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第178話 一度も言ったことのない言葉

 アルバイト帰りの夜道で遠藤と遭遇してから既に一週間が経過していた。


 桜子の安全を考えた場合、本来であれば楓子が車で迎えに行けばいいのだろうが、その車は既に処分していたので今更それは無理な話だったのだ。

 現在の団地に引っ越してからめっきり車に乗ることもなくなり、その維持費と毎月の駐車場代を考えると決して馬鹿にならない金額だったため、楓子の愛車の軽トラは知り合いの電気屋に適価で譲っていたからだ。


 遠藤の件はもちろん警察にも相談していた。

 尋常ではない遠藤の雰囲気と危害を加えられてもおかしくない状況を考えると、既に個人で解決できる問題ではないと感じたため当然のように警察に知らせていたのだ。

 しかし未だ実害が発生していないこと、遠藤の住所、所在が不明であること、実際に四六時中警察官を配置するのが不可能であることを理由に単に相談だけで終わってしまい、何一つ具体的な解決方法を見つけることは出来なかった。

 それでも定期的にアルバイト先や自宅周辺を見回ってくれると言ってはいたが、それがどの程度効果があるのかもわからないし、警察官の手が足りない昨今、本当に見回りをしてくれるかも怪しいところだ。 



 警察にそんな対応をされたので、結局は自力でなんとかするほかなかった。

 楓子と桜子の二人だけではどう考えても遠藤の腕力に叶わないのは目に見えていたので、ここは彼の出番とばかりに健斗に相談をすると、彼は快く、いや、それどころか鼻息を荒くして憤りながら即座に協力を申し出てくれたのだ。

 もともと健斗の柔道部の練習は午後七時には終わっていたので、部活が終わってから電車に乗ってS町駅で下車するとちょうど桜子のバイト終わりの時間の少し前くらいだった。


 桜子のバイト先にはここ数日楓子と健斗が二人で徒歩で迎えに行っていた。しかしその日はどうしても楓子の都合がつかなかったので健斗一人に任せることになっていたのだった。





「健斗、お待たせ」

 

 アルバイト先のファミレスから桜子が出てくると、その背後からは複数の目が健斗の姿を眺めていた。

 数日前から桜子の仕事終わりに彼氏が迎えに来ているとバイト先では話題になっていて、特にその手のゴシップに興味津々の若い女性社員、アルバイトはその話題で盛り上がっていたのだ。


 しかし初日に桜子を迎えに来た健斗の姿を見た女子社員からは、少々困惑している様子が見て取れた。

 透き通るような青い瞳と小さいけれど高い鼻、ふわふわと全体にウェーブがかかった金色の髪を持った身長167センチのスラッと小顔の巨乳美少女を射止めた彼氏なのだから、(さぞ)イケメンなのだろうと勝手に想像していたようなのだが、実際に健斗の姿を見ると皆同じ反応を返すのだ。



 ここ最近で少し伸びたとはいえ、彼の身長は165センチでほぼ止まっていたし、感情が読みにくい細い目も一文字に結ばれた頑固そうな口もお世辞にもイケてるとは言えない。そして見るからに胴長短足の体型にガニ股で歩く姿は如何にも柔道部員である事を物語っていた。

  

 そんな決してイケメンとも言えない、いやむしろ男の容姿にこだわる女子であればむしろ避けるであろう姿の男が桜子の彼氏である事実にも驚いていたのだが、そんな彼に親しげにボディタッチをする彼女の様子と、それに対して表情も動かさずにムッツリとしている健斗の姿を見て、驚きを通り越して何か不可思議なものを見るような目で二人を見ていた。



 しかし彼の名誉のために言わせて貰えば、桜子の姿を見てもただムッツリと無反応でいるようにしか見えない健斗は、実際には単に彼女に見惚れているだけなのだ。ついさっき放課後に彼女に会ったばかりなのに、その姿を見る度に見惚れてしまうのは既に彼の癖のようなものだった。


 今も外見はただ無表情でいるように見えているが、彼の心の中では「あぁ、何度見ても桜子は可愛いなぁ。髪もフワフワだし口も小さいし…… それにしても相変わらず凄い胸だなぁ…… あぁ、触ってみたいなぁ」などと考えていて、また今度彼女のPTSDの後遺症の確認作業をする日を心待ちにしているようだった。


 背後からバイト仲間や社員達の興味津々の視線を浴びていることなど露知らず、桜子はムッツリと押し黙ったままの、その実内心では彼女に見惚れているだけの健斗の腕に自身の腕を絡めると、にこにこと顔に満面の笑みを浮かべながら家路に着いたのだった。





「その遠藤ってヤツなんだけど、相当危ない感じなのか?」


 薄暗い路地を二人で足早に歩きながら健斗が問い掛ける。

 色々と思うところはあるようだが、それでも彼は強豪柔道部の部長を務めるほどなのでさすがに素人相手にそうそう遅れを取るとは思ってはいない。

 しかし、さすがに相手が刃物などを持っていればその実力を発揮することは出来ないだろうし、場合によっては全力で逃げたほうが良いこともあるだろう。

 

 そもそも自分がここにいるのは桜子を守るためであって、遠藤を倒す事が目的ではないのだ。

 だからもしも彼が目の前に現れた時には、二人で一目散に逃げるのが正しいのだろうと思うし、仮に彼が危害を加える素振りを見せればそれを証拠に警察に通報する事もできるのだ。

 

「うん、ちょっと危ない感じかも…… なんて言うか、話が全く通じない感じ? 宇宙人と話をしているみたいかも」 


 健斗の左腕に抱きつきながら桜子が宙を見上げている。

 彼女は楓子が対峙した時の遠藤の様子を思い出しながら一生懸命言葉を選んでいて、その何処か幼く見える姿に、健斗はまたしても見惚れそうになっていた。

 それでも遠藤が何処で待ち伏せているかもわからないし、今も離れた所から見ているかもしれない事を考えると決して気を抜くことは出来ないのだ。そう思うと、ここはさっきから自分の左腕に当たっている彼女の胸の柔らかい感触を味わっているどころではないと思った健斗は、思わず背筋を伸ばしていたのだった。





 結局その日は桜子の自宅のある団地の一角に着くまで遠藤が姿を現す事はなかった。

 健斗が桜子を送るようになってから既に四日が経っていて、それまで一度も遠藤の姿を見ることがなかった二人は、もしかすると何処か気が抜けていたのかも知れない。

 桜子の自宅のある団地の棟の横まで来ると、二人は少し薄暗くなった植え込みの影でどちらからとも無く唇を重ねていた。



「ほう…… お熱いところを恐縮だが、ちょっといいか?」 

 

 その時背後から突然声をかけられた二人は、当初団地の住人に見つかったのかと思って慌ててお互いの身体を離したのだが、次の桜子の言葉を聞いた健斗の顔に一瞬にして緊張が走っていた。


「え、遠藤さん……」


「なに!? こ、こいつが……」


 その言葉に素早く桜子を守るような位置に移動した健斗は、そのままジリジリと後ずさりをしながら鋭く遠藤の様子を探っている。そしてその背後では桜子がブルブルと肩を震わせて身体を小さくしていて、そんな二人の姿を眺めながら、遠藤は小馬鹿にするような口調で口を開いた。



「ふんっ、やっぱりお前か。姫を守る騎士の登場ってところだな。それよりお前ら二人はまだ続いていたんだな。おめでたいことだ」


「な、何の用だ!? 用がないならあっちへ行けよ!!」


 健斗は細くて表情の読みにくい目を更に鋭く細めながら遠藤の様子を伺っている。

 見たところ彼は身長が180センチ弱、体重は90キロ前後の小太りの体型で、もしも自分が正面から素手で向かい合っても、体重差でパワー負けしてしまいそうだと踏んでいた。

 それならばここは全力で逃げるのが一番だろう。



「用があるから声をかけたんだろうが。お前は馬鹿なのか?」


「う、うるさい!! 俺たちはお前に用はないんだよ、さっさとどっか行けよ!!」


「……うるさいヤツだな。まぁいい。俺はお前に訊きたい事があるんだよ。だからその金髪娘とお前だけになる日をずっと待っていたんだからな」 


「なに? 俺に用?」 


 その言葉に怪訝な顔をしながら返事をした健斗を見ながら、遠藤は満足そうな笑みを漏らす。健斗のその返事はすでに遠藤に対して興味を持った証拠だったからだ。

 

「なんだよ、言ってみろよ」


「け、健斗、話に乗っちゃダメだよ……」


 背後にいる桜子の言葉が既に耳に入っていない健斗はまんまと遠藤の術中に嵌っているようで、正面から彼の言葉を待っていた。




「その金髪娘はどうだ? いいのか?」


「……なに? どういう意味だ?」


 健斗には遠藤の言葉の意味がわからなかったようで、不用意にも訊き返していた。その背後では桜子が彼の服の裾を引っ張りながら既に逃げる準備をしているようだ。


「だから、その娘の中は気持ち良いのかと訊いているんだ。お前は耳が悪いのか?」


「……な、なに? 桜子の中……」


 その言葉の意味を一瞬遅れて理解した健斗は、思わず背後の桜子を振り返っていた。

 するとそこには泣きそうな顔をした最愛の恋人がブルブルと震えながら膝を折って小さくなっている姿があり、それを確認した健斗はすぐに正面に向き直ると遠藤を鋭く睨みつける。 



「お前……!!」 


「……ん……? なんだ……? もしかしてお前たち、まだなのか……? ははぁ、そうか、そうか、そりゃあ愉快だ。はははは」


「な、なんだ、何がおかしい!? 笑うな!!」


「ははは、あぁ愉快だ。俺はな、お前に嫉妬していたんだよ。滅多に見ないこんな美少女の彼氏のお前の事が羨ましくてしょうがなかったんだ。お前がこの娘とヤッてるのを想像しただけで、嫉妬で気が狂いそうになったんだよ」


「う、うるさい、黙れ!!」


「そうかそうか…… それじゃあ、まだこの小娘の身体を知らないお前に特別に教えてやる。この娘のあそこは結構毛深いぞ。俺は直接触ったから、その手触りも柔らかさも、そして匂いも……全部知ってるぞ。ふははははは」


「お、お前!! 黙れ、それ以上言うんじゃねぇ!!」


 遠藤のまるで桜子を辱める発言にカッと頭に血が昇った健斗が、一歩、また一歩とにじり寄って行く。

 固く握りしめられたその両手は怒りのためにブルブルと震えていて、最早(もはや)体格で大幅に劣っている自分の事などすっかり頭から抜け落ちているようだ。いまの彼は只只管(ただひたすら)に遠藤を殴り倒す事しか考えていなかった。




 しかしそれこそが遠藤の目的だったのだ。

 健斗と彼の距離が(およ)そ1メートルを切った時、(おもむろ)に遠藤は口を開いた。


「俺はな、この小娘のせいで娘から絶縁されたんだよ。あんなに可愛かった娘が俺の事を変態呼ばわりした挙げ句に自分から俺と他人になる道を選んだんだ。……あぁ、美穂子、俺の可愛い美穂子…… あんなに可愛かったのに……どうして……」


「そんなの知るかよ!! 全部お前のやったことだろうが!!」


 健斗の目の前で急に涙を流し始めた遠藤を見て、それまで怒りに身を震わせながらにじり寄っていた健斗が一瞬正気に戻った。それでもその怒りが収まることは無く、スキあらば殴りつけようと身構えている。

 そんな健斗を見つめた後に、遠藤は健斗の少し離れた背後に(うずくま)る桜子に視線を移すと大声で叫んだ。


「お前は俺から娘を奪ったんだ!! 愛する者を奪われた俺の気持ちがお前にわかるか!? どうせわからないだろうから俺が教えてやる!! 今こうしてな!!」


 そう言うな否や、遠藤がパーカーのポケットに入れていた手を外に出すと、その手には大きな刃物が握られていた。彼の目の前1メートルで対峙していた健斗にはそれが何なのかはっきりと見ることが出来た。




 それは小ぶりの出刃包丁だった。

 小ぶりと言ってもその刃渡りは20センチはありそうだし、もしもそれで刺されでもすれば大怪我、いや、命ですら危険に晒されるだろう。瞬時にそう思ってしまうほどその包丁の輝きは危険なものに見えたのだ。


 出刃包丁を持った遠藤が健斗ににじり寄ってくる。

 つい先程まで自分のほうからにじり寄っていたことも忘れて健斗はジリジリと後退しようとしたのだが、たったそれだけのことなのに実際にはそんなに簡単な事ではなかった。

 人は極度の恐怖に襲われると腰が抜けると言うが、それは本当の事だったことを健斗はいま自分の身をもって体験していたのだ。


 月明かりに鈍い光を反射する出刃包丁の輝きを見た健斗は、瞬時に自分の身体が動かなくなったことを実感していた。いくら頭の中で自分の身体に司令を送っても一向にその身体は言うことを聞かず、どんなに動けと念じてもその脚はジリジリとしか動くことが出来なかった。


 その額には冷たい汗が流れ始め、目はかすみ、口からは声すら出てこない。


 彼の目にはまるでスローモーションのように自分の身体に包丁が吸い込まれようとしている光景が見えていて、何かのドキュメンタリー映像を俯瞰で見ているようなその光景は、妙に現実離れして見えた。


 そして健斗は目を閉じた。




 

 ごめん、桜子。

 俺はお前を守ると言ったのに、それを果たせないかもしれない。


 俺がここで倒れれば、きっと次はお前の番だろう。

 せめて痛みが無ければいいけれど。


 俺はお前が苦しむ顔は見たくないんだ。

 せめて一瞬で終わればいいと思うけど、きっと無理だろう。


 結局お前には何もしてあげることが出来なかったな。

 お前が苦しんでいる時も、ただ見ているだけしかできなかったし。


 でも、俺がお前を好きな気持ちは本物なんだ。

 もちろんお前がそれを信じていないとは思わないけど。


 あぁ、桜子、俺はお前に好きだとは言ったが、この言葉はまだ言ったことがなかったな。


 桜子、愛してる。

 俺はお前を愛しているんだ。


 だからせめて……






 ドンッ!!


 健斗は自身の身体に強い衝撃を覚えると、次の瞬間には地面を転がる自分に気がついた。

 その感覚に慌てて目を開けると、目の前にはもつれ合う桜子と遠藤の姿が見える。


 その光景を見た瞬間、考えるよりも早く身体が動いた健斗は、凄まじい勢いで遠藤の襟と袖を掴むと、そのままの勢いで硬いアスファルトの地面に向けて全力で遠藤の後頭部と背中を叩きつける。

 その動きは、これまで健斗が何千、何万と繰り返してきた柔道の基本技「大外刈」の動きそのままで、後頭部を激しく地面に叩きつけられた遠藤は、おかしな声を上げたきりそのまま動かなくなった。




「さ、桜子、大丈夫か!? 遠藤はもう倒したから大丈……」


 顔を上げた健斗の目の前には、腹部に深々と包丁が刺さったまま倒れている桜子の姿があった。 


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― 新着の感想 ―
[一言] あぁ最強の盾(学生鞄)は役に立たなかったですか、でもこれで正当防衛が成立しますね……帰宅時間が決まってるのに警察が公約通り周囲を巡回してなかったらマスゴミに叩かれる未来が見えます(笑)
[一言] 健人、また守れなかったね… 作者様救いを…救いをください…そろそろ桜子が幸せになっても良いんじゃないでしょうか?と思うのは私のわがままなんだろうか。。。
[良い点] 作者の与える試練やばない…?
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