第180話 起きない眠り姫
桜子は刃渡り約20センチの出刃包丁で左脇腹をほぼ柄の部分まで刺されていて、それはおよそ背中まで貫通するような深い傷だった。
奇跡的に大きな血管は傷ついていなかったものの、腹腔内には大量の血が溜まっていたし左の腎臓も損傷している可能性が高かったため、親権者である楓子の到着を待たずに緊急手術が行われることになったのだ。
図らずもその場所は彼女の父親が手術で摘出したのと同じ箇所だったので、なんとも宿命のようなものを感じてしまうのだった。
搬送先の病院に楓子が駆け付けた時には、既に桜子は手術室に入った後だった。
医師と警察から娘の容態と事件の概要を聞いた彼女が両手をきつく握りしめて怒りと悲しみと焦りに耐えながら必死に手術が終わるのを待ち続けていると、その脇には健斗が憔悴し切った顔で只只管に恋人が搬送された手術室のランプを見つめ続けていた。
桜子が手術室に入ってから随分と時間が経ち、日を跨いだ今はもう午前一時をまわっている。
それでも薄暗い廊下のベンチに座った二人は、どちらからも口を開くこと無くただただ時間が過ぎるのを待っているのだった。
そんな中、健斗がポツリと言葉を零した。
「おばさん…… さっき俺に謝る必要はないって言ってくれたけど、やっぱり俺は……」
健斗の顔は涙を流しすぎたせいで未だ目が充血したままだった。そしてその顔を見つめながら楓子は小さなため息を吐いていた。
「健斗くん…… さっきも言ったけれど、あなたには何も責任はないのよ。これは全部あの犯人が悪いんだから、これ以上自分を責めてはいけないわ」
「でも、俺は桜子を守るってずっと言ってきたのに、それが逆になるなんて……」
「……こればかりは仕方ないわよ。それがあの子の意思だったんだから……」
「俺は……俺は……最後に恐怖に負けたんだ…… 怖くて足が動かなくなった俺を……あいつは…… あ、あいつは…… うぅぅぅ……」
またしても健斗が泣き始める。
それは楓子が病院に到着してからもう何度も見る姿で、普段の彼を知っている者ならきっと誰もが驚いただろう。普段の彼は無口で無表情でぶっきらぼうで、その頑固さを表す口は真一文字に結ばれていて、凡そ泣くとか弱音を吐くなどといった姿は想像できるものではなかったからだ。
その彼がずっと泣いているのだ。
その様子は彼がそれだけ打ちのめされている証拠でもあったし、なにより自分を救うために犠牲になった桜子の事を思うと、自分の不甲斐無さと自分を思う彼女の気持ちの強さを思い知らされていた。
「健斗君…… お願いだからもう泣かないでちょうだい。きっとあの子もあなたのそんな姿は見たくないと思っているはずよ。あの子の中のあなたはもっとずっと強くて大きいはずだから……」
桜子が手術室に入ってから五時間後、午前三時にやっと手術は終了した。
ストレッチャーに乗せられて手術室から出て来た彼女は血の気の無い真っ白な顔をしていて、その姿は妙に神がかったような美しさを湛えていた。こんな時にそんな事を思ってしまうのは不謹慎なのかもしれないが、健斗は彼女の姿に天使か女神のような存在を感じていたのだった。
桜子の怪我は複数の箇所に及んでいた。
左わき腹から入った刃物は小腸を数か所貫いていて、その奥の左の腎臓の一部を切り裂いていた。しかしその勢いは止まることなく、最終的に背中まで貫通していた様はそれだけ強い力で刺された事を意味していたのだ。
それは加害者である遠藤の強い殺意を証明するのに十分な証拠となるもので、今後の裁判では恐らく彼は相当重い罪を問われることになるだろう。
健斗に思い切り後頭部を地面に叩き付けられた彼は頭部の怪我を心配されていたのだが、ただ脳震盪を起こして気絶していただけだった。既に意識を取り戻した遠藤は、今頃警察に相当厳しい取り調べを受けているはずだ。
集中治療室に入った桜子は、家族以外の面会は許されなかった。
もっとも家族と言っても今ではもう楓子しかいなかったし、本人の意識が戻らないままなので、面会と言っても楓子はただ眠る彼女の横で椅子に座ったままぼんやりとその天使のような顔を眺めているしかなかった。
健斗は家族ではなかったが、それでも楓子と一緒の時であれば入室を許されていた。
しかし彼も楓子と同じようにただ眠る彼女の顔を見ているしかなかったし、そうしているだけでも彼は満足だったようで、只管祈るように桜子の顔を見続けていたのだった。
医師の話では手術後四十八時間が大きな山場であるらしく、そこを無事に乗り越えられれば容態は安定するだろうと言われていた。しかし腹腔内への出血量が多かったために急激に血圧が下がってしまい、その結果脳のダメージとその後遺症が心配されたのだ。
たとえ意識を取り戻したとしても何かしらの影響が見られる可能性は高く、場合によっては言語機能の消失や身体の麻痺、意識の混濁が続くなど、聞いただけでも気が遠くなるような内容だった。そして医師からその説明を受けた時には思わず楓子は倒れそうになっていた。
楓子の両親は彼女が高校生の時に他界しており、他に兄弟、姉妹はいない。
夫は昨年の正月に亡くなっていたし、同居していた夫の母親も同じ年の暮れに亡くなった。
学生時代に世話になった親戚は数件あるのだが、そもそも彼らとの縁を切るために地元を飛び出して来た事もあり、今では全く付き合いは無くなっている。
そしてたった一人残された最愛の娘はいま生死の境を彷徨っていて、たとえ回復したとしても脳に障害が残る可能性もあるらしかった。
その話を聞いた時に、楓子は本気で神を呪った。
この世に神という存在が本当にいるのなら、せめて一言でもいいから文句を言ってやりたかった。
それは自分の人生に対してではなく、その生まれからして不幸ともいえる桜子の人生に対して物申したかったのだ。
娘の人生を見ていると、あまりにも不憫だった。
捨て子として生まれ、人とは違い過ぎる容姿の為に虐められ、人から注目を浴び続け、彼女には気の休まる暇が全くなかったのだ。そしてそれが原因で二重人格の病気を発症していた。
多感な思春期の真っ只中に父親には先立たれ、家業の手伝いのために行きたい高校にも行けず、痴漢にあって精神的な後遺症に悩まされ、そのせいで恋人とは関係を結べず、挙句の果てに刃物で刺されて生死の境を彷徨う羽目になっている。
一体誰が彼女の人生をこんな風にしてしまっているのだろうか。
ただの偶然が重なっているにしては出来過ぎているし、どう考えてもそこに誰かしらの意図を感じさせる彼女の人生に本気で疑問を持ってしまうのだ。
しかし今ここで実在しない神の悪口を言っても何の意味も無ければ、その神に祈るなどあり得ない話だった。だから楓子は今はただ術後の四十八時間を何とか彼女が乗り越えてくれる事だけを願っていた。
手術後30時間が経過すると、桜子の熱が上がって来た。
検査をすると小腸を傷付けられたことによる腹膜炎が併発している事がわかったので、とりあえず抗生剤を投与して様子を見ることにした。しかし腹膜炎を起こすということは、まだ腸に穴が開いている可能性があるために、再度開腹手術をするべきかどうかを医師は話し合っていた。
しかし必ずしも腸に穴が開いているとも限らないし、度重なる輸血と左の腎臓の欠損による影響で桜子の身体がこれ以上の手術には耐えられないという判断から、もう少しだけ抗生剤で様子を見ることにした。しかし、当初に山場と言われていた48時間を経過しても一向に彼女の熱が下がることは無く、その意識が戻る事も無かった。
楓子は仕事を休んで付きっきりで桜子の世話をしている。
世話と言っても特にする事はなく、ただずっと傍にいて顔を見ている事しか出来ないのだが、それでも彼女は娘の傍にいるだけで満足していたし、きっと桜子も喜んでくれているだろうと思っていた。
健斗は学校があるので昼間は病院に来られないが、桜子が入院してから放課後は部活を休んで面会に来ていて、彼も楓子と同じように桜子の顔を見て話しかけるくらいしかする事は無かった。
「なぁ、桜子。お前が退院したら、前から行きたがっていた海に一緒に行こうな。もう秋だから海には入れないけど、一緒に釣りをしたり、砂浜で昼寝をしたり、きっと楽しいと思うよ」
「最近やっと柔道部の部長として皆が頼ってくれるようになったんだ。これからももっと頑張るからな」
「今日は佐野さんと荒木さんと八木さんも見舞いに来たいって言ってたんだけど、まだ家族以外はダメだからって断って来たんだ。ごめんな、お前も友達に会いたかっただろう?」
「なぁ、桜子、お願いだから何か言ってくれよ…… 俺はお前が笑っている顔をもう一度見たいんだ……」
「……ごめん……俺はお前を守るって言ったのに……ごめん……」
未だ真っ白な顔で眠る桜子の頬に、健斗の涙が滴り落ちる。
その後ろでは楓子が悲痛な顔で涙を堪えていて、ともすれば彼女の方が大声で泣き出してしまいそうなのを必死に堪えていた。
それは意識の無い桜子に向かって、今日学校であった事、友達と話した事、部活であった事など、普段無口な彼が一生懸命話題を探して只管話しかける姿は涙なしには見ることが出来なかったからだった。
喋り疲れた健斗がふと黙り込んでしまうと、病室の中には桜子の規則正しい寝息と、彼女の身体に繋がっている心電図モニターの電子音だけがやたらと大きく響いていた。
すでに話題も無くなって黙り込んでしまった健斗と、数日間の泊まり込みですっかり疲れ切っていた楓子がぼんやりとその電子音を聞いていた時、それは起こった。
「ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピ―――――――――――――――」
それまでずっと規則正しく鳴っていた電子音のリズムが急に変わると、それと同時に多数のアラームがけたたましく部屋に響き始める。
その音に気付いた二人が慌てて桜子に目を向けると、彼女の心電図モニターの波は一斉に水平線を描いていたのだった。