ったのは確か…… あれ、いつだっけ?」
「い、いつ以来だったかな……」
小さく唸りながら首を捻り始める桜子の姿を見ながら、何か都合の悪いものを見られた子供のような顔をした秀人は、次の瞬間、彼女にまるで責めるような目つきで見つめられていた。
「……あぁ!! そうだよ、前に会った時もこんな夢の中だったでしょ!! そうそう、あたしがこの姿で生まれたのは鈴木さんの希望だったって、神様が……」
「ほうほう、随分と久しぶりじゃのう。二人とも元気にしておったか? って、儂にとってはついさっきのようなものじゃがのぅ。ほっほっほ」
そんな二人の間にこれもまた聞き覚えのある声が割って入ると、それまで秀人を攻め立ててやろうと鼻息を荒くしていた桜子は思わずその声のする方向に視線を送っていた。
「あっ、神様!! お久しぶりです…… どうだろう、あたしは元気なのかなぁ……どうしてもここに来る直前の事が思い出せなくて……」
「……なんだお前、自分がどうなっているのか理解しておらんのか?」
「お、おい、ちょっと待て、彼女にはまだ心の準備が……」
次に神が何を言おうとしているのかを察知した秀人は、突然慌てたようにその言葉を遮ろうとしたのだが、その神は彼の思いを知ってか知らずか、そんなことにはお構いなしとばかりに飄々と話を続けている。その様子はまるで言葉の通じない老人のようにも見えた。
「お前は死んだんじゃぞ? わかっていないのか?」
その言葉を聞いた桜子はキョトンした顔をしながら神の顔を見つめていて、言葉自体は理解できてもその意味は理解出来ていないようだった。そしてその横では己の額に手を当てて大きなため息を吐く秀人の姿があった。
「や、やだなぁ、神様…… そ、そんな冗談はちっとも面白くないと思うよ……」
思わず桜子が顔を引きつらせながら答えていると、必要以上に真顔を作った神が話を続ける。
「儂は嘘や偽りは言わんぞ。規則でそう決められておるからな」
「……」
「いいか、お前がここに来る前のことをよく思い出してみることじゃ。そこに真実があるのではないのか?」
神のその言葉を聞いた桜子は、必死になって自身の記憶を辿っていく。
するとそこには衝撃の光景が広がっていたのだった。
----
「お前は俺から娘を奪ったんだ!! 愛する者を奪われた俺の気持ちがお前にわかるか!? どうせわからないだろうから俺が教えてやる!! 今こうしてな!!」
健斗の背中越しの遠藤が、自分に向かって叫ぶ声が聞こえる。
湧き上がる恐怖心に飲み込まれそうになりながらその声の主に視線を向けると、狂気の色が宿る遠藤の瞳には既に彼が正気を失っていることは明らかになっていた。
そして次の瞬間、彼がパーカーの腹ポケットから何か光る物を取り出すのが見えたのだ。
薄暗い月明かりの下にぬめりと光る輝きを見ると、明らかにそれが何かの刃物であることがわかったし、それを一目見た健斗の身体が瞬時に強張っていく様子も見て取れた。
桜子の位置からは健斗の左半身しか見えなかったが、それでも彼が恐怖に身体を竦ませていることはわかったし、それにジリジリと遠藤がにじり寄っている姿もはっきりと見ることができたのだ。
遠藤と健斗の距離は約一メートル、対して自分から健斗までは三メートルはある。
その距離を一瞬にして詰めなければ彼の命は無いだろうし、続いて自分の命も危ないだろう。
最早これは考えてる場合ではない。
考える前に身体を動かせ。
そう思った桜子は、自身の行動の結果に思いを馳せる前に、瞬時にその身体を健斗の左側面に突っ込ませたのだった。
----
「……そ、そうだったね…… あたしは健斗に体当たりをして…… 代わりに刺されて……」
小さな声でぶつぶつとつぶやきながら、呆然とした顔で桜子が宙を見上げている。
その現実をまるで夢か何かのようにしか思えなかった彼女は、まるで呆けたような顔と焦点の合わない目で何処か遠くを見つめていて、その表情は彼女がその現実を受け止めきれていないことを物語っていた。
「ふむ、思い出したかのぅ。それでこれからどうする? ん?」
その言葉を聞いた桜子は、未だ呆けたような表情のまま神の顔を見返した。
「ど、どうするって、なにが? なにかあるの?」
「……お前も儂にタメ口を聞くのか…… まぁよい、その話だがの、お前は十分に天国に行ける権利があるぞ。そこでしばらく楽園を楽しんだ後に新しい命として生まれ変わることが出来るのじゃ」
「て、天国…… やっぱり天国ってあるんだ……」
それまで怪訝な顔をしていた桜子の顔が、今度は不思議そうな表情を浮かべている。本当に彼女は感情豊かな性格をしているらしく、その様子を微笑ましい笑みを浮かべながら神が眺めていた。
「そうじゃ、天国じゃよ。あそこは楽しいぞ。明るくて暖かくて、美味い物もたくさんあるしのぅ」
「で、でも、あたしはまだ心の準備が…… それに自分が死んじゃったなんて今でも信じられなくて…… って、でもちょっと待って、それじゃ健斗は? 健斗にはもう二度と会えないっていう事? お、お母さんにも? 友達にも?」
「そうじゃのう…… 言うまでもないが、お前はもう死んだんじゃぞ。だからこの世とあの世の間にあるここにきておるんじゃ。だからもちろんもう誰にも会えないじゃろうのぅ」
「えーっ!! うそぉ!! やだ、やだ、やだぁ!! 健斗にもお母さんにも会えないなんてやだぁ!! うああぁぁん、健斗、健斗、けんとぉぉぉぉ、お母さぁん…… うわあぁぁぁん!!」
己の死と言う現実を急に突き付けられた桜子は、突然パニックを起こしたように泣き喚き始める。
普段激しい感情をあまり表に出さない彼女にしては珍しいその姿に、秀人も困惑と憐れみの混じった眼差しで見つめているのだが、そんな桜子にかける言葉をいまの秀人は持ち合わせてはいなかった。
「桜子……」
「うえぇぇぇぇぇん…… ひっく、ひっく、えーん、えーん、やだよぉ…… うぅぅぅ……」
その後しばらくの間桜子は泣きじゃくっていたのだが、もう既にこの状況がどうにもならない事を次第に理解した彼女は、徐々に落ち着きを取り戻すと秀人に話しかけて来た。
「鈴木さんも昔一度死んだんだよね? その時もやっぱり今のあたしと同じ気持ちだったの? お母さんにも健斗にも友達にも、もう二度と会えないんだよ…… そんな事って……」
「ま、まぁな。俺も自分が死んだ時はそんな感じだったかもな…… た、たぶんな……」
悲しみに暮れる桜子に向かってまさか本当の事も言えずに、とりあえず秀人は適当にそう言ってみた。そう答えることによって桜子の気持ちが少しでも紛れるのであれば、それはそれで良かったのだ。
「まぁ、返事は今すぐで無くとも良いぞ。ゆっくりと考えてからでも十分じゃわい」
未だ己の死の現実を受け止め切れずにべそをかいている桜子の姿に、まるで憐れんだような視線を送った神は出来るだけ優しい口調でそう話した。
その瞳には悲しむ孫娘を見つめる祖父のような慈愛の感情が溢れていて、彼は心の底から桜子のことを不憫に思っている様子が見て取れるものだった。
そんな様子を黙って見つめていた秀人が口を開いた。
「おい、俺はどうなるんだ? こいつが死んだら俺はどうなる?」
秀人の疑問はもっともなことだ。
秀人が桜子の前世の人格だったとして、現世の人格である桜子の魂が天国へ行ってしまうと秀人は一体どうなってしまうのだろうか。
そもそも彼は桜子の肉体有りきで存在していたものなのに、その言わば宿主とも言える桜子の人格と肉体なしには存在し得ないのではないだろうか。
「お前か? あぁ、お前はあれだ、取り敢えず地獄にでも行ってもらおうか」
「なっ、なにぃ!? 地獄だとぅ!? しかも、取り敢えず、だと!? そんな適当でいいのか!?」
顔面を蒼白にした秀人が、その細い目を思い切り見開きながらまるで神の胸ぐらを掴む勢いでにじり寄って来る。そのあまりの剣幕に些かタジタジになりながら神は答えた。
「う、嘘じゃ、冗談じゃよ…… 嫌じゃのぅ、お前には冗談というものがわからんのか」
その言葉を聞いた桜子が、ジトっとした目で神を見ている。
「……神様って嘘をつけないんじゃなかった? さっき規則があるって言ってたじゃない……」
「……ごほんっ…… ま、まぁいいではないか。そ、それで秀人よ、お前の処遇なのじゃが……」
「お、おぅ」
神の顔を見つめる秀人の顔に緊張が走る。
今となっては宿主である桜子は死んでしまったのだ。それならば彼女と一心同体とも言える自分も天国に行けるのだろうか。
「お前は天国へは行けぬ。このまま消滅するか、すぐに別の人間に生まれ変わるかじゃな」
「ど、どうして俺は天国には行けねぇんだよ!?」
まるで納得がいかないと言わんばかりににじり寄って来る秀人の姿を見つめながら、神は少し困ったような顔をしている。それからやれやれと言いたげな様子で大きなため息を吐いた。
「そう言えばお前、この前会った時の話が途中で終わっていたのぅ。仕方あるまい、その話の続きをしてやろう」
もちろん神の言う「その話」とは秀人には良くわかっていた。
それは神が秀人の事を秀人では無いような物言いをした時の話で、彼はそれからずっとその意味を考えていたのだ。しかし結局彼にはその意味を理解することはできなかった。
「便宜上こう呼ばせて貰うが、秀人よ、お前は自分の事を誰だと思っておるのじゃ?」
「お、俺は俺だろう? 俺は鈴木秀人だ。ち、違うのか?」
彼にしては珍しく、気弱な表情をしながらおずおずと神を見る姿は少しだけ可愛く見えて、思わず桜子は顔に笑みを浮かべてしまっていた。そんな彼女の顔を見た秀人は、それでも不安そうな表情を消せずにいる。
「まぁ、そうじゃな。確かにお前は鈴木秀人であると言えるじゃろうの」
「じゃ、じゃあ、どうしてあんな事を……」
「しかしな、それは半分当たっていて、半分外れているとも言えるじゃろうな」
「はっきり言えよ、まどろっこしいな」
「まぁ、聞け。お前は……」
「……勿体ぶらずにはっきり言いやがれ、この爺!!」
まるで小出しにするような神の態度にイライラした秀人が思わず大きな声を出すと、桜子が後ろからそれを嗜めていた。もしここで神の機嫌を損ねれば、教えてくれるものも教えてくれなくなるのではないだろうか。
桜子としても秀人と神の話には非常に興味のあるところだったのだ。
「……相変わらず短気で口の悪い奴じゃのぅ……まぁよい。今のお前はこの桜子の第二の人格とも言える存在なのじゃろう? 違うか?」
「ま、まぁ、そうだな。こいつの主人格はあくまでも桜子だからな」
「ふむ。では、前世でもお前は第二の人格だったとしたらどうする?」
「……なに?」
その言葉の意味が理解出来ずに、秀人は思わず声を出していた。