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第177話 噛み合わない会話

 弁護士の青山と友人達に注意喚起を受けてから、桜子は毎日の登下校の際に自分の周囲のみならず遠くから自分を見つめて来る者にまで気を配るようになっていた。


 それでも彼女たちから教えられた特徴を持った人間は特に見当たらなかったし、遠くから自分を見つめてくる者はそれこそ数え切れないほどいたので、警告されてから数日経つうちにすっかり彼女は警戒することに疲れていた。

 周りに多くの目がある登下校時であれば、彼が実際に手を出すのは難しいだろうと桜子は都合良く無理やり自分を納得させると、いつしか警戒しているつもりでしていない状態になってしまっていたのだった。



 実は桜子は自分に痴漢行為を働いた遠藤の姿を見たことが無かった。

 事件現場では怖くて顔を俯かせている間に気を失ってしまっていたし、その後の事情聴取や現場検証も全て秀人が代行してくれていたからだ。そして裁判自体も未成年の彼女に代わって親権者である楓子が代理出廷していたし、警察も検察も桜子の精神的なケアを考慮して可能な限り遠藤の姿、言動を彼女の見えるところに晒すのを控えていたのだ。


 だから痴漢犯の遠藤に気を付けるようにと言われても、彼がどんな外見をしているのかも知らなかったし、何処で何に注意すればいいのかもわからなかった。

 唯一彼の年齢だけは知っていたが、自分を見つめて来る60歳前後の男性などそれこそ五万といるので、それを一々疑い出すときりがなく、それこそ疑心暗鬼の状態に陥ってしまっていたのだった。 





 そんなある日の午後8時過ぎ、アルバイトが終わった桜子と、彼女を迎えに来た楓子の二人が自宅までの夜道を歩いていると、何やらひたひたと自分達以外の足音が聞こえてくるのに気が付いた。

 始めは偶々(たまたま)自分たちと同じ方向に歩く通行人だと思っていたのだが、常に一定の距離を保ったまま自分たちと同じ曲がり角を曲がり続ける背後の人影に、徐々に恐怖を抱くようになっていった。


 自分たちが小走りに走ればその足音も同じように走り出し、ふと立ち止まればその足音もしなくなる。桜子と楓子は何度もその場で後ろを振り返りたい衝動に駆られたのだが、その時既に自身の心を侵食していた恐怖心に抗えず、彼女たちの感情は後ろを振り向くことを許さなかったのだ。


 それでも楓子は娘を守る母親の立場を思い出しながら必死に勇気をかき集めて後ろを振り返る。


 すると、そこに彼はいた。


 

 


「こんばんは、これは奇遇ですね。これからお帰りですか?」


 それなりに太い路地ではあったが、それでも車も人もあまり通らない静かな道の真ん中で、目深にフードを被った男らしき影が口を開く。周囲には半分壊れかけの街灯が瞬いているだけで、月も出ていない今夜は特に周囲が暗く見えた。

 思い切って後ろを振り返った母親がヒュッと息を飲む音を聞くと、釣られたように桜子も息を飲んでいて、背後から聞こえて来る声の主を確かめようと、彼女も後ろを振り返る。


 そこには背が高く、少々小太りの体格の男が両手をパーカーのポケットに突っ込んだ状態で立っていた。目深に被ったフードがその顔の殆どを隠していて、彼女たちの位置からはその表情を窺うことは出来ない。

 それでも彼が自分たちに対して良い感情を持ちわせていない事は伝わって来るし、顔が見えなくても自分たちを睨みつけている事は不思議とわかった。




「な、なんですか? 私達に何か用ですか? 場合によっては警察を呼びますよ!!」 


 すでに小さく畳んだ身体を震わせ始めた桜子を尻目に、楓子が毅然とした態度で相手を牽制する。

 先ほどまでとは違い、はっきりと相手の姿が見えていればそれほど怖いものでもないらしく、その言葉には勢いがあった。それでも桜子の位置からは母親が微妙に肩を震わせているのがわかった。


「ほぅ…… 一体いつから日本では夜中に散歩をするだけで逮捕されるようになったんだ?」


「……だからと言って私達をつけていればストーカーとして通報できるのよ!!」 


「随分と威勢が良いな。あの裁判の時と同じだな。あの時は本当に世話になった」


 フードを被った男は淡々と話し続ける。そのあまりにも抑揚のない声は逆に聞く者を不安にさせるほどだった。  



「い、一体なんの用ですか? これ以上ついて来ないでください、遠藤さん!!」


 目の前の男は遠藤に間違いないと確信していたのだが、楓子は敢えてその名前を口にしてみた。こちらに正体がバレている事がわかれば、もしかしたら相手が怯むかもしれないと思ったからだ。しかしそんな微かな希望は簡単に打ち砕かれてしまう。


「そうだよ、俺は遠藤だ。ご明察だな。どうせ弁護士あたりから知らされていたんだろう? ご苦労な事だ」


「な、なんでもいいから、とにかくついてこないで下さい!! ついてきたら通報しますよ!!」



 とにかく楓子は、遠藤に自宅の場所を知られるのが怖かった。

 出所して来た犯人に逆恨みされた被害者が、自宅を放火されたり嫌がらせをされる話はよくある話だったし、もとより自宅を知られた時点で色々と詰んでしまうのは目に見えていたからだ。

 身の危険を脅かされる事もそうだが、自宅の周囲を彼のような人間にうろうろされていると思うだけで精神的な安息を失ってしまう気がしたのだ。


 

「ふんっ、なにも家までついて行ったりはしないから心配するな。今はまだそこまでの事をするつもりはないからな…… まぁ、これは知り合い同士の世間話だ。さすがにこんな程度で通報は出来ないだろう?」


「も、もう遅いから私たちは帰るんです。だからあなたももう帰って下さい。あなたが帰れば私たちも帰ります!!」


 相変わらず楓子の肩は小刻みに震えているのだが、それでも彼女は背後に大事な一人娘を隠すように両腕を大きく広げている。しかし背は桜子の方が10センチ近くも高いので、遠藤からは彼女の金色の髪の毛が丸見えになっていた。


「まぁ、そう焦るな。今日は言いたい事を言ったら俺は帰るから、そんなに震えるなよ」


 フードの中で遠藤がニヤリと笑った……ような気がした。


「な、なんですか? 言いたい事があるのなら、さっさと言ってください。私たちはもう帰るんですから!!」


「ふん、では言わせてもらおうか…… そうだな…… 俺はお前たちを許さない、絶対にな」


「な、なにを……」


「そもそもあれは、そこの小娘が始めた事だろう? あんなに短いスカートを穿きやがって、触ってくれと言っているようなものではないか。だから俺がその願いを叶えてやったのに…… クソが!!」


 初めは自分の言いたいことを淡々と口に出していた遠藤だったが、そうしているうちに段々と感情的になってくる。徐々に本性を現し始めた彼を見ていると、楓子と桜子の肩の震えは更に大きくなっていった。



「そ、そんなのあなたが勝手に……」


「うるさい、黙って聞け!! しかも公衆の面前でこの俺を痛めつけやがって!! そんな事が許されるわけ無いだろ、この売女が!!」


「な、なんてことを……」


「しかもせっかくこちらが下手に出て示談の申し入れまでしてやったのに、それを蹴りやがって!! いったい何様のつもりだ、このバカ女!!」 


「な、な、な……」


 それまで肩を震わせながら遠藤の罵倒を聞いていた楓子だったが、次第に眉間にはシワが寄り、その目と眉は釣り上がり始める。後ろで震えている桜子には母親の手の震えが最早(もはや)恐れではなく怒りのためであることがわかった。


「こちらが手を差し伸べてやったんだ!! それなのに、恩を仇で返しやがって、ふざけるなこの糞虫が!!」


「な、な、な、なんですって!? 何を勝手なことばかり言って!! そもそもあなたがうちの大事な娘に手を出したりするからこんな事になったんでしょうが!! このロリコン変態クソ親父!!」


 最初は遠藤の不気味な雰囲気に怯えていた楓子だったが、彼のあまりの言い草に次第に腹が立ってくると思わず感情的に言い返してしまう。事件後も裁判中も決して本人に向かって言うことが叶わなかった思いが今ここに溢れ出てしまい、自分の意思でそれを止めることが出来なかったのだ。

 

「あ、あ、あなたのせいでどれだけうちの娘が辛い目にあったと思っているのよ!! 一人で電車に乗れなくなったり、急にパニックになったり、この子の心の傷は一生残るのよ!! それを……それを……なにが私達を許さないよ、それはこっちの台詞(セリフ)でしょう!? ふ、ふざけんじゃないわよ!!」


「お、お母さん……」


 あまりの剣幕に唇の端を震わせながら夢中で怒鳴り散らす母親を驚きの表情で見つめながら、その瞳の色と同じ青い顔をした桜子が母親の服の裾を引いている。後にも先にもここまで感情を爆発させた母親を見たのは初めてだったし、その様子に圧倒されていたのも事実だったが、それ以上に今は目の前の遠藤の変貌ぶりが気になっていたのだ。


 元々感情を荒げていたとは言え、遠藤はここで楓子に罵倒された事でさらに雰囲気が変わっていた。

 それまではただ感情にまかせて声を荒げている中年親父といった風情だったのが、ここに来て言いようのない不気味な雰囲気を漂わせ始めている。見れば彼の着ているパーカーのポケットが大きく膨らんでいるのがとても気になるし、そこに何かを隠し持っているかと思うと気が気ではなかった。



 

「ぐぬぬぬ…… 貴様ぁ、言うに事欠いてこの俺を批判するのか? 俺はお前らのせいで全てを失ったんだ。仕事はクビになり嫁には逃げられ、娘には縁を切られた。住んでいた家も離婚の慰謝料のカタに取り上げられて今では住む所もない。将来を約束されていたエリートの俺がこんな目に合っているのは全部お前らのせいなんだぞ、それがわかっているのか!? どう責任をとってくれるんだ、このやろう!!」


 遠藤の目が座り始める。

 先程に比べるとその口調も勢いも幾分大人しくなってはいたが、その代わりに何処か不気味な雰囲気が漂っていて、その(およ)そ常識が通じない物言いと一向に噛み合わない会話を聞いていると、彼がすでに正気ではないのではないかと思ってしまう。

 もっともこんな時間にこんな場所で、こんな目的で話しかけてくること自体が既にまともではないと言えるのだが。





「うるせぇぞ!! 今何時だと思ってんだ、このヤロウ!! 夫婦喧嘩なら帰ってからやれ!!」


 突然目の前のアパートの窓が開いて、そこの住人に怒鳴りつけられる。

 慌てて周りを見回せば、その他の窓からも複数の人間が興味津々に覗き見ているのがわかり、その様子に気付いた遠藤は遂にパーカーの膨らみを明らかにしないまま捨て台詞を吐きながら小走りに去って行ったのだった。


「いいか、俺はいつでも傍にいるからな。その気になればお前らの家もすぐにわかるんだ。精々震えて眠るんだな」 


 その背中を呆然と見送った二人だったが、遠藤のその言葉の通り、既に興奮から覚めていた楓子の身体は桜子が心配してしまうほどにガタガタと震えていたのだった。


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