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第179話 姫に救われた騎士

 市営住宅が密集する地区はS町の中でも東の端に位置していて、そこは最寄りの鉄道のS町駅までも徒歩で20分はかかる少々不便な場所だ。

 建物自体も築後約30年が経過しているのでお世辞にも新しくて綺麗な建物とは言えないが、それでもその家賃の安さのために低所得者層や母子家庭、独居老人などに人気のある集合住宅だった。


 そんな市営住宅の一角に多数の赤色灯が煌めき、もう既に夜の9時過ぎだというのに、多くの野次馬が輪を作っていて(いささ)か大きな騒動と化している。


 そんな騒動の中心に、彼と彼女はいた。



「桜子!! 桜子!! 頼むから返事をしてくれよ、お願いだぁ…… うわあぁぁぁ」


 野次馬が作る輪の中心には救急隊員に担架で運ばれて行く金色の髪の少女と、それを半狂乱の様相で縋るように追いかける小柄な少年の姿があった。

 しかし少年の悲痛な叫びは、その少女にはまるで届いていないように見えた。


 ほとんど絶叫に近い少年の叫び声にピクリとも反応しないその姿は、彼女がただ気を失っているだけのようにも見えて、その実、全く血の気の無い真っ青と言うよりもむしろ真っ白に近い顔色の悪さは、ともすれば最悪の状況を想像してしまうほどのものだった。


 

 不幸中の幸いと言うべきか、桜子が刺された現場には通報が入るよりも早く警察官が駆け付けていた。それは事前に楓子から相談を受けていた警察が現場周辺に約束通り見回りの警官を派遣していたからだ。


 結果的にその警官が一番に現場に駆け付ける格好になったのだが、本来であれば彼らは事件を未然に防がなければならなかったはずなのだ。しかしそうならなかった理由は、今回の警官派遣の目的がそもそも事件の未然防止のためではなく、ストーカー事件に対する世間へのパフォーマンス的な意味合いが強かったからだ。

 そしてそんな事情で派遣された警官自体も、あまり熱心に仕事をしていたとは言えなかったのだ。


 どうせ何も起こらないだろうと(たか)(くく)っていた警官だったが、突然夜道に響いた怒鳴り声に慌てて駆け付けてみると、そこには腹から血を流して倒れている少女と、すでに犯人を自力で排除していた少年の姿があるだけで、当の犯人らしき男は路上に大の字になって倒れているばかりだった。

 事前に情報を貰っておきながら、事件を未然に防ぐことが出来なかった今回の警察の対応は非常にお粗末だったと言わざるを得ず、後日マスコミから叩かれることは必至だと思われた。

  



  

「桜子!! 桜子ぉぉ……うあぁぁ!!」 


「こ、こら、君!! 怪我人に触っちゃだめだ!! いまはまだそれを抜いちゃいけない!!」


 未だ桜子の腹から生えたままの包丁の柄を引き抜こうと必死で暴れる健斗の身体を、まるで羽交い絞めするように救急隊員が押し留めている。

 今ここでそんな事をしてしまえば傷口から血が噴き出して助かるものも助からなくなるのは素人でもすぐにわかりそうなものなのに、今の健斗はそんな簡単な事さえわからなくなるほどに混乱していて、とにかく一秒でも早く彼女の身体に刺さっている異物を取り去ることがその命を救うことになるような錯覚に陥っているようにしか見えなかった。



「落ち着け!! とにかく落ち着くんだ!! 君は彼女の恋人なんだろう!? 彼女を励ますのは君の役目なんじゃないのか!?」


「うわぁぁぁ、桜子!! わぁぁ!!」 


「しっかりしろ!! そんな事では彼女を君に任せられないだろう、おい!!」


 あまりの混乱振りに見かねた警官が健斗の肩を掴んで激しく揺さぶると、彼の瞳には次第に落ち着きの色が戻ってくる。すると健斗は知らぬ間に自分が叫び続けていたことにようやく気が付いたようで、自分の両肩に手を置いている警官の目を見上げながらまるで深呼吸をするように何度も息をした。



「落ち着いたのなら車に一緒に乗ってもらいたい。無理はしなくてもいいがすぐに決めてくれ、時間が無いんだ、どうする!?」


 桜子を車に収容し終った救急隊員が、その様子を見て口早に声をかけて来る。一刻を争う今の状況で混乱して暴れる者を一緒に救急車には乗せられないので、慎重に健斗の様子を伺っているようだ。


「……」


「どうするんだと訊いているだろ!? 置いて行くぞ、いいのか!?」


 まるで叫ぶような救急隊員の声にハッと我に返った健斗は、それでもまだ焦点の定まらない目で答えた。


「の、乗ります、もう大丈夫です……」 


 その答えを聞いた救急隊員は一瞬確かめるように健斗の顔を覗き込むと、まるで押し込むように彼を救急車に放り込んだのだった。




 

 救急車両の中で寝かされている桜子の腹部には未だ包丁が刺さったままで、上から毛布がかけられているとはいえその盛り上がった様はとても生々しく見える。既に正気に戻っていた健斗はその様子を眉を顰めながら見つめていて、もうそれを無理に引き抜こうとはしなかった。

 それでも彼は意識のない桜子の白い手を握りしめながら絶えずその名前を呼び続けていて、その必死さは隣にいる救急隊員が思わず同情してしまうほどだった。


 そんな中、今までずっと意識のないままぐったりとしていた桜子の目が突然開くと、その青い瞳だけをキョロキョロと動かして周りを見廻し始める。その様子に気付いた健斗が慌てたように彼女の顔を覗き込んだ。


「さ、桜子、気がついたのか!?」 

 

「健斗……」


 彼女がその呼びかけに応えると、隣にいる救急隊員の目が驚きのあまり大きく見開かれた。

 既に危険なほどの出血量と極度に低下している血圧の今の状態では、どう考えても意識を保っていられるわけもなく、ましてや人の呼びかけに応えられられるなど(およ)そあり得る話ではなかったからだ。

 

 しかし実際に目の前の少女は目を開けて少年の顔を見つめているし、その小さな可愛らしい、しかし今では紫色になっている唇を動かしながら必死に声を出そうとしているのだ。

 今まで多くの救急患者を搬送してきたがこのような状態で意識を保っていた例はなく、その様子に彼はただ黙って二人の姿を見つめていることしか出来なかった。

 

 まるで奇跡のように意識を取り戻した桜子だったが、さすがに声を大きく出すことは出来ないらしく、彼女の口に密着させるまでに耳を近づけなければその声を聞き取ることは出来ないようだ。自分の顔を見つめながら口をパクパクと動かす彼女に気がついた健斗は、その耳を彼女の口元へ近づけた。



「健斗……」


「よ、良かった……桜子……意識が戻ったんだな……」


「……いいか、良く聞け」 


 健斗のその呼びかけに応えるように彼女の口の口角が片方だけ上がっている。その皮肉そうな唇の形は彼がよく知る人のものだった。


「……お、叔父さん……?」


「よう、ご明察だな…… ごほっごほっ…… うぅ……」 


 急に咳き込み始めた桜子の身体を救急隊員があわてて押さえつけながら、まるで諌めるように声を出す。


「だ、だめだ、喋っちゃいけない!! 咳き込むとお腹の出血が止まらなくなるぞ!!」


 その言葉から瞬時に深刻な状況を理解した健斗は、秀人に黙るように必死に説得したのだが、彼は全く言うことを聞かずに話し続けようとしている。その様子はまるで最後の言葉を言い残そうとしているようにも見えて、何か嫌な予感を感じさせるものだった。


「うるせえ、いいから喋らせろ……」


 秀人が掠れて上手く聞き取れない声を必死に出していると、その尋常ではない姿を見た救急隊員は遂に口を噤んで何も言わなくなった。もしかすると彼には秀人のその姿が最期の言葉を必死に言い残そうとしているように見えたのかもしれなかった。



「健斗、お前なにあきらめてんだよこのヤロウ……」


「えっ?」 


「お前……あいつに刺されそうになった時、あきらめて目を瞑っただろう……?」


「……」


「あそこでお前がやられれば、次が桜子なのはわかっていたよな……?」


「うっ……」


「お前、桜子を守るんじゃなかったのか……? 一緒に心中するつもりだったのか?」


「うぅ……」


「ごほっ、ごほっ……言っておくが、お前に体当たりをしたのは俺じゃない……桜子だからな……勘違いするなよ」


 

 その言葉に健斗の顔面が蒼白になる。

 遠藤に刺される直前、突然自分の身体が勢いよく地面に倒された事も、そして恐らくそれが桜子の仕業であった事も健斗にはわかっていた。

 しかし必死に遠藤を地面に叩きつけた時には既に彼女の意識は途絶えていたし、桜子一人に本当にそんな事が出来るのか疑問に思った彼は、もしかして自分を助けてくれたのは秀人だったのではないかと思い始めていたのだ。


 しかし秀人の言葉は、それまでぼんやりと健斗の心を捉えていたその疑問に答えていた。


「お前がそんなだからこいつが助けに入っちまったんだぞ……もっとしっかりしろよ……」




 健斗の両目から突然涙が溢れ出て、その顔面を濡らし始める。


 自分に体当たりをしたのは秀人ではなく、桜子だったのだ。


 あの極限の状態で桜子は自分を助けてくれた。

 自分は彼女を守ると誓っていたのに、気付けば逆に守られていた。


 一体自分はこれまで何をしてきたのだろうか。

 守る守ると言いながら、いままでろくに彼女を守れて来なかった。


 いつも後手に回って何も出来なかった。

 気付けばいつも桜子自身が自分の問題を解決していて、結局自分の出番が無いまま終わってばかりだった。


 一体自分は何のために彼女の傍にいるのだろう。

 ただ傍にいるだけで何の役にも立っていないではないか。




 罪悪感と後悔と怒りが混じった複雑な感情が凄まじい勢いで健斗の心を満たしていく。

 ともすればその感情に飲み込まれそうになりながら健斗が秀人の顔を見下ろすと、すでに彼は息も絶え絶えになっていた。


「おい、健斗…… 今回ばかりはちょいとヤバイかもしれん…… 桜子はもうずっと目を覚まさないし、俺ももう限界だ…… 後はお前に任せるから、なんとか上手くやってくれ。頼むぞ……お前は俺の甥なんだ……きっと上手く……やれる……」


 涙を流し続ける甥の姿を見つめていた秀人は、遂に力尽きて静かに目を閉じた。


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― 新着の感想 ―
[一言] 敗因? ①桜子は防犯ブザーを持ち歩かなかった ②桜子を守るのが目的なら、柔道頂上狙いではなく、護身術だった。 ③不審者に遭遇してすぐ自宅(団地内にいた)に電話すべき。 まぁ咄嗟には打ち合わ…
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